宰相室専任補佐官⑩ 第三会議室の幽霊


 第三会議室はとんでもない量の書類で埋もれていた。

 宰相補佐室の人たちの半数ほどがここにいる。完全に表情を消し、ふらふらしながら書類の山とにらめっこしていた。

 多分、ここにいない残りの半分は補佐室で仕事しているのだろう。


「……な、これ、どうしたんですか?」

「ステファンが悪いのよ、ステファンがっ!!」


 アイリーン課長がウワッと泣く真似をした。


「ステファン先輩?」

「最近、各省で出てきたミスで重大なことに繋がったのがいくつかあったでしょ? あれを宰相閣下に報告したら、そのうち監査を入れた方が良いなってなったのはシャルも知ってると思うけど」

「一か月ほど前に話していた件ですね」


 直近の資料が欲しいのに七年前の書類を持ってきたり、出された数字をさかのぼったところ、全然合っていなかったりして大ごとになったのだ。


「そしたらさぁ~!? ステファンのやつ、先週『そうなると、補佐室もその対象でしょうね』なんて言ってさぁ!? 宰相閣下の前でだよ!? そんなこと言ったらあの人は絶対言うじゃん!? 『当然だな』って! そしたらさ、『そのうち入るかもしれない監査のために、うちもちゃんと整理しておかないといけませんね』って……ミカミ室長が!」



 ミカミ室長は、宰相補佐室の室長。

 つまり、補佐室ナンバー2のアイリーン課長の上司。

 殺伐とした補佐室に似つかわしくなく、いつもニコニコ朗らか。


 見た目が穏やかですっごく補佐室っぽくない方だが、当然のことながら非常に仕事が出来る。的確に仕事の指示を出し、相談に乗り──早めに帰る。

 奥様の体調があまり良くないらしい。

 帰宅が遅くなることが出来ず、補佐室室長の座を降りようとした。だが、部下全員からの猛反対と『私たちが頑張るので! 昼間だけでもいてください!』との説得と、レオン様の全幅の信頼を置かれていることから、唯一早く帰る、補佐室室長の出来上がりらしい。


『聖人ミカミ』と呼ばれ、『鬼宰相』のレオン様が生んだ軋轢を数々収めてきたというのは、文官ならば誰もが知る話。


 レオン様の監査の話は、ゆくゆくは……という話で、今すぐにということではなかったはず。

 でも……鶴の一声ならぬ、ミカミ室長の一声だ。


 勢いよく、すぐにやります! ってものだろう。

 それに後回しにしてもどうしようもないというのもある。

 『暇になったらやります』なんて言ってたら、補佐室には一生その時は来ないだろうから。


「ミカミ室長に言われたら……やるしかないですよね」

「そうなのよぉ~っ! ミカミ室長もいつも通りニコニコしながらおっしゃるから、私たちもホワーッてなって『はい、すぐにやります!』なんて言っちゃって」


 ……補佐室のみんな、ミカミ室長のこと大好きだから。

 白髪に眼鏡。人の良さそうな穏やかな顔。

 非常に優しいけれど、言わなければならないことはしっかり言うし、時には厳しいことも言う。そして部下をしっかりと守ってくれる、愛妻家。

 目立つわけではないが、大変頼れる存在。


「……それでこの現状なのですね」

「そうよぉ~……! 終わらないの。助けて」


 アイリーン課長が両手を合わせて、上目遣いをした。

 ……なんだろう。美女にすっごく素敵におねだりされている感がある。

 これ、男性ならデレッとしてしまうところだろう。

 私だって多少なりともキュンって、ときめいちゃいますし。


 そこから始まった書類整理。

 こっちの書類とあっちの書類を照らし合わせて、日付ごとにちゃんとなってるか確認して、間違ってたら差し替え。


「マジか、ここのページ抜けてる……」

「こっち関係ない書類混ざってるぞー! スワイヤ鉱山のファイル持ってるやつー!」

「ページ抜けてるやつと余計なやつは全部ここに書き出しといてー!」


 至るところで声が飛び交う。皆、目がギンギン。


 ……ちなみに私、ひたすら計算させられてる。

 実は暗算がめちゃくちゃ得意なんです。

 速いし正確なつもりだけど──確認する書類の山は一向に減らない。

 目がっ! シパシパする!


 そのうち、すっかり夜も遅くなり──。


「今日はもういいわ。明日もあるし、一旦帰りましょう……」

「……はぁ。やっと終わった」

「明日もか……」


 皆が片づけの準備を始めた。

 先ほどまでの活気は一気に消え去り、精も根も尽き果てた補佐室メンバーの出来上がり。

 どろどろに溶けていきそうなほど、ぐったりしている。


 ──あ、そっか。

 第三会議室で最近出るという噂の幽霊は……みんなのことか。


 確かに疲れすぎて身体はゆらゆらと揺れてるし、目はうつろだし、顔色は悪いし、歩く姿に勢いなんてものは皆無。なんなら壁を伝いながら歩きそう。

 通常業務の後にこの整理をしているのだから、当然と言えば当然かもしれない。


 理解できた、と一人で頷いた。



「アイリーン課長」

「あー、シャル~……今日はありがとね~……」



 アイリーン課長もすでにふらふらしている。

 スイッチはオフになっているようだ。


「あの、私、明日お休みなんです。なのでもう少しやって帰ろうかと。ちょっとキリが悪いですし」

「……いいのっ!?」


 キラキラと目を輝かせている課長に肩を掴まれ、ガシガシと揺すられた。


「は、はいっ」

「ほんとにありがと~~……っ! シャルほど計算早い人いないからすっごく助かる。鍵は帰りがけに補佐室のステファンに渡しといてもらえる?」


 そう言ってアイリーン課長は私に会議室の鍵を私に渡す。


 ……ステファン先輩は補佐室に絶対いることが前提なんだ。

 まぁ補佐室の主(ぬし)だし……当然いるよね。


「じゃあシャル、よろしくね~! 明日また私たち頑張るから!」

「ミュラーもあんまり無理するなよ」

「一人になるから気を付けてくださいね」


 そう言って、みんな帰って行った。


 ──だだっ広い第三会議室はいきなり音をなくす。

 耳が痛いほどの静寂で、先ほどまでの熱気が一気に冷め、部屋の温度が急激に落ちた気がしている。


「……よし、やろう」


 ひたすら計算を繰り返す。

 この書類が終われば、次の書類。また次の書類。

 もう、他の省の人も残っている人などいないだろう。

 ポツンと取り残されたようで。


「……一人じゃないし。補佐室ではまだステファン先輩とか、他にも仕事してるし」


 補佐室には徹夜組が必ずいるのだ。

 ステファン室長は、多分補佐室が家だから数にはカウントしないけど。

 働いてるのは自分だけじゃないと奮い立たせる。


 いつもと違う場所だから。使ったことのない部屋だから。

 ……すごく違和感がある。慣れてないというべきか。


 ふと、レオン様が言っていた「出るらしいぞ」という言葉がよみがえった。


「幽霊は絶対疲れ果てた補佐室の人たちだもん。財政省のときも補佐室には生ける屍が出るって有名だったし」


 そうだと分かっていながらも、なんとなく背筋がゾクッとしてしまう。

 気のせい気のせいと思いながら、その後も仕事をしていたら……あまりの目の疲れ具合に眉間を揉む。


「あ、これ駄目だ。一回目を休めよ」


 十分間、目をつぶっておくだけで、目の疲労感は段違いに良くなる。

 十分だけ……と目をつぶり、机に突っ伏した。

 けれど私は忘れていた。

 ……すでに深夜をとっくに回っていたということを。




 ──暗い会議室の中、わずかな月光が窓から差し込んでいる。

 ドアの向こうで何かが動いている気配がする。風の音かと思ったけれど、重々しい空気にごくりと喉を鳴らした。

 誰もいないはずの廊下を、黒い影がコツコツと足音を鳴らしながら、近づいてくる。ドアノブがゆっくりと回され、キィ……という古びた音が静かな夜に不気味に響き渡った。

 ドアが開き、真っ黒い影が私に近づいてくる。冷たい汗が背中を流れる。


 ──いやだ。


 どんどん近づいてくる黒い影に、恐怖で動くことができない。


 ──いやだ。来ないで。


 黒い影が……私を覗き込む。

 その顔には──目と鼻と口がなかった。

 ──叫びたいのに、恐怖で声が出ない。

 心臓は激しく鼓動し、喉の奥で叫び声が詰まってる。

 黒い影は私の背中に覆いかぶさり──。


「きゃあっ!!」


 その感触に、驚愕の叫び声と共に跳ね起きた。

 荒い息のまま周りをみると、会議室の灯りはついたままで。



 ──きょろきょろと視線を動かすと……レオン様が隣に立っている。

 目を丸くし口をポカンと開けるという、珍しい表情で彼は硬直していた。



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