宰相閣下との出会い

 ……緊張しすぎて軍隊のようになってしまった自分が恥ずかしいが、大きく深呼吸をして『毅然と自信を持って』と実家の家訓を思い出しつつ入室した。


 だだっ広い部屋のはずなのに、壁はすべて書棚。

 所狭しと書類が積み重ねられたその部屋は……殺伐の一言。

 大きな執務室の前に銀髪の男性が銀縁の眼鏡をかけ座り、顔を上げることはない。


 ──眼鏡、かけるんだー……。



「なんの資料かな」


 

 ──あれ? 優しく聞いてくれるんだ?

 優しい声のトーンに、思わず拍子抜けしてしまった。


 けれどその声には隠しようのない疲労感が滲んでいて、あぁ私たちが忙しい以上にこの人は忙しいのだと実感させられた。

 煩わしい結婚に時間をとっている暇などないのも当然のこと。


 そして眼鏡が色っぽい……と、それはどうでも良いが。



「昨日補佐室より持って参りました、昨年度のコンラード地区決算書一式です」

「あぁ……それ多分この辺にあると思うから探してくれる?」

「はい。失礼します」



 この辺と指で指示されたのは、レオン様の机の右側の山。

 極力レオン様の方を見ずに近くに寄り、今にも雪崩が起きそうな山の中から目的のファイルを探しはじめる。


 探しつつも……このランダムな山をとりあえず決済日の早い順にささっと並べ替えていたところ、レオン様の方から書類がはらりと落ちた。


 その書類を取るべくしゃがみ込んだそのとき、ぽふっと、頭の上に温かい何かが乗せられた。



「ありがとう」



 頭に乗せられたのはレオン様の手。

 しゃがんだ姿勢のまま見上げると、眩しそうにふわりと微笑んだ彼にドキッとしてしまい、慌てて目を逸らしつつ「ど、どうぞ」と拾った書類を手渡す。


 書類を拾っただけのこんな地味文官に優しく微笑み、頭を撫でる……。

 ──撫で続けている。長い。



 ──え、宰相閣下、実は女たらしだったのだろうか。

 鬼はどこにいった、鬼は。

 元々彼の鬼の姿は見たことないけども、お噂はかねがね……と言ったところ。


 文官の女性率は少ないし、実は女性には優しかったのかもしれない。

 そう思うと、なぜかモヤッとしてしまった。



 そして、撫でられ続けるその行為をどうしたら良いか分からないまま俯いていたら、不意に彼の手の力が抜け……カランと何かが落ちた音がした。

 落ちてきたのは眼鏡。


 そろーりとレオン様の方を見ると……机に突っ伏したレオン様が。



「…………えっ? ……宰相閣下?」

「…………」

「えっ!!?」



 意識を失ったのかと慌ててそばまで行き確認すると……規則正しい呼吸音がする。



「……え、眠ったのですか……?」



 その顔には色濃い隈がくっきりと残り、見るからに顔色も悪い。机には何かの薬か栄養剤かの錠剤の瓶が三種類。


 ──この人、そろそろ過労死するのでは……?



 チラリと目線を動かす。

 宰相室にはもう一つ机が端にある。


 本来そこには秘書のような役割をする『宰相室専任補佐官』がいるはずなのだが、今はいない。私が知る限り、ずっと空席だ。

 それにより、余計に負担が増しているのだろう。


 私の名義上の夫は、これほどまでに一人で頑張る人なのだなと、どこか悲しくなった。


 その銀色の髪が一部乱れていてサラッと撫でてみる。細く柔らかいその手触りに、なぜか唐突に胸が締め付けられた。


 寝ているのならそのまま寝かせて、少しでも疲労回復すべきだろうと軽く机の周りを片付け、ソファに置かれたブランケットを彼の肩にかけた。



「お疲れ様です……レオン様──あまり無理しちゃダメですよ」



 糸が切れた人形のように寝息を立てる宰相閣下に気付かれないよう、小さな声でつぶやいた。


 机の上に栄養補給のために飴をこっそり置いておいたが、不審がって食べないだろう。

 警戒心が強そうだ。



 結局別のところの書類の山から決算書一式を探し出し、補佐室に戻り、またほぼ徹夜となる。



◆◆


「──終わったぁーーっっ!」

「ようやく……」

「ごめんねー、提出してきた課はがっつりしめとくから! 皆本当にお疲れ様ー!」



 一旦半分が帰ることになった補佐室面々。

 私は片付けを始める課長に近付き、聞いてみた。



「課長。宰相室の専任補佐官はなぜ空席のままなのですか?」

「あぁ、あの部屋……宰相閣下ねぇ、威圧感がすごいでしょぉ? みんな震えちゃって整理すらまともに出来なくなるのぉ」

「威圧感……? えっと、それは課長も感じるのですか?」



 威圧感とはなんだろうか。

 先入観なしだと、ただの疲れ切って死にそうな人だったが。



「私はねぇ、実は彼が文官になった時の先輩指導員だからそこまで感じないんだけど。なんかそばにいると鬱陶しくて集中出来ないって言われたわぁ。ほんと失礼なやつよねぇ!?」

「そ、そうですね」



 課長はレオン様より年上でしたか。

 全然見えない。課長、若い。


 だが課長は威圧感を感じないと言うことは、やはり女性には優しいのかもしれない。



「そういえば昨日シャルが宰相室行った時は大丈夫だった?」

「大丈夫……というのでしょうか? 宰相閣下、私が隣で書類を探すのに夢中になっていたらいつの間にか眠ってしまわれていて……さすがに補佐室でも皆いきなり寝たりはしませんし、実はなにか健康上問題でも」

「……え!? あいつ、寝たの!?」

「え、あ、規則的な呼吸があったので、眠っただけだと判断したのですが……わ、悪かったでしょうか!?」

「確かに二徹くらいはしてるはずだけど……」



 やはり持病があったのだろうか。

 すぐに補佐室に伝えるべきだったのか焦っていたら、少し神妙な顔をして考え込んだ課長は言った。



「シャル。あなた、宰相室の専任補佐官やってみる?」

「────え!? いえいえ、私なんて無理ですよ!?」



 そんなプロフェッショナルについていけるとは思えないし、ついでに形式上は妻。なんか微妙だ。





 そう断ったはずだったのに。



「……本日より宰相室専任補佐官を任命されました、シャルロット・ミュラーです。よろしくお願いいたします」



 宰相室の執務机の正面に立ち、赴任の挨拶をしているのは……私だ。


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