宰相室専任補佐官⑦ 抱擁と、島。

 ──今このような状況に陥っているのは……あのキス事件の翌日に遡る。


 翌朝、いつもより微笑み控えめでレオン様が宰相室に入ってきた直後、彼は即座に謝罪を口にした。



「シャルロット。昨日はきみ、心ここに在らずだったから……もう一度謝罪させてくれ。昨日は急いでいたとはいえ、了承もなく本当に申し訳なかった」



 ……たしかに心ここに在らずだった、というより、もうはるか彼方まで心が出張していて、気付いたら屋敷に帰り着き、お風呂に入っていた。


 でもっ!

 あれくらい。なんてことない、ヘノカッパ。

 キスなど、世の中では軽いもの……らしいしっ!?

 浮気になんてならないほどの皮膚接触らしいし!



「いえ、こちらこそご迷惑をおかけいたしました。笑いを止めていただき感謝しています」

「だが……」

「──あれくらい、よくあることですからお気になさらないでください」

 


 ……今なら分かるが、ここで微笑みながら強がったのがいけなかった。

 私にははじめてのことだったし、よくあるはずはないのだが、世間一般ではそうらしいから、という私の強がり。


 その瞬間に、一気に部屋の空気がひんやりとしてきたのを感じ、ヒュッと縮み上がってしまう。


「…………へぇ?」


 レオン様の笑顔が……怖い。

 鬼モードになっている……! なぜ!?


「……なるほど。口づけは挨拶程度、ね。つまりきみは──相手が誰であろうとも、あの程度はよくある挨拶ということだな?」

「え、えぇ、まぁ……」


 そんな経験などあるわけがない。

 あるわけがないのだが、ここはレディとして華麗に受け流すべきところだろう。

 私とて少しは大人になったのだ。大人の女の器をそろそろ出していくべきだと……そう思って返事をしたのに。

 レオン様はさらに笑みを深め、迫力が増した。

 ──部屋の気温もさらに低くなっているような気がする。


 これはもしかして……怒っている!?

 なんで!?


「……そうか。よくあることなら、これからお互いが部屋にいて部屋から出るときは──抱擁することにしよう」

「…………はい? 抱擁?」


 彼のあまりの唐突な提案に、私は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていると思う。

 だって完全に理解不能だ。なぜいきなり抱擁?


「あぁ。この前シャルロットを抱擁したら、無性に癒されたのだ。毎回していたらさらに癒されて疲労感も取れることだろう」

「……いえ、あの、それはどうかと……?」



 清々しい笑顔で詰め寄ってくる彼に、何かの危険信号がずっと鳴っている気がして、後ずさりをする。



「口づけが挨拶程度ならば、抱擁くらいきみにとってはなんでもないことなのだろう? それに抱擁をすることで瞑想状態のような癒しや安らぎが得られるのはもちろん知っているとは思うが、免疫力の向上やストレス・不安感の解消にも繋がるという研究結果が既に出ているから抱擁することは理にかなっている。ならば、それを活用しない方が論理的ではないと思わないか?」



 レオン様は早口で息継ぎすらなく一気にまくしたて何を言っているかほとんどわからないが、あまりの迫力に頷くしかないような。

 混乱して「……そ、そう、なのです……かね?」と言ってしまったのは失態だった。



「私に抱擁されて嫌悪感があったか?」

「──いえ、あの、それは全くなかった、ですが……でも」



 むしろ思い出して身悶えていた。

 脳裏にあの時の香りやあたたかさが一気に呼び起こされ、火がついたように体が熱くなる。

 そんな私を見て少しだけ固まったレオン様は、そのあとあらぬ方向を見ながら顎に手を当て何かを思案し始めた。



「──抱擁にプラスで口付けも加えるのと抱擁だけなのと、どちらが良いだろうか……口付けにも様々な有効な研究結果が出ているしな。挨拶程度らしいから、口付けも加えた方が効率が」



 うーん、と一人でぶつぶつととんでもないことを言う彼の声はなかなかに大きく、私はつい口走ってしまった。



「……っ!? ほ、抱擁で! 抱擁だけでお願いしますっ!!」



 毎回口付けだなんて、身が持たない!


 咄嗟に口に出してしまい、ハッと自分の口を両手で押さえたのだが──すでに後の祭り。

 ニンマリするレオン様に詰め寄られ、手を広げられた。



「じゃあ練習だ。はい、おいで」

「…………っっ!!」



 また、してやられてしまった!

 小娘の私を意のままに動かすなど、レオン様には朝飯前だろう。


 特に私にはこういったことに全くと言っていいほど、耐性がないのだから……いや、違う。これまでだってお誘いが皆無だったわけではない。


 学院時代は地味変装をしていなかったわけだからお誘いも多々あり、文官になってからは地味さによりチョロいと思われたのか、財政省時代に何度か誘われたことだってあった。(ちなみに宰相補佐室勤務のときは、激務すぎて皆死にかけているからそれどころではない)


 全て気にもならないほど相手にしていなかっただけなのだけど、どうもレオン様相手になると、実家の家訓『毅然と、自信を持って』というモットーはすぐに崩れ落ちてしまうようだ。



 緊張して動けないでいると、彼は一気に距離を詰めた。何をされるのかビクビクしていたが、ぽふっと私の頭に手を乗せた。

 何度も優しく撫でられていると、次第に緊張は溶けてきたと思ったら、今度は彼の顔がどんどん近づいてきて、目の前。

 海のような濃く青い瞳に自分の姿が映し出されているのが確認できるほどで、彼の彫りの深い端正な顔立ちや、その薄い唇から目が離せず、これ以上はないと言うほど心拍数が高まる。


 またキスされるのか!? と思っていると、レオン様は私の耳元に口を持っていき、その低く頭の奥まで染み渡るような声で囁いた。



「シャルロットがちゃんとしてくれないと……キスも加えてしまうよ?」

「……っっ!?」

「……あ、もしかしてキスもして欲しかったのか?」



 ──その声はあまりに色気が溢れていて、咄嗟に目の前の胸に私は飛びついた。


 先ほどまで「口付け」と言っていたのに「キス」呼びになっている!

 それが色っぽすぎて、抱きつく方を選んでしまった。



「──そう。よく出来た」



 ふわっと私の身体に両腕が回され、優しく、それでいて徐々に力を込めたレオン様に、この胸の高鳴りが聞こえてしまうのではないかとガチっと固まってしまう。

 それなのに。

 抱きしめながら頭を撫でる彼に、次第に緊張はほぐれ、いつの間にか安心感に包み込まれている。


 ──これが、彼の言っていた「抱擁の効果」というものなのだろうか。


 どれくらいそうしていたのだろうか。

 多分ほんの短い時間だったはずなのに、頭はボーッとし、ホワホワした気持ちに包まれている。


 パッと手を離された時は、もう寝る前のようなふわふわした状態になっている気がする。



「どうだった? 私は癒されたが、シャルロットは?」

「……はい……良かった、です」

「じゃあこれから毎回すること。もちろん、人がいない時限定で」

「はい……」

「ん、良い子だ。さぁ仕事を始めよう」



 そう言って機嫌が良さそうに席についたレオン様に、しばらくして正気に戻った私は『な、なんでこうなった!?』と頭を抱えるのだった。



 ────その結果、部屋を出るたびに『一抱擁』。


 宰相室に私たち以外に誰もおらず、二人が同時に部屋にいて、片方が部屋を出るとき限定ではあるが。


 抱き合えば落ち着くのに、抱擁される前は恥ずかしくて仕方がないという今の状態になっている。


 そしてレオン様は……絶対に自分から先に抱きしめない。

 私がその胸にコテンと顔を寄せるのを笑顔で待っている。

 どうせなら一思いに、向こうからぎゅっとしてくれれば恥ずかしさも軽減するのに、そうしてくれない。


 今日も今日とて、追い詰められた結果、おずおずとその胸に顔を寄せるのだった──。


 


◆◆◆



 財政省1課に立ち寄り、ファイルを借りる。

 すると二人の先輩が寄ってきた。



「お疲れ。ミュラー、知ってるか? トニオのやつ、島に飛ばされたんだよ」

「……え、そうなのですか?」

「おや、ミュラーは知らなかったのですか? どうやら彼は宰相閣下のご機嫌を損ねたようで」

「そうそう、ずっと『怒らせてしまった!もうダメだ!』って言ってたよな」

「……そうなのですね」



 トニオ・ベスコ。

 以前私の眼鏡に手を触れたところをレオン様に見つけられた、財政省の先輩だ。


 どうやら本当に左遷されてしまったらしい。

 ──私の……私の眼鏡に手を触れたばかりに。



「でもあいつ、年々仕事やる気無くしてたからなー。いかに要領よくやるかってことに重きを置きすぎて、適当なところ多かったから。最近はよくさぼってたし」

「ですね。どんどん人に仕事を振っては手柄は自分のものにしてましたけど、ちゃんと皆分かってましたからね。宰相閣下の耳にも入っていたのでしょう」


 やはりあの時、トニオ先輩が急ぎではない書類を持ってきていたのは、レオン様が言っていた通り、サボりだったようだ。

 さすがレオン様。よくご存じだ。


 眼鏡のせいだけじゃなかった。


「それにして……島ですか」

「ああ。温暖で過ごしやすい場所らしいぞ。あいつはひたすら嘆いてたけど」

「そうですよね。トニオ先輩、派手なものがお好きでしたものね……」

「島では無用の長物だろうな」


 先輩たちが遠い目をした。

 ちょうどそこには、観光課から回ってきたバカンスのポスターが貼ってあった。

 最近開発され、一大リゾート地になっている話題の場所。

『リゾートの極み。青い海と白い砂浜が広がるパラダイス』のキャッチコピーがでかでかと書かれている。

 温暖な気候で、島……。


「もしかして……あんな感じのところでしょうか?」


 それなら全然問題ないではないか。

 目を輝かせた私に、先輩たちが冷めた視線を向けた。


「……ミュラー。それなら俺だって喜んで行くから」

「そんなわけないだろう。あいつが行くところはホテルなんてないし、牧羊が有名でど田舎……いや、あー……えっと。……大変のどかなところだ」



 ……先輩はなんとか濁したようだ。

 私は微かな愛想笑いをしつつ、頷いた。

 何も言えることがない……。


 トニオ先輩……新しい家族と仲良くしてください。

 そして頑張って戻ってきてください。

 今度は眼鏡、触らないでください。


 遠くの島で泣きながら手を振るトニオ先輩の顔が浮かんだ。

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