宰相室専任補佐官⑥ 浮気ではないのか問題



「……奥様、大丈夫ですか?」

「…………え? あれ? 私いつの間に帰ってきたの?」


 侍女のターニャに声をかけられ、ようやく我に返った私は、現在屋敷にて入浴中だった。


 時間が飛んでいる。あのあとからの記憶がない。

 それくらい私は頭が真っ白だった。


(……キス? あれって、キス……? 私、レオン様とキスした? でも、笑いを止めるためだったから、あれは──人命救助のようなもの? 確かに笑い死にしそうではあったけども!?)



 グルグルと頭の中がキスで埋め尽くされ、カァっと頬が赤くなる。


 もう三十歳を超えたレオン様は、激務で睡眠不足なはずなのに、肌のキメは細かいしかっこいいし色気に満ち溢れている。


(いやいや、そんなことどうだって良い!! よ、良くはないけど! とりあえず良い! ここで重要なのは、レオン様は人命救助で、き……キ、キス、するってことじゃない!? キスって、浮気じゃないの!?)



 浮気しないって、裏切ったりしないって言ってたのに。


 ……誰が誰に対しての浮気なんだか、いささか複雑であるが。


『クリスティーヌがシャルロットだと知らないレオン様が、人命救助枠とはいえ、シャルロットとキスをするのは浮気ではないのか問題』である。

 いささか長い。


 そもそも夫婦だけど、クリスティーヌともキスなんてしてないのだし?

 ほっぺにキスしかしてないのだし?


 もしかして──キスって、浮気に入らないくらい世間では軽い扱いなのだろうか。

 自分が恋愛系を忌避しまくった結果、そういった話題にひどく疎いのは自覚している。


 あまりに私がぼーっとしていたため、ターニャは心配したのだろう。

 ……そうだ。ターニャに聞こう。



「…………ターニャ。ちょっと聞きたいのだけど」

「はい奥様、なんでしょう?」



 私の髪の毛に香油を塗り込みながら返事をしたターニャ。

 そのまま首の後ろをぐりぐりと揉み、全ての指に力を入れ移動させながら、頭頂部までマッサージしてくれる。



「あの……あのね? き……き、き、キ、キスって誰とでもするものなのっ!?」

「──なんとまぁ」



 一瞬頭にグリッと力が入り強く力を入れすぎだと思う。ターニャは動揺したようだ。



「奥様。質問にイエスかノーでお答えください。キスとは、頬ですか?」

「の、ノー……」

「……唇ですか?」

「…………イエ、ス」

「今日のお話というのは見ればわかりますが……職場ででしょうか」

「…………」



 これ、イエスって言ったら私が浮気したみたいになってしまわないだろうか。

 レオン様と同じ職場だということは屋敷の皆に伝えてないわけだし、浮気者の奥様になってしまう。



「──いえ、答えずとも大丈夫です。差し出がましいことをお尋ねいたしました。申し訳ございません」



 ターニャに浮気者奥様のレッテルを張られてしまったかと、内心びくびくしている。

 ほとんど交流がない上に、浮気者の奥様……私が一番嫌なタイプではないか!


 ──ちが、違うの! 相手は一応旦那様で夫なの。私のこと妻だとは知らないんだけどね!?


 そう言いたいのに、言えない……。私たちの契約婚の馴れ初めからしないといけなくなる。


 ……もしかしてだけど──レオン様ってシャルロットのこと、妻だって知ってたりする?

 いや、まさか。それなら普通、私に言うはずよね……?

 ということは……シャルロット・ミュラーがクリスティーヌだとは知らないということで──間違ってない、はず。

 

 じゃあ──やっぱり妻じゃない相手にキスしちゃダメじゃない?(妻だけど)


 ターニャは私の髪を湯で流しながら、しばらくしてから静かに言った。



「人によると思いますよ。この時代ですから軽くなさる方もおいででしょうし、その逆もまた。軽くなさる方からすれば、この程度、とお思いの方もいらっしゃるでしょう」

「…………そう、なの」



 自分が何の経験もないだけで、やはりキスなど──今の時代はその程度のもの。

 ではあのキスにも、レオン様にとっては大した意味などなく、単純に『部下』の笑いを止めるためのものだったのは確実。


 なんだか胸にぽっかりと穴が開いたような、なんとも言い難い気持ちで。

 ほんの少し苦笑しながら、目を伏せた。



「……ターニャ。今日はね、あまり疲れていないからマッサージはもういいわ。早めに寝ることにするから」

「──かしこまりました」

 


 所詮、顔すら覚えられてない契約婚の相手。

 まだシャルロットの方がクリスティーヌよりもレオン様と仲が良い。

 心の片隅で──実は期待していたのだろうか。

 ……私のことを妻だと知っていて、だからこんなに優しくしてくれるんだって。

 そんなわけ、あるはずないのに。


 いまどきキスに意味なんてなかった。

 それなら、シャルロットにキスをしても浮気とはみなされないということだろう。


 ──クリスティーヌもシャルロットも自分に違いないのに、シャルロットがなぜか羨ましく感じる。


 髪を乾かしてもらいながら、鏡の中に映る眼鏡のないクリスティーヌの姿はどこかうつろで、所在なさげに見えた。

 ターニャが「それでは失礼いたします」と退室した。

 

 鏡の前に座ったままの私は、口付けられた唇にそっと指を這わせた。

 ……あの時の感触が蘇ってくる。

 柔らかくて、あったかくて──あの時は何も考えられなかったけど、今思い出してみても。


「──全然嫌じゃなかった」


 戸惑いも混乱もあるけれど……嫌だったわけではない。

 コロンだろうか、柑橘系とほんの少しのムスクのような香りも、すっぽりと私を包み込み抱きしめられた感触も……。



「…………あれ? 私……だ、抱きしめられてない? あ、自分から抱きついたのか!? ──もう……もうっっ! アルノー殿下さえ変な動きしなかったらあんなことにならなかったのにっ!」



 笑いのあまりすっかり忘れていたが、キスの前にすでに思いっきり抱きしめられていた。

 自分の失態が恥ずかしくてたまらず、ベッドにダイブしてゴロゴロと転がり身悶える。



 しばらくしてようやく──『キスとは浮気にも当たらない程度の皮膚接触であり、あれは笑い死にしかけている部下を仕事に間に合わせるため。つまり浮気ではないから問題ない!』と結論づけ──スンと真顔になり「……もう寝よ」と目を閉じたのだった。



◆◆



「今日のスケジュールは以上となります。午前の会議は私は出席しないということでよろしいでしょうか」

「あぁ、これは長官級だけでおこなうから大丈夫だ」

「かしこまりました。私は各省に届け物をしてきますね」



 宰相室で書類の仕分けをしたのち、本日のスケジュール確認を行う。

 補佐官や側近を排して首脳のみの会議が少し前から頻繁に増えているため、参加しないでよい会議も多々あり、その間は他の仕事をしたり各省を回ったりしている。


 そんな私は、先日のキス事件なんて当然のようにとっくに華麗にスルーしている。……しているったらしている。



「うん、いっておいで。頼んだ」

「なにか他に届け物ありますか?」

「ないよ。──じゃあ、はい」

「…………」



 レオン様は清々しい笑顔を見せながら、私に向かい軽く両手を広げる。

 ためらい、じりじりと一歩ずつ後退すれば、妙な迫力を持って彼は一歩ずつこちらに近づく。

 ついには宰相室の奥の壁に背中が当たり、逃げ場を失った私はさながら肉食獣に追われている小動物。


 ……唯一違うのは──私の顔がきっと赤く染まっていることだけだろう。





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