宰相室専任補佐官⑨ 鉄壁のミュラー

「おや、きみは確か宰相のとこの」

「……宰相室専任補佐官のミュラーです」



 ──なぜ、なぜ今、一回転したのか。

 ここはダンス会場か。


 そういえば前も回転していた気がする。

 第二王子アルノー殿下のご登場だ。

 頭を下げたままだが、なにかがシュパっ、シュパっと風を切る音がする。

 きっと……彼の手の動き。


 決して顔をあげてはならない。

 今ここに、負けられない戦いが開幕した……かもしれない。


 第二王子アルノー殿下は、護衛もつけずにお一人で私の前に立つ。

 このままさっさと通り過ぎていただきたい、と心から祈っている……が。



「ミュラー……ちょっと顔を上げてみよ」

「──はい」



 非常に気が進まないのは、噴き出してしまわないかと心配しているからだが、ここは心を無にしようと決め、体を起こした。

 黒髪に金色の瞳の、王族特有の綺麗な顔立ちのアルノー殿下は、じっと私の顔を見つめた後……パッと私の眼鏡を奪い取った。



「っっ!? なにをなさるのですか!?」



 眼鏡に手を触れるとは……! レオン様に見られたら島に飛ばされてしまうかもしれないのに!

 ……なんてことはないだろうけど。


 彼はジッと私の顔を見つめ、顎に手をやった。



「…………パトリック宰相の──嫁ではないか??」



 ──なんと一発で見破られた。

 唖然としそうになるところを、「はい? なんのことですか?」と知らぬ存ぜぬで何食わぬ顔を決め込む。



「ふっ、この俺の目を誤魔化せると思うな! 女性の顔は一瞬で覚えるという類い稀な才能を与えられし男──それが俺!」



 ドヤ顔でシュピっ、シュピンっ! と忙しなく動く手とその内容に気が抜けてしまう。

 レオン様との結婚式にアルノー殿下もたしかに来ていた。

 だが着飾ったあの顔と、今の地味スタイルを一致させるとは……ある意味すごい特技かもしれない。


 ──でも女性限定なんだ。女好きは確定。


 まぁ最初に会議で挨拶した時は全く気づいていなかったようだけど。



「で、なぜ公爵夫人が変装して文官をしているのだ?」

「……仕事が趣味でして」

「ほう、それは奇特な……だが夫婦揃って同じ部屋……なかなかやりにくいのでは? やはり俺の側近にしてやろうか?」



 少し心配そうな顔をしたのはほんの一瞬で、光栄だと思え、とばかりに手も表情も変化させていく殿下に、私はついに陥落し「ふっ!」と笑ってしまった。


 どうやら悪い人ではないらしい。



「いえ、側近は結構です。それに、宰相閣下にも秘密で働いておりますので。一応変装してますし」

「宰相に秘密? それは────……あぁっ! 待ち合わせに遅れてしまう! すまないなミュラー。愛しのアイシャを待たせてしまうからもう行くが、またゆっくりと話そう! 大丈夫だ。秘密を守る男……それが俺っ! ではさらばっ!」



 またしても、額に指を二本当て私に向かいピッとした後、バチンっとウインク……らしき両眼をつぶり、クルクル回りながら去っていった。

 どうやらアイシャ様という恋人がいるようだ。


 嵐が通り過ぎたように静まり返り、自分の正体がバレてしまったと言うのにどうも危機感を持つこともできず、「──まぁ……いっか」という気にさせられてしまった。


 実際のところ、ここまで長い間隠し通せるとは思っていなかった。

 元々は父から受験を阻止されないために使った偽名。レオン様の改革により、爵位による差別が禁止されていたため、爵位を公表する機会すらないままここまでいただけの、幸運。


「まぁ……バレちゃったら働きにくくなるのは確かなんだけど」


 夫であるレオン様も妻が自分の補佐官だと知れば、ぎこちない態度に変わってしまうのだろうなと、胸がチクリと痛んだ。



◇◇


 宰相室の外にはバルコニーがある。

 バルコニーに繋がる大きな窓が開け放たれることはないけれど、昼下がりの穏やかな光が木々を輝かせているのが見えた。

 今日はラップサンドをレオン様と共に食べている。

 お昼一緒になることは毎日ではない。レオン様がいない時が頻繁にあるからだ。


 長官級だけの会議やクロード殿下との打ち合わせなど、私が立ち会えないものが最近非常に増えている。

 何かあるのだろうか? と思うけれど、御前会議で公表されている内容に長官級だけで集まらなければならないようなことはなかったし……ということは末端の私が立ち入るべきではないのだろう。

 その辺は割り切っている。

 上には上の悩みが、下には下の悩みがあるもの。


 なので、久々の一緒のお昼ご飯。

 ……とはいえ、お互い食事しながら資料を読んでいるのだけど。



「──シャルロット。そういえば第三会議室の噂、知ってるか?」



 書類から目を上げれば、ラップサンドを食べ終わったレオン様がこちらを見てにやりと笑っていた。

 口の中に入っていた最後のひとかけを必死で咀嚼してから、首を傾げた。


 第三会議室といえば、補佐室ではあまり使わない会議室。



「噂、ですか?」

「そう。最近数人に言われたんだ。──出るらしいぞ」

「出るって……もしかして」

「幽霊」


 ……幽霊。

 レオン様の口からその言葉が出ると、すごく違和感が残る。

 幽霊とか、絶対信じてなさそう。


 じとっと彼の顔を見ると、目が弧を描き、口元がニヨニヨしていた。


「驚かそうと思っても駄目ですよ」

「なんだ、おもしろくない。怖がるかと思ったのに」


 プイッと目を逸らしながら私が言うと、レオン様はくつくつと忍び笑いをする。


 ──やっぱりからかおうとしていたんだ。

 ふふん。そんなことでもうだまされたりしないし、驚いたりしないんだから。

 数々の試練を乗り越えて、私の精神は鉄壁ガードを手に入れた。


「もうそんなことで動揺したりしません」

「なるほど? ミュラー補佐官の異名はそのうち、『鉄壁のミュラー』とかになるのかな?」

「……素敵ですね」


 ──鉄壁のミュラー!

 なんか、かっこいい!!

 きりっとしていて、すっごく仕事できそう!

 思わずそう呼ばれている自分を想像してしまった。

 アイリーン課長みたいに皆に頼りにされて、眼鏡クイッと上げながら「なにか?」とクールに言うのだ。

 そして「そちらの案件はこれで解決です」「これはここと合同で」と次から次にさばいていく……!


「では──どんなことが起きても動揺しないようにしないとな?」

「そうですね!」


 夢を馳せていたら、またしても笑われた。

 まぁ私、全然クールキャラではないのだけど。

 ただの地味文官だし。分かっているのだけど!

 夢見たっていいじゃない。


「では鉄壁のミュラー補佐官。本日の菓子の時間でございますよ」


 レオン様が立ち上がり、執事のように胸元に手を当てながらお辞儀をした。

 その様子に、思わず胸がどくんと高鳴った。


 な、なんてことをするの……っ。

 こんな執事がいたら、冷静でなんていられるわけがない。

 手にお菓子の袋を持ったまま、妖艶に微笑みながら私のそばまで来たレオン様は、「さぁ、目を閉じて?」と囁く。


 ──色気が! やばいんですよ!

 その垂れ流してるやつをひっこめてください!

 ……出会ったときから気づいていたけど。

 今、確実に実感している。

 ──私の夫の色気、破壊級。


 これ以上見ていると顔が赤くなってしまいそうだ、と目をギュッとつぶった。


「……シャルロット、口も開けないと」

「……っっっ!!」


 耳っ!!

 耳元で囁かれた!

 思わず飛び跳ねてしまった。

 ……鉄壁のミュラー補佐官になれるのは、はるか遠い未来にしか存在しないらしい。今はとてもじゃないけど無理。未来の私に期待する。


 あーんと口を開けていると、バターと砂糖の甘い香りがふわりと広がり、固形物が入ってきた。

 そっとかみしめると、はかないほどの軽やかな崩れ方に驚かされた。

 口の中でホロホロと解ける感触。ナッツの細かい粒がアクセントになってる。

 

 これもなんておいしいんだろう!

 用意してくれるもの、いつもすっごく美味しい。

 思わず顔がほころぶ。


「材料は……」


 分かる限りの材料を告げようとしたときに、宰相室の扉がノックされた。

 驚いた私はパッと目を開け、レオン様を見た。


「……今日は中断だな。また今度」


 残念そうに笑みを浮かべたレオン様にコクリと頷いた。

 宰相室に入ってきたのは、アイリーン課長だった。


「今日の夜、シャル借りること出来ないかしら? どうしても作業が終わらなくて……」


 私は問題なさそうだけど……レオン様をチラリとみる。

 彼はコクリと頷き、「ああ、問題ない」とアイリーン課長に告げた。


「良かった~! 今総出で作業してるんだけど終わらなくて。じゃあこっち片付き次第お願いね。第三会議室だから!」

「はい、承知しました!」


 そういったあと気づいた。

 ……第三会議室? と。



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