【コミカライズ開始記念】閑話:元婚約者フィリップ


「はじめまして。クリスティーヌと申します」



 晴れ渡った秋空の中、ガーデンパーティーで初めて出会った女の子は、ラベンダー色のかわいらしいドレスを纏い、まだ少しぎこちないカーテシーをした。


 亜麻色の髪がさらりと揺れ、彼女は唇をほころばせる。

 零れ落ちそうな大きな瞳が秋の青空のように澄み渡り、きらきらと輝いた。


 そのあまりのかわいらしさに身体が硬直し、それを隠すように俺は思わずそっぽを向いた。



「こらフィリップ。ちゃんと挨拶しなさい」

「……フィリップです」



 父に促され名前を告げたが、視線は逸らしたままだ。

 無性に恥ずかしくてたまらない。


 クリスティーヌは俺を探るようにじっと見つめ、その後、にっこりと笑った。

 この時に初めて「お前たちは婚約者同士だ、仲良くするように」と言われ、内心小躍りしていたのをはっきりと覚えている。


 ──まぎれもなく、これが俺の初恋。

 二人とも、八歳だった。




「こんにちは、フィリップ。お招きいただき光栄です」



 互いの父がそれぞれの家を行き来するときは、婚約者同士である子供たちも一緒に連れて行かれるようになって早三年。


 我が家に着くなり早々に「仲良く遊べよ」と告げた父たちは部屋に入り、俺たちはティータイムの準備が整ったテラスの席に座った。

 十一歳になったクリスティーヌはふっくらした頬が細くなり、少し大人びた。

「可愛らしい」から「美しい」に変化する時期なのだろう。


 すでに何回目なのか数えられない逢瀬……というのに、まともな返事すらしない自分。

 なぜか毎回粗暴な言い方になってしまう。



「別に俺が呼んだわけじゃないからな」

「はいはい。今日は面白い本を持ってきたの。一緒に読もうと思って。カナデル時代の書物なんだけど」



 そっぽを向いたままの俺のそっけない態度など気にもせず、クリスティーヌは一冊の分厚い本を取り出した。


「……そんなの興味ないし」



 彼女も父親に仲良くするように命じられているから、話題を振ろうとするのだろうけれど。

 彼女の興味対象の書物と俺の好みはかけ離れている。難解な書物の話をされても、まったく話についていけない。

 これから学ばなければならない内容だとは、分かっているけれど、だからこそ余計に拒絶してしまう。


 俺とクリスティーヌの歴史と数学の家庭教師は同じ人物で、家庭教師からはいつも嫌になるほど彼女への賛辞を聞かされ続けていた。

 彼女はとんでもなく覚えが良いらしく、比較される俺はただの凡人。

 男女逆なら良かったのに、と失笑交じりに言われ、何度机の下で拳を握ったことだろう。

 ……まだ知らない内容なことを、彼女の前で認めたくない。


 さらにこの時期の男女は、女性の方が背の伸びが早く、彼女の方が俺よりも身長が上になった。

 それもたまらなく悔しくて、情けなくて、隣に並ぶことをことごとく拒否した。



「お前、本当にでかいよな。かわいげのない」


 自分が小さいという羞恥を、相手を攻撃することで補おうとする。

 ここでクリスティーヌが少しでも悲しげな素振りでも見せていたら、謝るきっかけになったかもしれない。



「女の子の方が成長早いだけでしょ。そんなこと気にするなんて、馬鹿みたい」


 でも彼女は決してひるまず、言い返してくる。

 それがまた癪に障り、傷つく言葉ばかり並べてしまう。

 

 自分がひねくれた性格なのはなんとなく気付いてはいたが、これほどまでとは……思ってもいなかった。


 ──いつしかお茶の時間が設けられても、彼女は最初の挨拶を交わした後は、静かに本を読むようになった。



 なんとか自分を気にかけてもらおうと話しかければ話しかけるほど、口から出る言葉は彼女を馬鹿にするような言葉ばかりで、喧嘩をすることも多くなり、クリスティーヌは次第に表情を消していった。


 会う機会だけはそれなりにあったけれど、盛り上がる会話はまったくない。



 学院入学前になると、クリスティーヌは静かで落ち着いた雰囲気を持つ、知的で美しい女性へと成長しようとしていた。



「そんなに勉強してなんになるんだよ」



 クリスティーヌが勉強なんかしなくても、不自由しない生活をさせられる。

 ベッソン侯爵家より我が家は爵位は下だけれど、商会の経営により資産はベッソン家より多い。

 その妻になるんだから、ゆったりと構えておくだけで良いのに。



「女が本ばっかり読んだって碌なことはない。職業婦人でも目指してるのか? みっともない。女は愛嬌があってかわいいのが一番なんだ」



 優雅で知識欲が高いクリスティーヌは褒められることも多いけれど、父親同士がこう話しているのを聞いたことがある。

 大人びたことを言ってみせようと、周りの大人たちと同じ台詞を告げた。


 ……本当にそう思っていた言ったわけじゃない。

 ただ、大人の真似をしてみたかっただけで。


 けれど──それを言った瞬間、クリスティーヌは心底軽蔑したような視線を俺に向けた。

 大きなため息を吐いた彼女は、無表情のまま言った。



「あなたがそう思うなら……そういう好みの人を探したら良いんじゃない?」



 言われた瞬間に、カッとなった。


 クリスティーヌの中に、自分の存在がひとかけらもないことに気付いたからだ。

 そして彼女は、俺のために自分を変えようという気は微塵もない。それほど自分の存在がちっぽけだということに、悔しくてたまらなかった。


 羞恥をはねのけるように、悔しさをそのまま怒りに変換して、大きな声を出した。



「~~っ! ああ、そうだな! 小さくてかわいくて、いつも笑顔で従順な! お前みたいに背ばっかり高くて肉付きも悪くて、頭でっかちなやつじゃなくて!」



 言った直後にすぐ気付いた。

 とんでもないことを言ってしまったと、慌てて自分の口を手で覆った。


 ──こんなことを言いたいわけじゃない。


 もう十五歳になろうというのに初恋を引きずったままで、優しくしてあげることも、素直になることも出来ない。


 いつも笑顔で従順な子が好きなわけじゃなくて、ただ……その秋の空のような澄んだ瞳に自分を宿してほしかった。

 自分に関心を持って欲しかっただけだった。



 恐る恐る顔を上げ、クリスティーヌを見る。


 ──彼女は小さくため息をついた後に、珍しく可憐に微笑んだ。

 その美しさに、思わずドキンとしてしまう。


 直後に俺の笑顔は凍りつくことになったが。



「──良いのではない? 運命の恋人とやらを探したら?」


 ……あ、完全に見限られた。

 そう思った。


 彼女の母親が、運命の恋人と家を出たのは知っている。

 そしてそれをクリスティーヌが、心底嫌悪しているということも。


 ──知っていたのに。


 気遣うこともなく、優しい言葉をかけることもなく、ただ関心を得たいがために執拗に彼女の感情を乱せればよいと、そうすればいつか自分に目を向けてくれると、そう思った。


 彼女の言葉は、明確に『あなたは私の運命の相手ではない』と語っているのだ。




 学院に入学し、俺はたくさんの女性とデートを繰り返した。


 いつかクリスティーヌが自分に嫉妬してくれることを期待して、彼女のいるところでわざと見せつけるように他の女の肩に手を置く。

 けれど何の効果もなく、俺のことが目に入っていないかのようだった。


 クリスティーヌは予想通りというべきか、常に学院トップの成績を叩き出し、才媛と呼ばれ、男女問わず一目置かれた存在となっていた。


 そんな、高嶺の花的な存在のクリスティーヌ。

 その婚約者である自分とデートすることで、彼女に勝った気になるらしく、俺に興味を持つ令嬢はひっきりなしだ。

 モテているように見えるが、実際は令嬢の虚栄心を満たすための飾りにすぎないことは分かってる。


 けれど、そうしていたらいつか、クリスティーヌとは違う女性を好きになれるかもしれないと思った。

 むしろ、そうであって欲しかった。


 ──少し前に、クリスティーヌと彼女の友人のカレナがテラスで話しているのが聞こえてしまっていたから。



『クリスティーヌはどんな男性が好みなの?』

『そうね……頭の回転が速い人がいいわよね。一緒に話して楽しそうだし。知識とか経験が豊富で落ち着いていて。女性が学ぶことに理解があると嬉しいわ』

『……そんな人いる?』

『……どこかにいるかもしれないでしょ。いないならそれでも構わないし』

『相変わらず恋愛嫌いね。条件はそれで全部?』

『うーん、そうね。もしかしたら……一番大事なのはその人が誠実だってことかも。絶対に裏切らない人が良いの』



 テラスの柱越しにその言葉を聞いて、彼女の好みの男性とは、どれも自分には当てはまらないのだと知った。


 胸がぐしゃりと押しつぶされたようで、ひどく痛い。


 それならば、この無駄な初恋などさっさと忘れて次の恋にいきたい。

 こんな無様で、一度も気持ちを伝えることも出来ない気持ちなど、なくなればいい。


 本気でそう思った。


 けれど、三年の学院生活で美しさに磨きをかけるクリスティーヌを見るたびに、いつも胸が早鐘を打つ。


 成績順に分けられたクラスは遠く、クリスティーヌと会話をすることはおろか、接点もまったくなかっていたけれど、逐一噂は耳にしていたし、それはきっと向こうも同じことだろう。


 いつの間にかプレイボーイという名は一人歩きし、令嬢を常に持ち帰っているだとか、入れ食い状態だとか。

 実際のところ、デートはするけれど、身体の関係を持ったことなど一度もなかった。


 自分がただ一人、真実の愛を捧げるのは、やはりクリスティーヌ以外に考えられなかった。

 そして婚約者同士の俺たちは、卒業さえ待ってしまえば、自分の望んだ通りになる。


 男性と噂になることが一切ないクリスティーヌと自分は、婚約者として結婚することが決まっているのだから、ただ待てばよい。


 その時に初めて、伝えるのだ。


 ──本当はずっと君が好きだったと。

 他の人も見たけれど、きみ以上に好きになれる人はいなかった、と。

 きみの望む誠実な男になってみせる、と。


 彼女以外好きになれないと気付いた時点で、プレイボーイの名を返上すれば良かったのだろうか。

 けれど、モテる男の方がかっこいいと、そう思ってしまっていたんだ。


 ──まさか、卒業直前に『好きな人が出来た』と婚約解消されるとは思いもせず。



 クリスティーヌの条件に合うような理想の男なんているはずはないと、そう高を括っていた。

 きっと、結婚しないための演技だろうとそう思いたかった。

 相手が、あの宰相だと分かるまでは。



 長身に鍛え上げられた身体。

 冷たさすら感じられるほどに整った顔は、男といえども一瞬目を奪われる。


 知識も経験も、頭の回転も、『鬼の宰相パトリック』になど適うはずがない。


 宰相の前でほんのりと頬を染めるクリスティーヌは、自分の前では一度も見せたことがない顔をしていた。


 本当にパトリック宰相と恋仲になったのか? と当然のように疑いもした。

 恋愛に何の憧れもなさそうな、あのクリスティーヌだ。

 一目ぼれするような人間ではない。

 そう信じたかった。


 けれど、自分が遊びまわっていたのは周知の事実だし、運命の恋人ができたと言われればそれで終わりの、非常にもろい関係だった。


 それに、気づきもしなかった。

 彼女に、他に恋人ができるなんて、考えたことが一度もなかったから。




 婚約破棄など珍しいものではなく、破棄しても双方の結婚式に呼ばれるのは当たり前なのだけれど。


 クリスティーヌの結婚式当日──。


 王族も参加する豪華で素晴らしい挙式の中、美しいドレスに身を包んだクリスティーヌとパトリック宰相。


 俺はその最中、クリスティーヌに気持ちを伝えようかとも考えていた。

 もしかしたら俺の気持ちを知らないから、俺に嫌われていると思っているから、宰相を選んだんじゃないかって。


 俺の気持ちを知ってたら……もしかしてクリスティーヌを奪えるんじゃないかって。

 だって、十年も婚約していたんだ。

 会った回数だって、過ごしてきた日々だって、絶対に俺の方が多い。


 ごくりと喉を鳴らし、決意を固め一歩踏み込んだら──。

 パトリック宰相と、目が合った。


 彼はじっと俺を見つめた後、清々しいまでの笑みを浮かべる。

 そして隣のクリスティーヌに耳打ちし、促されたのか、彼女もこちらを見て微笑み、手を振った。


 宰相にしっかりと腰を抱かれ、エスコートされながら。

 そして宰相は……俺に見せつけるように、彼女の頭にキスをした。



 仲睦まじく寄り添う二人を見て、視界がぼやけていく。

 二人は紛れもなく幸せそうに見えて。


 自分の入る余地が微塵もないことを、強制的に実感させられた。



 ──運命の恋とは、これほどまでに非情なものなのか。


 失って初めて後悔する。

 もっと早くに伝えておけばよかった。

 あんな態度、取らなければ良かった。

 他の令嬢にするように、どうして優しくできなかったんだろう。

 比べられるのは嫌だったけど、新しいことを学ぶ彼女はいつもキラキラとしていて眩しくて……それが好きだった。


 全部全部、もう遅くて。

 もしあのとき、にこやかに対応できていたら何か違っただろうか。


 あの秋空の下で出会った、まだ幼かった彼女に。



『はじめまして。クリスティーヌと申します』

『……僕はフィリップです! 仲良くしてください!』



 そう言えていたら──。

 美しい彼女の隣で笑っていたのは、俺だったのかもしれないと──そう思った。


 ツンと鼻の奥が痛くなる。

 なにかが込み上げてきそうで締め付けられる胸を、服ごと掴み、唇をかみしめた。


 ──長い長い、初恋の終わりだった。




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