宰相室専任補佐官④ 眼鏡に触れてはならない
違うんです、と否定したいが、そうするとなにかやましいことでもしていた言い訳のようにも感じられるのでは、と最適な答えが見つからない。
真横にいるトニオ先輩は、冷や汗を流し下を見つめ「いや、あの……書類を持ってきただけで」と口籠っている。
レオン様はゆっくりと部屋に入り扉を閉め、腕組みをした。
スッと口元を緩めたけれど、部屋の温度が三度ほど下がった気がする。
「財政省1課トニオ・ベスコだな。ベスコ男爵家次男。学院時代に恋愛結婚したが半年前に奥方と別れ即再婚。現在新しい奥方はもうすぐ出産予定。計算が合わないがまぁ良い。年々査定が下がり続け、あと一つ下がれば自分が降格になるというのは知っているか?」
「──えっ!?」
「私の専任補佐官に手を出すとは……なかなか良い度胸をしているな。その意気込みだけは認めてやろう」
「い、いえ、あのっ、違うんですっ、宰相閣下、自分はそういうつもりじゃ」
「査定を楽しみにしておくと良いだろう。地方出向にも空きがあるようだしな。牛と馬に囲まれて、子育てするにはもってこいの場所を見繕ってやろう」
ずっと良い笑顔で話す彼からはドス黒いオーラが漂い、私はようやく『これが鬼の宰相パトリック』ということを知った。
「微笑まれる方が怖い」「目が全く笑ってない」とよく聞いていたのだ。
初めて会ったあの日「全ての貴族の情報は頭に入っている」と言っていたが、ここまですらすら言われた方は、もう恐怖しかないはず。
さらに長身から繰り出す、見下した微笑み。
蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことで、青ざめ震えるトニオ先輩。
どの省でもそうだが、1課に所属する人たちはエリート意識が強い人が多い。
入省と同時に1課配属になった人はさらにその傾向が強くなるのは、当然と言えば当然かもしれない。
9課ならともかく、1課から地方に出向など完全に左遷なのだから、喜ぶ人はいないだろう。
トニオ先輩は口をパクパクとさせながらも、これ以上何か言ったら物理的に首がなくなるかもしれないと、「……申し訳、ございませんでした……」と謝罪をし、静かに去っていった。
言い訳を……するべきか一瞬にして考えが張り巡らされた。
でも、何に対して?
そう考えているうちに、声をかけようとして……かけ損ねた。
レオン様は何も言わず私の机の前を通り過ぎ、自分の執務机に座ったあと「シャルロット、おいで」と言った。
……仕事中にふざけていたと思われたくない。
先輩の誘いに喜んでいたなんて、誤解されたくない。
私のことを妻だと知らないとしても、あの時の契約を裏切っただなんて微塵も思われたくなくて、でも何と言ったら良いかわからず、唇を噛み締めた。
小さく「はい」と返事をし、彼のそばに向かう。
断罪される間際の罪人のように心は重く、それでいて茶化して誤魔化すことも、面と向かって言い訳することも出来ないでいる。
私たちはただの上司と部下だけど、本当は契約上の夫婦で。
──彼はそんなこと、気にもしていないし知りもしないのに。
「右手を出して」
「……はい」
意味もわからずおずおずと右手を出す。
もしかして退職勧告とか異動通知でも渡されるのだろうかと、差し出した手が微かに震えてしまう。
彼は私のその手をとり──ハンカチで拭き始めた。
「え」
「──え、じゃないよ。もっと早く毅然と断りなさい。触られてどうするんだ。ああいうときは殴っても良い。私が不問にしてやる」
ムッとした顔で念入りに私の手を拭くレオン様は、どうやら先ほどトニオ先輩に触られた場所を拭いてくれているようだ。
(怒って、ない)
ふわっと胸に溜まった重い鉛がほぐれていくような気がして、不意に泣きたくなったが……なんとか耐えた。
あの光景を見られて、彼からの信頼を失ってしまうのを恐れていたのだと気付いた。
「眼鏡も拭いてあげるから貸して」
レオン様はメガネ拭き用のクロスを引き出しから取り出し、片手を私の顔の前に差し出す。
「……眼鏡ですか? じ、自分で拭けますよ」
「いいから早く」
「は、はい」
カチャリと黒縁眼鏡を外し渡すと、優しくクロスで拭く彼。さすがに普段からの眼鏡使い。手慣れていて、あっという間にピカピカになったのが少し離れていてもすぐに分かる。
ついでにトニオ先輩に触られていた眼鏡の横は、さらに念入りに拭かれてた。
拭き終わった後、汚れはないか上にかざして見るレオン様に、度が入ってないダテ眼鏡なことがバレるのではないか、眼鏡を外した自分の顔で気づかれてしまうのではないか、と胸がドキドキして、ひたすら俯く。
このまま視線を合わせたら、クリスティーヌだと気付いてくれるのだろうか。
そうだったのか、と驚いて笑ってくれるだろうか。
バレたくないのに気付いて欲しいような……そんな相反する思いを胸に抱え、ふと視線を上げると、バチッとレオン様と目があった。
彼はしばらく私を見つめた後、ニッコリと微笑んでメガネを返してくれた。
「うん。シャルロットはやっぱり眼鏡があった方が良い」
「──あ、はい……眼鏡ありがとうございます」
レオン様が全く自分に気付かなかったことに……ひどく落胆している自分がいて驚いた。
いつも通りの反応、何の驚きもない表情に『クリスティーヌのことなんか、妻のことなんか、本当に完全に忘れてるんだ』と胸がキュッと痛くなる。
──この結婚の条件に、交流は含まれていない。
今までは気にならなかったそのことが、なぜか酷く重くのしかかってきた。
初めて会ったあの時でさえ、きっと私に興味を持ったわけではないのだろう。条件が合致した、ただそれだけ。
私の顔が、彼の好みだったわけでもないのだ。
眼鏡をかけ、自分の席へ向かいとぼとぼと戻っていると。
「眼鏡をかけていないと──その綺麗な顔がバレてしまうから。仕事中は絶対外しては駄目だよ」
「……え? あ、……はい?」
言われた意味がわからずひとまず返事をして振り返ると──色気丸出しで頬杖をついて微笑むレオン様と……視線が絡む。
ようやく言われた意味を理解した時には、ボフっと顔に熱が集中したのが分かった。
(な、な、なんなのっ!? フェロモン垂れ流すのやめて!? き、綺麗な顔って、なに!?)
動揺して自分の机の角にぶつかり、書類の雪崩を起こし、ワタワタと拾っていたら、少し離れたところからクスクスと小さく笑う声が聞こえる。
(か、からかわれた……っ!!)
どうやら私は、レオン様の笑顔に弱いらしいということにようやく気付いた。
冷静でいられなくなるから……あんまりその笑顔を向けないで欲しい。
◆
「いいかシャルロット。基本的に私以外と口を聞かなくて良い。他の者からなにか尋ねられたら、その回答は私にするように。例え王であろうとも、だ。私が許可を与えた場合のみ発言を許す」
「はい」
「そして重要なことは……私から二歩以上離れないこと。自分で持ち込んだもの以外の飲食をしないこと」
「はい、承知しました」
カツカツと靴音を鳴らしながら長い廊下を歩く私たちは、これから御前会議に参加する。
大会議室に着くと、そこにはズラッと席が並び、各省の長とその関係者、王族が座る。
レオン様が席につき、私はその斜め後ろに立てばレオン様が私と視線を合わせコクリと頷いた。
「それでは始めようと思うが──よろしいか」
レオン様の合図と共に始まった会議は、外交に関する重要案件に、国からの大幅な予算を申請する必要がある大規模工事、農作物の状況、近隣国の動き。
この間、意見を交わすのは文官たちばかりであり、王族は発言しない。第二王子に至っては聞いているのかいないのか、よく分からない。
寝ているのではないだろうか。
数年前に文官の大規模編成があり、爵位を無視した昇進になった今では、それぞれの意見がすべて検討材料になることばかり。
以前はグダグダな会議も多かったらしい。
今はそこに予算を割きたくないという意見も理解できるし、逼迫している各省の話もわかる。
予算は無限ではないから。
私は後ろで当初聞いていた議題と資料に、さらに発言を書き足していく。
「一時休憩を挟む。再開は20分後」
一気に空気が和み、ワッと私語が始まった。
何人かがレオン様に近寄ってきて、隣にいる私を見た。その中には財政省のエリック長官もいた。
「宰相室専任補佐官がようやく見つかったんですね」
「ミュラーはうちの財政省出身だ。若いが非常に優秀で補佐力に優れているんだ」
自慢するかのように笑いながら頷くエリック長官に、他の省の長官が突っ込む。
「なぜエリックが得意げなんだ」
「入省が財政省だったのだから、うちが育てたと言っても過言ではないからな!」
「──お言葉ですが。確実に私が鍛え上げましたよ」
後ろからやって来たのは、宰相補佐室アイリーン課長。真っ赤な口紅でニヤリと笑みを浮かべる。
彼女の姿に私は少し目を輝かせた。
「それに──専任補佐官に推薦したのも! 私なんですからね!」
ふふん、とドヤ顔のアイリーン課長に少しだけクスリと笑ってしまった。
宰相補佐室の過酷さを知っている面々なだけに、何も言い返すことができず「あぁー、うん」「まぁ……」と曖昧な返事をするエリック長官たち。
その時突然、集団の後ろから声がかかった。
「なんだ、楽しそうだな。そちらが噂の専任補佐官か」
……先ほど寝ているようにしか見えなかった、第二王子アルノー殿下のご登場。
──今、視界の端でくるりとターンが入った気がするのだけど……気のせいだろうか……?
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