〜公爵家のとある日〜
──時は少し遡り、シャルロットが専任補佐官を命じられる少し前。
◆◆
文官がこれほど激務なことを知らなかった私が三年間この仕事に耐えられているのは、公爵家の協力があるからに違いない。
毎晩遅くに帰ってきても、はたまた明け方になろうとも、公爵家は暖かく笑顔で迎えてくれる。
過酷勤務と言われる補佐室とて、一応休みはある。
一週間に一度だったり、なくなって二週間に一度だったり、はたまた……とさまざまであるはあるが。
ちなみに、財政省のときは週に一度必ず休みがあった。
今日は久々の休みで、侍女やメイドに大層飾り立てられた。
いつの間にか見たことのないドレスやアクセサリーが増えている。
レオン様からの贈り物だというが、そういう名目で、公爵夫人としてふさわしくいられるように、侍女たちが手配しているだけなのだろうと思っている。
公爵夫人としての社交など何一つしていないというのに。いたたまれない。
とはいえ、ようやく手腕を発揮できるとばかりに、意気揚々としている侍女ターニャたちに着せ替え人形のように幾度も着替えさせられる。
やっとのことで図書館に出掛けたのだが──嫌なものを見た。
お目当ての本を見つけ、中庭のカフェテラスで少し読んで帰ろうと思ったのだが。
まさしくその場所で、女性が一人泣きながら目の前の男女二人と対峙している。
「私のことをずっと愛するって、誓ったじゃない!」
「でも他に好きな子ができたんだから仕方がないだろう?」
「ごめんなさい、ソフィー。あなたの家でラルフに初めて会った時から、もうこの想いを止められなくなって」
「親友の夫を取るなんて!」
「ミーナを責めるな! なんて意地悪な女だ! そんなだから俺も愛想が尽きるんだ! ミーナ、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫……」
「俺はミーナと暮らすから、明日までに家から出て行ってくれよな。それまではミーナのところにいるから。早く出て行けよ」
……なんだろう、これ。
なぜ図書館の中庭でこんな話をしているのか。
よく見ればソフィーなる女性に、図書館の司書の腕章が。
どうやらわざわざ職場まで夫とミーナなる女性が来襲したようだ。……帰ってから話せば良いのではないだろうか。
泣き崩れる捨てられたソフィー(というらしい)に周りの人は哀れな表情をするが、まぁ仕方ないなと納得する。
ソフィーは泣きながら走ってどこかに行ってしまった。
残された二人は抱き合いながら、なにやら愛を語っている。
その光景を苦虫を噛みつぶすような気持ちで見ていた私に、一緒に供をしてくれているターニャが心配そうに声をかける。
「奥様……大丈夫ですか? 顔色が悪いです。お戻りになりますか?」
「──そうね。本を読む雰囲気じゃないし帰るわ」
──恋愛至上主義のこの国では、ありふれた光景。
それに心底苛立ちを感じるが、個人の考え方の問題なのだから自分にできることなどないことも腹立たしい。
とりあえず、心の中であの男には『一ヶ月に一度バケツの汚れた水を頭からかぶる呪い』と『一生ジャンケンで負け続ける呪い』をかけておいた。
親友の夫を奪い取ったミーナさんには『変なところから一本だけ長い毛がいつも生える呪い』をかけた。
……本当にそんな能力があれば良いのだけど。
帰りがけにしばらく歩けば、通りの劇場では『黒の王子と金の乙女』というロングランの歌劇作品が上映されている。
この題目は、本でも劇でも大人気の話。
なんでもそつなくこなす完璧と名高い黒髪の王子が実は空虚な生活をしていて、婚約者である令嬢は傲慢で意地悪。
学院に特待生として平民の女の子が入ってきて、令嬢のいじめに耐えながら、王子と真実の愛を育んでいく。
そして令嬢の悪事を暴き、最後に二人は王国を繁栄えと導く『愛の石』を見つける。そのピカピカと輝くピンク色の石を高々と掲げ、物語は終わる。
つまりは、現国王と王妃の出会いを最大限まで美化した話だ。
この話は各地で上演されている上に、以前は無料で見ることが出来たという。
ついでに言えば、学院にも出張上演が毎年やってきていた。デートスポットの定番でもある。
それほど長年人気を誇っているが……私はこの話が大嫌い。
十三歳の時に恋人と出て行って以来、何の音沙汰もない母を思い出すし……そもそもこの話にまったく魅力を感じない。
婚約者がいる身でありながら、平民と恋に落ちた話を美化しているだけな気がして不愉快極まりない。
元婚約者の令嬢は、どんな思いだったのだろう。長年王妃となるための教育を受けてきただろうに、平民にその座を奪われたわけだ。
当時はまだ政略結婚の時代。そのような理由で婚約がなかったことになるなど、醜聞にほかならない。元婚約者の令嬢が憤慨するのも当然だと私は思う。
けれど──現国王夫妻は『黒の王子と金の乙女』として人気が大変高く、表立って非難することなど出来はしない。
恋愛至上主義の原点ともいえるこの話。
その当時、実際はどうだったのかなど知る由もない。
◇
翌日は朝からいつも通り、宰相補佐室へ出勤しひたすら書類と睨めっこ。
宰相室から戻ってきた先輩が青ざめながら「差し戻された」と書類を握りしめている。
必要とあらば他の省までひとっ走りし、書類を急いで修正してもらい、ついでに欲しいファイルも借りてくる。
補佐室の中でも、私は企画などを考えるのではなく、ひたすら補佐をする仕事についている。
今日も遅い時間に公爵家に帰れば食事は体に優しく、疲れ切った精神すらホッと温まる。お腹が満たされたあとはマッサージ付きの入浴。
「奥様。本日の香油はカモミールでよろしいでしょうか」
「えぇ、お願い」
奥様らしいことは何一つしていないが、この家に入った時からみんな快く「奥様」と呼んでくれる。
日々変わる香油を使い、ヘッドマッサージからフェイス、全身をくまなくほぐされていく。
大体このときにすでに寝てしまうことも多く、ひどい時は入浴中にすでに寝ているらしい。
そしてこの日、またしても──マッサージの途中で記憶は途切れた。
──翌朝、フカフカのベッドの上で体も体力もリセットされたのを感じながら起き上がる。
今日はいつもよりさらに調子が良いようだ。
身体が軽い。
朝の地味メイクをしてもらいながら、ターニャに話しかける。
「……そういえば私、また昨日寝てしまったのよね。昨夜は──入浴した後の記憶もないのだけど、もしかして」
「はい。マッサージ中に眠っておられましたよ」
「そう……毎回申し訳ないわ。ターニャがいつも移動させてくれるのよね。重いでしょうに……ありがとう」
「いえ、奥様のお世話をするのはとても楽しいですし、それに──お世話するのは私だけではございませんし」
もちろんターニャ一人ではなく、数人がかりで入浴やマッサージをされるのだけど。
そうは言っても、専任侍女はターニャであり一番負担も大きいだろう。
「人を抱えるのって絶対重いと思うわ。これからは出来るだけ寝ないように頑張ってみるから!」
グッと握りこぶしを作る私に、ふふっと微笑むターニャ。
「──はい。ですがご無理なさらずとも良いのですよ。奥様にゆったりとリラックスしていただくことこそ、最上の喜びです。公爵家一同、そう思っておりますので」
「──ありがとう」
少し照れくさくなりヘラッと笑った私は、また気合を入れて仕事に行くのだった。
◆◇レオン◇◆
「おかえりなさいませ、旦那様」
「あぁ。クリスティーヌは?」
「二時間ほど前にお戻りになりました」
「遅いな」
「補佐室勤務になってからは、朝方戻られることも多くなりましたので」
「……まぁそうなるか」
屋敷への帰宅が三か月ぶりなってしまったのは久々のことだった。
ここ最近、あまりにも忙しすぎた。
それはもちろん、自分だけではなく部下たちも……だろうけれど。
「痩せ細ったのは少しは回復しただろう?」
「それはそうですが……もう少し緩やかな部署に異動させてあげることはできないのですか?」
「それを彼女が望むと思うか? 自分の実力であそこまで来たのだ。その力を発揮できないことは、クリスティーヌにとって本意ではないだろう。仕事に関して私は彼女に関与するつもりはない」
「……おっしゃる通りでございます。差し出がましいことを申しました。申し訳ございません」
「いや、お前たちが心配していることは分かっている。気にするな」
東棟の扉を開け二階へと上がる。
事前に自分が来る連絡を聞いたのか、クリスティーヌの侍女ターニャがちょうど部屋から出てきて、頭を下げた。
「おかえりなさいませ、旦那様。奥様は入浴後のマッサージ中にまた眠ってしまわれました」
結婚という契約を結んでから、すでに三年。
この三年間、なにもクリスティーヌとわざと屋敷で顔を合わせないようにしているわけではない。
物理的に彼女が起きている時間に帰ることができないだけだ。
今日この屋敷に戻りはしたが、それは公爵としてどうしても必要な仕事をするためであり、夜が明ける前にまた王宮に戻らなければならない。
汚職にまみれ、仕事をしない貴族達を一気に整理したら、今まで各々の利権により握りつぶされていた案件が上がってくるようになり、その量はそれより前の倍以上。
さすがにここまでだったとは思いもよらず、自分だけでなく、文官達にも負担がいく結果となってしまっている。
想定外だったのはクリスティーヌの激務。
実力があるものはどんどん昇進していくシステムを作り上げたのは宰相である自分自身であり、補佐官としての才能が溢れんばかりにあったらしいクリスティーヌは、昇進とともにさらに忙殺されることになる。
その結果、当初はたまに帰った夜にでも一緒に酒を飲み交流をはかっていこうと考えていたが……多忙を極め夜はすぐに爆睡する妻により、顔を合わせること自体が不可能となっていた。
すでに交流がないまま三年。
出会った頃よりも随分大人びて、すっかり大人の女性へと成長した我妻の評判といえば、素晴らしいの一言に尽きる。
清廉潔白で曲がったことを嫌うらしいが、一癖ある話でもうまく対応してしまう柔軟さ。
自分が、と主張しがちなエリート文官には珍しい、徹底した補佐役。
はっきりいって、ここまで登って来るとは全く想定していなかった。
あの日『ナイト・ルミエール』で初めて会ったときは、価値観が同じなら、恋愛関係にならずとも良好な関係が築けるのではと思っていただけだった。
そして、同じ文官としてただ成長を楽しみに思っていただけだったのだが。
「──そんなに優秀では、少し気になってしまうな」
クリスティーヌの柔らかな亜麻色の髪をそっと撫でる。
日々忙殺されながらも、生き生きとしているという妻に頬が緩む。
ベッドに寝かせられた入浴直後のクリスティーヌからは良い香りが漂っている。
そばに座り頭を撫でると気持ちいいのか、彼女はモゾモゾと動き始め、自分の腰に両腕を絡めしがみついてきた。
たまに帰ってきた時に完全に寝ぼけたまま甘えてくるクリスティーヌに、癒されている。
起きていれば、彼女が自分に甘えることなどないことは分かっている。
十歳も年の差があり、交流すらない肩書きだけの夫の自分になど、クリスティーヌはなんの興味もないだろう。
今のこの関係は、政略結婚以下。
政略結婚でもまだ食事を共にしたりすることだろう。
ただ、クリスティーヌを慈しみたくて仕方がない。
どういう風に花開いていくのか、成長が楽しみなのだ。
──クリスティーヌを撫でていると、どうも心が安らぎすぎるのか、夜は一気に眠気が来るのはいささか問題ではある。
早めに立ち去らねば、彼女が次に目を開いた時に名目だけの夫が横に寝ているという恐怖体験になりかねない。
去り際にもうひと撫でして、小さく囁く。
「……仕事上だけでも、たまに会話できるようになると良いが。まぁ──早く登って来い」
そう思っていたのが、クリスティーヌ(シャルロット)が宰相室専任補佐官の任につく、半月前のこと。
それは宰相補佐室の補佐官として──と考えていたのだが。
まさか一足飛びで専任補佐官となり終始同じ部屋にいることになるとは、自分自身、微塵も予想していなかった。
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