第26話 世界平和は家族と共に
「私は寛大な女でありたいと常々思っていますが、流石にお母様がお相手となると少々度し難いものがありますよ?」
そんな冗談めかした声に、セクレトの意識は引っ張り上げられた。
身体が形を取り戻す。
気が付けば、セクレトは『黒』に右手をついた状態で立っていた。
そして、すぐ隣には。
この十年、毎日数え切れない程に見てきた笑顔があった。
「ポー……ファ……」
この十年、毎日数え切れない程に呼んだ名を呆然と呟く。
「はい、貴方のポーファです」
もうとっくに見慣れたはずのその笑顔に、心を奪われた。
そのまましばらく見つめ合った後に、ようやく気付く。
ポーファの両手のうち、片方は自分の左手と繋がっていて。
もう片方が、『黒』に触れているということに。
「ちょ、バ……! おま、死……!」
あまりの驚きに、警告の叫びは上手く言葉にならなかった。
「大丈夫ですよ」
一方のポーファは、落ち着いた調子でそう告げる。
確かに目下、ポーファに死ぬ気配など存在しない。
と、いうか。
セクレト自身も、『黒』に触れているにも関わらず死んでいない。
その事実にも、今更ながら気付いた。
「今のところ、私の制御下に入ってくれてます。ここまで進行しちゃうと、消すことまでは出来ないみたいですけれど」
その言葉の通りだとすれば、流石は魔王の直系というところなのだろうか。
確かに本来、魔王の遺産を継ぐに最も相応しいのは彼女とその弟だろう。
だが、しかし。
「コーストも、最初は制御出来てたみたいだからな……いつまで保つかわからん」
だから早く離れろ、と続けようとしたセクレト。
「そうですか。では、手早く済ませてしまいましょう」
しかし、先んじてポーファがそう返した。
実に気軽げな口調だ。
「……どうするつもりだ?」
「反魔法の構築を」
やはりあっさりと、ポーファは告げた。
「構成があまりに複雑すぎる」
セクレトは、とうに至った結論を口にする。
「私だけでは駄目でしょう。セーくんだけでも、無理なのかもしれません。けれど」
ポーファの声は、揺るがない。
「私たちなら、出来ます」
真っ直ぐな視線が、セクレトを射抜いた。
どこに根拠があるというのか。
否、根拠などない。
ポーファの表情から、セクレトはそう読み取った。
「……俺一人で、永遠に封印し続けた方が確実だし安全だ」
ゆえにセクレトも、真っ直ぐな視線と共に否定を返す。
「いえ、そんなことはありませんよ?」
ポーファが小さく首を傾けた。
「だってその場合、如何なる手段を用いてでも世界を滅ぼしますもの」
まるで、何気ない日常会話の一環のように。
「この、私が」
ポーファは、微塵も笑顔を崩すことなく言葉を紡ぐ。
「……は?」
それに対して、セクレトは間抜けな声を返すことしか出来なかった。
「私は、世界よりセーくんの方が大切です」
ポーファが幼い頃からずっと一緒にいたセクレトだからこそわかる。
「だからセーくんが犠牲にならないと存在出来ない世界なんて、そんなものは私が滅ぼします」
その言葉には、一つの嘘も含まれてはいない。
一言一句そのまんま、彼女の本心だ。
そして、いずれはそれを実現可能な程の才を彼女が有していることを。
仮にそうなった場合、彼女は事実それを実行することを。
誰よりセクレトは知っていた。
セクレトの頭に、様々な言葉が浮かぶ。
馬鹿な考えはやめろ。
弟のことはどうする。
俺は、お前たちのために。
などなどなど。
けれど。
「ひひっ」
そのどれも選ばず、セクレトは笑った。
「そりゃ困る」
思えば、自分一人が犠牲になることで世界を……なんて、柄じゃないと思ったから。
立場を入れ替えれば、自分もポーファと同じ言葉を返すに違いないと気付いたから。
それから。
自分の命は、こんなことに費やして良いものではないことを思い出したから。
自分などのために涙を流してくれた少女のために、彼はこの世に戻ってきたのだから。
再び自分のせいで彼女が泣くことになるだろう選択肢を、選ぶわけにはいかなかった。
「世界が滅んじまったら、誰にも養ってもらえなくなっちまう」
だから、冗談めかして肩をすくめた。
「ふふ、そうですね」
ポーファが笑みを深める。
「では、世界を救うとしましょうか」
やっぱり、どこまでも軽い口調と共に。
繋がった手が、強く握られた。
「ひひっ。初めての共同作業としちゃあ悪かねぇ」
セクレトも、それを強く握り返した。
と。
「あー……その、さ。せっかく二人で盛り上がってるとこ、邪魔して悪いんだけど」
そこに、もう一つ。
幾分小さい手が、重ねられた。
「そういうことなら、僕もちゃんと仲間に入れてよね。にーちゃん、ねーちゃん。わざわざ、皆を安全なとこまで送り届けた後で戻ってきたんだし……」
二人を見上げたガードが、少し照れくさそうに笑う。
「家族でしょ?」
覚悟を決めた笑みで。
そして、暖かい笑みだった。
「あぁ、そうだな」
今度は、セクレトも止めようとはしなかった。
この姉弟が望むのであればどんな無茶にだって応えようと、あの日誓ったのだから。
「もちろん、私は最初からそのつもりでしたよ?」
言葉通り、ポーファも当然のように受け入れる。
先の「私たち」には、弟も含まれていたらしい。
「さーて。そんじゃ、いくぜ? 二人とも」
セクレトの呼びかけに、ポーファとガードがしっかりと頷く。
「家族の絆が世界を救う……だなんてクッセェ言葉を、現実にしてやんぞ!」
「はい! 愛しています、セーくん!」
「いや二人共、その掛け声はどうなのさ………………でもま、僕ららしいか」
そんな風に、口に出す言葉はてんでバラバラだったけれど。
三人の心は今、一つになっていた。
それは、気持ちだけの問題ではない。
実際に、三人が触れた『黒』経由で思考が溶け合っている。
誰かが考えたことは、同時に自分が考えたこと。
自分が疑問に思ったことに対して、すぐさま自分の中から答えが返ってくる。
三人は、三人分の頭脳を十全に……どころか。
それぞれの思考が螺旋のように絡まって、何倍何十倍もの力を発揮していく。
◆ ◆ ◆
セクレト・エネーヴは、かつて天才と呼ばれた魔法師である。
そして今なお、世界最高峰の魔法師であった。
一度は諦めた。
命すらも、失った。
しかし一人の少女に出会い、今一度心に火を灯した。
その翼を折られ、自ら飛ぶことが出来なくなってもあがき続けた。
魔法を自ら発動する術を失って尚、魔法師として数多の有象無象を寄せ付けなかった。
ついには、魔王の残した魔法を全て読み解くまでに至った。
そして、今この時。
その研鑽が、ずっと追い求め続けた領域にまで彼を押し上げようとしていた。
◆ ◆ ◆
ポーファ・スパンツリー……否。
ポーファ・エネーヴは、二つの才を受け継いだ天才魔法師である。
魔王の直系にして、セクレト・エネーヴの教えを世界で一番長く受けた少女。
かつて、自身が天才魔法師の力を奪ってしまったことを悔いた。
彼に代わって世界で一番の魔法師になることを誓って、鍛錬した。
何より、愛しい人のために。
セクレトは感じている。
彼女のその力は、とっくに自分を凌駕する域にまで至っていると。
そして、今この時。
その恋情が、想い人と混ざり合い人生最大限に爆発しようとしていた。
◆ ◆ ◆
ガード・エネーヴは、自覚無き天才魔法師である。
魔王の直系にして、セクレト・エネーヴの教えを世界で二番目に長く受けた少年。
姉ほど明確な目標を持っているわけではない。
けれど唯一血の繋がった姉のことも、血の繋がらない唯一の兄の事も大好きだったから。
何かの力になれればと鍛錬していただけだった。
しかし、セクレトの見立てによれば。
ガードの潜在能力は、姉のそれすらも上回っている。
そして、今この時。
その才能が、やはり自覚すらもないままに花開こうとしていた。
◆ ◆ ◆
それぞれが、現在の世界で三指に入る天才魔法師三人。
それでも、かつての絶対的な頂点までは遥かに届かない。
一人一人で、あれば。
しかし三つの才が、混ざり合い、押し上げられ、爆発し、花開いたならば。
人の生死すら凌駕し、世界をも滅ぼさんとする、その高みに。
届く。
◆ ◆ ◆
『出来た……』
三つの心を重ねた三人が、三つの声を重ねた。
反魔法は、ここに完成した。
重なった三つの手の上に、出来上がった。
それは小さな小さな、しかしとても優しい輝きを帯びた『白』い球だった。
それを三つの手で、そっと『黒』に押し当てる。
普通であれば、それで終わり。
最初からそこに何も存在しなかったかのように、両方が消滅するだけである。
しかし、この時は違った。
それは魔力量の問題なのか、魔法構成の複雑さの問題なのか。
あるいは、もっと別の要因があったのか。
わからない。
わからないが、とにかく。
『白』は、『黒』を優しく包み込むように広がっていった。
やがて、『黒』は全て『白』になった。
巨大になった『白』が、強い輝きを放つ。
圧倒的な光量。
しかし、セクレトにとっては微塵も眩しくはなかった。
恐らく、他の二人にとってもそうだったのだろう。
ただただ美しい光を、三人で眺めていた。
その中に。
その、最奥に。
いつか敵対した美貌が、ぼんやり見えた気がした。
セクレトの知る、険しい顔ではなく。
彼女は、笑っているように思えた。
それは、セクレトの願望が見せた幻なのかもしれないけれど。
恐らくは、自分が彼女と彼に向けるものと同じ種類の笑みだったから。
隣の姉弟にもそれが見えていることを。
心から、願った。
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