第8話
「……我が姉よ。さっきも言ったように、今日川の中に入ったのは僕ではなくて、貢だ。なのに、僕の足は濡れていた。まるで、川の中に入っていたかのように。――どうしてだと、思う?」
「そりゃあ。あんたが川に入ったからでしょ。あれは、自動で動かないもの」
「――そうか」
リビングから出て薄暗い廊下の中、僕は思い返してみた。あの日。僕が貢と一緒に川で溺れたあの日のことを。
けれど、どうにも思い出せない。いや、溺れたことははっきりと、再現できるほどに覚えている。ただその先が、僕ではなく、貢のその先がまるで思い出せない。
僕はあの日溺れて我が姉に助けられた後、姉の背に乗って家に帰った。そして今と同じように、服を脱いで風呂に入って暖を取り、しばらくして帰宅した両親にこっぴどく叱れたのだ。
じゃあ、貢は?
溺れて助けられた後は、貢はどうした? そのまま一人で家に帰って行ったのか?
溺れたばかりの子供が? 確かに貢は元気一杯だけれど、さすがのあいつでも溺れて平然とはしていられないはずだ。ましてや、それが幼少期となるとなおさら。
貢は、僕の小さい頃からの友達だ。ずっと友人がいなかった僕の、唯一の大切な友達だ。
けれどどうだろう。僕は貢のことを、何も知らない。あいつの性別も、あいつの連絡先も、あいつの家も。僕は――。
「――あ」
知っていた。
そうだった。僕は、あいつのことを何も知らないはずがなかった。あいつがどこの誰で、どんな奴で、どこに住んでいるのかなんて。僕が知らないわけがなかった。
九倶都貢は、僕の大切な友達だ。小さい頃からの、所謂幼馴染。そう。こいつは、僕のたった一体の――友達なんだ。
僕は、脱衣所に掛けてある物干しざおに吊るされる一体の人形に目を向けた。ひたひたと雫が床に流れ落ちて行く人形の姿は、男のようでもあるし女のようでもある。褐色の肌をしたその人形は、今にも口を開きそうな顔で、僕を見つめていた。
「一緒に、入るか?」
答えは返ってこない。もし返ってきたとしても、僕はひよって断っただろう。僕は、他人の肌を見慣れてはいないのだ。
「うう、さすがにちょっと冷えてきたな」
早く湯船につかって暖を取ろう。思えば、あの日と同じ構図のような気がする。溺れた小さい僕たちと、同じ。
お互い、風邪ひかないようにしないとな。貢。
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