財政省9課
◆◆◆
「ミュラー。ここの数字、どこから出してきました?」
「過去5年分の統計から算出しました。注釈と出典を載せてます」
「なるほど、それならいけますね。うん、ありがとうございます」
「あ、ミュラー! コモルの橋の予算案差し替えってもう終わった?」
「はい、昨日終わりました。進捗表に記載しています。今は問答集の作成に取り掛かっています」
「了解!」
至る所でたくさんの声が響き、多くの人がバタバタと忙しなく走り回るここは、財政省の9課。
文官ひしめく財政省の中でも花形ではなく末端の部署であるけれど、私クリスティーヌことシャルロットが働くにはちょうど良い。
私は受験時に使用した、ミドルネームと母方性を組み合わせた『シャルロット・ミュラー』という名のまま、働いている。
今は本当はバスティーユが姓だが、通称名を使っても問題ないのだ。
宰相閣下と大々的に結婚した私の顔を知っている人ももしかしたらいるかもしれないと思い、髪は一本に無造作に結び、地味メイクに加え、分厚い黒縁の眼鏡をかけている。
まったくバレない上に、地味な子として完全に地位を確立したが、仕事は日々忙しく充実した毎日を送っている。
夫であるレオン様とは、全く会っていない。
──かれこれ一年ほど。
えっと……つまり、すでに結婚して一年が経ちました。
結婚式の後、屋敷を案内してくれたのが顔を合わせた最後です。
多分、ほとんど公爵家に帰ってきてないのではないだろうか。帰って来ても深夜なのだろう。
というよりも、わたしも日々疲れ果てすぐ寝ているので分からない。
末端部署でこれだけの忙しさなのだから、それを束ねるトップの宰相閣下の忙しさがどれほどなのか、想像するに余りある。
全く会うことはないが、悠々自適にやらせてもらっている。
こんな不思議な夫婦にも関わらず、公爵家で働く人々は一切何も言うことはなく、私の地味変装にも率先して協力してくれる。
そしてまったく顔を見ない我が夫の評判はと言うと。
「この前、陛下の前で宰相閣下が奥方のことをベタ褒めしてたの聞いたぞ」
「俺も! 忙しくてほとんど帰れないのに、帰った時に見せる笑顔がたまらないとか……」
「抱きついてくる妻が可愛くて仕方ないとか」
「鬼の宰相閣下なのに……めっちゃ奥方溺愛してて、もう言葉も出ないわ」
「あの氷点下の笑顔で奥方にも微笑むんだろうか……怖すぎる」
なんて話がたまに飛び交う。
……うんうん。
偽装結婚の偽装溺愛は順調のようだ。
抱きついたことも、帰った時に出迎えたこともないけど。相変わらず口から出まかせがお得意なようで。
そもそも出迎える以前に、仕事から帰ったら私は爆睡している。
なんならお風呂中によく寝て、気付けばベッドに移動されていて朝……なんてこともよくある。
──公爵家で働く皆さん。お世話ありがとう。
でもね、私がお風呂で寝てしまうのは、あなたたちのマッサージが気持ち良すぎるからだって言うのを知っていてほしい。
◆◇老執事アルバート◇◆
深夜、日付が変わりしばらくしたころ。
ひんやりとした空気の中、夜を統べる鳥の声と虫の声だけが響く。
そこに公爵家の門が開き、黒塗りに銀色の家紋が入った大きな馬車が一台入ってくる。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「あぁ……戻れたのはひと月ぶりか? 変わりはないか」
レオンが老執事のアルバートに声をかけると、アルバートは頭を下げたまま彼のコートを預かる。
「万事つつがなく。ですが、奥様が……」
「クリスティーヌがどうした?」
「お疲れのご様子です」
「──ははっ、まぁそうだろうな。慣れないうちも大変だが、慣れてからはさらに大変だ」
「お食事は」
「簡単に済ませた」
二人は本邸をそのまま通り抜け、回廊を通り東棟に向かう。
「普通にお会いしたら良いのでは?」
「この時間に彼女を起こせと? 楽しんで仕事しているのだろう? 無駄なことに気を遣わせる必要などない」
「無駄……でしょうか」
執事アルバートの言葉に、屋敷の主人は答えることはない。
毎日寝落ちするほど疲れながらも、朝になると元気に仕事に行く若く美しい公爵夫人を、屋敷中が陰ながら応援している。
その理由の際たるものは……結婚の準備をし始めたころから、主人である公爵閣下の目に生気が宿ってきたからだ。
幼い頃より何をするにも淡々とこなす。
『やらなければいけないことだから、やるだけだ』と幼少期に言っていた。
そして望まれる以上の成果を出す。
無表情なわけではない。だが浮かべる笑みは、物事を円滑に進めるためだけに作られたものが大半。
宰相職に就いてからは、特にその傾向が強い。
ただひたすらに国のために働く。それが楽しいのか、やりがいがあるのかも我らには判断がつかない。
きっとこの銀髪の主人の根底は昔と何ら変わらず、やらなければいけないからやっているだけなのではないだろうか。
そんな主人は結婚前後から、ふと何かを思い出し楽しそうに微笑んだり、瞳に輝きが混じるようになり、心なしか顔色も良くなってきた。
生き急ぐかのように、ただひたすらに無茶を続け働く主人に、公爵家で働く者の誰もが心配をしていたが──公爵夫人が現れて以来、明らかに楽しそうなのだ。
仕える者たちはそれだけのことが──たまらなく嬉しい。
きっと、『恋愛』と呼べるようなものではまだないのだろう。
この結婚も不自然極まりないし、なんらかの約束が交わされているであろうことは想像するに容易い。
けれど、公爵夫人が自身の仕事のために公爵家の社交が出来なかろうが、家の仕事が出来なかろうが、そんなことは些細なことだ。
元より、結婚をしないかもしれないとさえ思っていた主人のために、すでにフォロー体制は確立している。
一人で暗いトンネルを、何の迷いもなく黙々と歩いてきたような主人に、灯りを持った公爵夫人が共に歩き始めたような。
そんな気がするのだ。
もっと二人が親密になってくれれば……と思わなくもないが、なにか考えがあるのだろうと、今日もアルバートは言葉を飲み込んだ。
◆◇レオン◇◆
東棟の扉を抜け、二階の奥のクリスティーヌの寝室前へ行く。
彼女に仕えている侍女のターニャが扉の前で頭を下げた。
「本日は入浴中に寝ておられました」
「相変わらずだな」
くすりと小さく笑えば、ターニャが目を伏せたまま笑みを浮かべた。
公爵邸には月に一度戻れるかどうかだが、帰ってくるたびにクリスティーヌの顔を見に寝室を訪れている。
──さすがに、ここまで会えないとは思っていなかった。
恋愛に忌避感を持つ彼女と、ゆっくりと距離を縮められたらと思っていた。
それは昔おこなわれていた政略結婚と同じだと。
最初に愛が存在せずとも、頻繁に会い、信頼を積み重ねることで育まれるものはあるのだろうと、そう思っていた。
けれど早く帰れる日など存在せず、運よく屋敷に帰れた日でさえ、彼女は毎回驚くほどぐっすりと眠っている。
そのため、五分ほど顔を見て部屋を出るのが恒例。
ベージュカラーで統一された部屋は、ラベンダーの香りと、どこかもどかしくなるような香りが漂っている。
彼女が眠るベッドまで行けば、亜麻色の髪が絹糸のように月明かりに照らされ輝いている。
彼女の横に座り、その頭をそっと撫でる。
「──ただいま、クリスティーヌ」
すると寝ているはずの彼女は、ニヘラッと笑いレオンの腕を取りギュッと抱きしめた。
クリスティーヌは人肌が暖かかっただけなのだろう。
腕から伝わる彼女の無垢で素直な温かさと、伝え聞く仕事での彼女の頑張りようには、心が温かくなるものを感じている。
子どもが成長するのをほほえましく見ている親戚目線とでも言うのだろうか。
がんばれ、と応援したくなるのだ。
「おやすみ」
そう言って目を細める銀髪の男には仕事中の冷徹さは微塵も感じられない。
しばらく妻の頭を撫でたあと、本館に戻り雑務をこなし、朝はクリスティーヌが目覚める前に王城に戻るのだった。
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