第3話大切な思い出と新しい居場所~年配自販機の日常~

 しばらく見ていない光景がある。

 目の前を小さな子どもたちや若者、家族連れがやってきて笑顔を溢す。

 しばらく嗅いでいない香りがある。

 目の前で燻らせる煙草や、お客さんの香水の香り。

 しばらく聞いていない音がある。

 カチャンというコインを呑み込む音、ガチャンという缶ジュースを排出する音。


 目を閉じれば見えるし、嗅げるし、聞こえる。

 思い出はいつも色褪せずそこにある。


 私は古い駄菓子屋の前に設置された旧式の自動販売機だ。ほったらかされてもうしばらく経つ。メンテナンスもほぼ行き届いていない。

 後ろにある古い駄菓子屋もおかみさんが亡くなってからは閉じてしまった。ご主人の治郎さんは頑固者で、子どもたちの一緒に暮らそうという言葉にも耳を貸さない。

 私は知っている。治郎さんにとって、おかみさんとの思い出の詰まった家は離れがたいのだ。でも大人になった子どもたちの苦悩もよく分かる。

 治郎さんは大切な家族なのだ。私のように無視される存在ではない。


 治郎さんは週に二回デイサービスのお迎えの車に乗って一日お出かけする。友達と会うのは楽しそうだ。帰りはいつも笑顔。でも帰ってくると寂しそうな顔をする。

 前はそんな顔あまりしなかったね。


 治郎さんは夏の終わりごろ、この家の中で倒れた。心臓が弱っていたらしい。それからは誰もこの家には寄り付かない。入院の準備をしに来た家族を除いては。

 そして退院が決まったらしい折から、私の周囲もざわつきだした。

 治郎さんは施設に入るらしい。

 この家も空き地にして売るかもしれないということだった。

 私はもう本当に必要のない存在になってしまったのだ。

 退院の日には、治郎さんはそのまま施設にいくことになる。だからここにはもう誰も訪れない。


 しばらく眠りこけていて目を開けると、そこには治郎さんが立っていた。

 どうしたのだろう、もうここには来ないはずではなかったのか。私はすでに命尽きてしまったのだろうか。

「今までよう頑張ってくれたな、ありがとう。いっつもそばにおってくれてありがとうな」

 治郎さんは私に手を掛けてそう言ってくれた。いつもの治郎さんだ。他の人間もいる。夢じゃない。

「おじいちゃん、それは自動販売機よ」

 子どもたちは治郎さんが長らくの入院で認知症になったのではと勘ぐったようだ。

 その隣には見も知らない中年男性が立っていて、

「これは立派な自動販売機だ!」

 と歓喜の声を挙げている。

「本当にこんなのでいいんですか」

「良いも何も、素晴らしい!最近開いたばかりの昭和レトロを題材にした博物館にはうってつけの展示物ですよ!」

「そんなものですか」

「見る人には分かります!!」

 男はやたらと私の体を触りたがる。同性に撫で回されるのは個人的にはあまり好みでない。

「本当に譲っていただけるのですか」

 男は治郎さんを見つめた。

 治郎さんは男を見て、それから私のほうに向き直ると

「こいつはばあさんがおったときからの戦友みたいなもんじゃ。大事にしてやってください。ばあさんも喜びます」

 私はどうやら治郎さんの家から、昭和レトロな博物館へ引っ越しするらしい。

 治郎さん、新しい棲みかを用意してくれたんだな。ありがとう。お元気で。


 そんなこんなで、私の前には今全く別の風景が広がっている。

 たまに遊びに来てくれる治郎さんの孫たち。手を繋いでやってくる若いカップル。

「ね、剥製よりこっちのほうが良かったでしょ」

「うん、まあ、そうだね。でも今度は剥製も見に行こう」

 とよく分からない会話も聞こえてくるが。


 最近聞いたもの。

 みんなの笑い声。

 最近嗅いだもの。

 人が溢れる会場の空気。

 最近見たもの。

 大好きなみんなの笑顔。

 これからもずっと。

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自販機つれづれなるままに 世芳らん @RAN2023

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