財政省1課→宰相補佐室
半年後。
つまり文官として勤め始めて一年半。
財政省9課から異動の辞令をもらい、財政省花形1課へ。
企画はともかく、速読・記憶力・計算力が特化している私は、どうやら補佐に特化した才能があったようだ。
──そして……さらにその一年後。
「ミュラー……きみ……辞令が出てます……」
「え、この前来たばかりですよ?」
「えっ!? ミュラー、1課から異動!? 降格なわけないだろうし……てことは別の省に?」
「それは珍しいですねぇー! でも悔しいですがミュラーなら納得です。ミュラーの補佐力は確かにすごいです」
うんうん、と頷いてくれる同僚たち。
文官として勤めて早二年半。仕事ぶりを認めてくれる人が多く、非常にありがたい。
省を越えての異動は、あまり頻繁ではない。
とはいえ、素直に降格ということも考えられるのだけど。
「で、ミュラーはどこに異動ですか? どこにしても出世間違いなしですね!」
「いえ、どこかはまだ……先輩、私はどこに異動ですか?」
最初の通知を見ていた先輩に声をかけると、なぜかどんどん青ざめ、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……補佐室」
「え? どこの補佐室ですか?」
「……宰相」
「──え?」
「宰相補佐室に、異動です……っ!」
珍しく大きな声をあげた先輩の声で、辺りはしんと静まり返った。
それは先輩の大きな声が珍しかったのではなく、行き先が『墓場』と名高い『宰相補佐室』だからに他ならない。
皆青ざめ「ご愁傷様……」「骨は拾ってやる」「生きて帰ってきてください」と同情の涙さえ流す。
『宰相補佐室』
文官の墓場と呼ばれるそこは、文官最高峰の精鋭が揃っているにも関わらず、身体を壊す者が続出したため、数年前にその名がついた。
各省から宰相案件書類を補佐室が確認・吟味し宰相へ上げる仕事と、省を超えての企画・立案等の仕事の、この二つが大まかな業務になるらしい。
深夜残業当たり前。
仕事も超ハイレベルが求められ、日程的に無理難題な仕事をどんどん投げられる。
宰相本人もずっと仕事をしているため、なかなか帰れもしない。
紛れもなく、ワーカホリック集団。
そこには生ける屍が多数出現すると噂されるが、きっと疲れ果てた補佐官たちだ。
──まぁそれよりも、その宰相は私の夫なんですけど……。形式上は。
本来なら気まずいはずだが、多分レオン様は私の顔ももう忘れたのではないだろうか。
彼は私が着飾ったところしか見たことがないし、すでに2年半会っていない私の地味変装に気付くこともないだろう。
この際気付かれようとも、きっと彼は気にしない。
他人のフリをして仕事を続けるはず。
せっかくもらった精鋭軍団への異動。
『墓場』とは呼ばれるが、有能であることの証明に違いはないのだ。
ここはありがたくお受けすべきだろう!
(拒否権は元よりない)
──なんて、意気込んでいた時期が私にもありました……。
「ミュラー! それあと30分で仕上げて!」
「はいぃっ!!」
「ミュラー。それ終わったらこっちの集計、全部確認してくれる?」
「はい! いつまでですか!?」
「そっちの仕事終わってから一時間後までに」
「は……はいっ」
パチパチと高速で計算器具が鳴る音と書類をめくる音、ガリガリと書き込むペンの音が部屋に響く。
他の部署より確実にタイトな日程での正確な仕事が求められるここは、確かに『墓場』のようだ。
常に残業で全員疲れが滲み出ていて隈がすごいし、みんな夕方以降になるとフラフラしている。
『手が止まった時点で死ぬと思え』
『回ってきた書類は大体間違っていると思って宰相に回す前にチェックをしろ。間違ってると飛ばされるぞ』
『全ての想定を考えろ。答えられないとヤられるぞ』
『代替案を導き出せ。不可能だとそのまま言うと、もう二度と帰ってこれないぞ』
すべて先輩補佐官からありがたく送られた言葉だ。
──ちっとも嬉しくない。
その死はどうやら夫である宰相閣下からもたらされるらしいが、とりあえず私は職場でまだ宰相閣下に会ったことはない。
まだ仕事内容が補佐官の補佐のため、直接書類を届けることがないからだ。
食事の時間すらなかなか取れない。先輩補佐官たちは合間を見つけながらなんとか食べたり食べなかったりしているらしい。
あまりに時間がとれず食べていなかったら激ヤセしてしまったため、公爵家の料理人が「これだけでも食べてください……!」と泣きながら片手で食べられる食事を用意してくれるようになった。
──生きるために、マナーは捨てた。
それを見た周りの補佐官たちも「なるほど」と思ったようで、昼と夜は片手で食べながら仕事をするという風景が補佐室の定番となりつつあった。
これほどの忙しさながらも、私は日々『生きている』と実感している。
自分が歯車の一つだとしても、誰かの役に立てているという──そのことが嬉しくて楽しくて、仕方がない。
文官たちに爵位や身分差はまったく考慮されないし、今となっては気にもしない。
仕事が出来るか出来ないか。ただそれだけ。
これは、現在の宰相になってからのシステムだそうだ。
私がどこの家のものかなんて聞かれたこともない。
もちろん、私が公爵夫人だなんてことは誰も知らないし、ついでに自分でも自覚はほぼない。
社交活動をしない公爵夫人など本来なら非難の対象だが、『宰相閣下の溺愛の末、外にはほとんど出してもらえないらしい』と知らぬ間に同情が一人歩きしている。
──毎日朝から晩まで外に出てますが。
公爵家には、寝に帰ってるだけですが。
とにかく文官とは、誰がどこの家門だろうと爵位の高い人だろうと……
生ける屍になるときはなるし、怒られるときはコテンパンにやられる。
ぐったりだ。
──そんな激務の生活が続いて、宰相補佐室勤務も早半年。
このペースにも慣れてきたのか、自分も同じ生ける屍の一員になったのか。
泊まり込みすら出てきた補佐室勤務の地味文官の私に、実は夫がいるなんて誰も思わないだろう。
◆
「ミュラー、良いところに。ヒロー海岸の漁獲量の資料って」
「G-4の書棚にありますよ」
「あ、ミュラー。リエフ地方って……五年前なんかあった?」
「五年前……長雨によりがけ崩れが起こり、交通網にしばらく影響が出ていたことは記憶していますが」
「それだ! ありがとう」
最近ちょっとしたことを聞かれることが多い。
自分たちで調べればわかることでも、私に聞けばすぐに分かると思っているようで、便利辞典のような扱いを受けている気がする。
「ロイさん。運輸省の出してきたこの案件ですが、農業省が二年前に調査済みのこれと場所が同じではないですか?」
「──本当だ。二度手間になるところだったな。農業省のこの書類、運輸省に届けてくれるか? 俺が持っていくとすぐ険悪になるんだよなぁ……なんでだろ」
「ふふ、承知しました」
各省へのおつかいを頼まれることも私は多い。
文官最高峰の王宮文官。その中でも優秀な者が集められた補佐室メンバーは、頭の回転も速く理詰めでどんどん話していくものだから、書類を突っ返され、図星を指された各省の人たちの顔が曇っていくことにほとんど気づいていない。
その点、便利なこの私。
地味変装文官ぶりは、人当たりの良さも兼ね備えた優れものだった。
人は、 何もかもが優秀すぎる人の前では気後れしてしまうものかもしれない。
◇
ようやく今日の仕事が片付きそうな夜。
今日は日付を超える前に帰れそうだと、誰もがちょっとした希望を持っていた。
私とて、片づけはじめようとしていた。
今日は早く帰れそうだと言っても、もちろんすでに他省の人たちはとっくに帰っているだろう。
宰相補佐室はかなりの手当てが付与される。残業代だって、しっかりつく。
やった分だけ評価はされるとはいえ……疲れるものは疲れる。
宰相補佐室の中でも目立つ存在が課長のアイリーン様。
出るとこが出た大人の色気たっぷりだが、その統率力で補佐室ナンバー2の課長だ。
「あのねぇ、もう若くないんだから残業とか無理なのよ、ほんとにっ!」
アイリーン課長も片づけをしながら、誰に言うでもなく愚痴を吐く。
「課長……あの、これ、たった今届きました……」
「んー? どれ〜? …………なっ!? ば……ばっかじゃないのっ!?? 明日までの宰相決裁って……こんな夜に持ってきて出せるかっつーの!!」
同僚のルイさんがおずおずと渡した書類に、課長は見るなり激怒した。
たまに口調が完全に乱れるアイリーン課長は、独身主義者。こんな仕事していたら普通の結婚なんてなかなかできないだろう。
課長のその言葉を聞いた瞬間、皆悟った。
あぁ、今日は徹夜だ、と。
「もーーうっ!! シャル、これの数字全部確認して!」
「課長っ、この案件の原本ファイルは昨日宰相閣下に持って行ったのではないですか?」
「あーーっ、そうだった! シャル、もらってきて!」
「えっ、宰相室にですか?」
「貸してって言ったら貸してくれるわよ! 急いでるから早く!」
「は、はいっ!」
「ルイはこの登記の確認ーっ! あそこの課、確認しないで平然と出してくるんだから!」
「はいーっ」
始まったとばかりに一斉にみんな走り出したため、私も慌てて補佐室を飛び出て二部屋隣の宰相室へと向かう。
課長からはシャルロットだからシャル、と呼ばれている私。
宰相補佐室勤務になり半年。
今初めて宰相室への扉を叩く。
ちなみに、結婚してからすでに3年が経過したため、もう絶対私の顔は覚えていないだろうと、そこは安心している。
ただ、宰相閣下の前評判は聞いているから何か失敗しないか不安なだけ。
恐る恐るノックをすると、中から低い声で返事がした。
他の部署ならすでに帰っている時間だが、宰相閣下は当たり前のようにいる前提。
「はい」
「さ、宰相補佐室、シャルロット・ミュラーです! 資料をお借りしたくて参りました!」
「……どうぞ」
「はい、失礼いたします!」
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