ソニルとの約束

 その後、夢は巻き戻る。

 ソニルが自分を責め、そして自分がソニルに殺される。殺された後、ソニルは自分の姿となって幸せに暮らす。それが何百回と繰り返される。

 ちょうどソニルがアリアの心臓を取り出し、彼女がそれを丸呑みしようとしたその瞬間で、アリアは長い悪夢から醒めた。


「――っ!?」


 ベッドから起き上がった彼女は、そこでようやく自分が延々とループする夢の中にいたのだと気がつく。

 そして、額の汗を拭い、首筋に手を当てて自分の健康状態を確認した。小康状態。悪くないと判断する。

 まるで全力疾走した後のように息切れをし、彼女は必死に部屋の酸素を取り込んでいく。

 その時、爽やかな風が彼女の髪をなびかせた。女神の祝福による息吹と思えるほど、今の彼女にとっては清涼感あふれる風だった。


「大丈夫か? アリア」


「あっ、ケアド……」


「食べる気力はあるか?」


 まだケアドの顔しか視認できないアリアだったが、そのケアドの言葉で、彼は紙袋を持っていることを理解した。

 ケアドは袋の中に手を入れ、パンを取り出した。ふっくらとしており、香ばしい匂いも漂ってきそうな理想的なパン。

 彼はそれをアリアに手渡した。


「近くのパン屋で買ったんだ。結構おいしかったぞ」


「ありがとうございます……」


「欲しかったら、飲み物もあるからな」


「はい。今は……大丈夫です」


 アリアはとりあえず一口食べ、それから口内でゆっくりと味を楽しむ。

 鼻から突き抜ける小麦粉の上品な匂い。職人の想いがこもっており、噛む度に甘い味が口の中に広がってくる。


「美味しい……」


 アリアはベッドに腰掛けながら、もそもそと食べることに集中しながらパンを食べ続けていた。

 思い返すのは昨日の出来事ではなく、夢だった。あれだけ長い間――と認識しているのはアリアだけだが――同じ画を繰り返し見せられたアリア。

 その光景は否応なしに、彼女の記憶に焼き付いてしまっていた。

 だが、目の前で待機しているケアドにとって、その話は意味をなさない。だから、彼と話すことは昨夜の深夜のことになるだろう。

 ふと、アリアはケアドを見る。彼は昨日と変わらない表情で外の景色を眺めていた。彼女の視線に気がついたのか、ケアドはアリアの方を向く。

 その時の彼は、彼女を安心させるために優しい笑顔を向けていた。

 自分はどれだけうなされていたのだろう。アリアは、もしかしたら自分の恥ずかしい所をケアドに見られてしまったのではないかと考える。

 だが、彼になら別に見られてもいいと思うようになっていた。今までの緊張の糸が、ケアドによって解かれていく。そんな気分をアリアは味わっていた。

 そんなことをボーッと考えつつ、彼女が口を開いたのは、食事が終わってからだった。


「……私を騙ってた人物はソニルでした」


 彼女に目線を合わせるため、ケアドはアリアの隣に腰掛ける。

 これから彼女が語る真実は、おおよそケアドにも予想が出来たことだった。

 だが、無神経に回答をするわけにはいかない。だから、ケアドは彼女から言葉を引き出しやすいように慎重に言葉を選んだ。


「事情はありそうだが……知り合いなんだな?」


「はい。私が子どもの頃、仲の良かった友達だったんです」


「アリアを事前に知ってたってことか。なるほどな」


 やはり、とケアドは思う。

 殺人犯の正体が『ソニル』だと気づいた時、アリアが必死に呼びかけていた理由も合点がいく。

 そして、『アリア』と偽名できた理由も。

 恐らく『ソニル』はアリアの近況も把握できていた。だから、アリアを貶めるために名前を騙り、彼女を混乱させようとした。そうケアドは考えている。

 その混乱の中でアリアを殺し、彼女の存在を乗っ取ろうとしたのだろう、と。

 アリアを知っている者がどの程度存在するのかは、ケアドは知らない。だが、それらと会わずに生きていくことができれば、『ソニル』が『アリア』となることに何ら問題はないだろう。

 成り代わり。殺めた誰かの名を騙って生きていくことは、難しいことではない。

 自分を証明できるもの。それは昔から交流のある人々か、生まれた国の教会くらいしかないのだから。

 アリアはカルホハン帝国の出身だった。だが、そのカルホハン帝国はすでに滅亡している。つまり、彼女を彼女と確認できる証明はないのだ。

 ギルドが、証明のない人間の一種の拠り所となっているという声が一部では上がっている。確かに、個人を証明するための似顔絵も作られることから、証明になるかもしれない。

 短期間の入国ならば、少なくとも身分がないよりはマシとも言えるので入国を許可される場合もある。だが、これでギルド以外の証明を行うことは基本的に不可能だ。

 ギルドはどのような人間でも受け入れる。それは罪を犯した人間でも。

 ギルドの方針は仕事さえ行ってくれれば何ら問題はないのだ。だが、数多くの市民を抱え、守っていかなければならない国はそうはいかない。

『傷』を持つ人間は、国にお金を落とすことは許されても、国に住み着くことは許されない。

 そもそも、他国から流入してきた人間が証明を作ることは、よほどの理由がない限りできない。証明を作成できるのは、基本的にその国に生まれ、暮らした人間のみ。

 一部の理由を除き、国を出るということは、戻らないのであれば自分自身の証明を捨てることも同じだ。

 村に住んでいた時に聞いた、だれかのよもやま話を、ケアドは思い出していた。


「本当は、ソニルはあんなことする子じゃないんです。彼女は優しくて、大人しくて……」


 狂気に満ちた犯罪者を必死に弁解するアリアの様子から、彼女の言葉は全て真実なのだろうとケアドは思う。

 昔の彼女からは考えられない行動をしていたことも、アリアの必死な呼びかけに繋がったのだろう。


「でも、現にキミを襲っていた……」


「……そう、です。約束……破ってしまったから」


 しまったと、ケアドは直感した。

 彼女を責める方向で話を進めてしまった。


「私が悪いんです。ソニルとの大切な約束を無視したから、彼女はあんなこと……人殺しなんてことを……」


「そんなに大事な約束だったのか?」


 アリアは首を横に振る。それは否定の意味とは少し違うものだった。


「分かりません。どんな内容だったのか、私の記憶が確かなら教えてもらえませんでしたから」


「そう……か」


 何らかの記念日だったのだろうか。

 内容を教えない約束なんて、二人の間に何か嬉しい出来事を共有したいという思いがあるから、秘密にする。

 それも、ソニルからアリアへと、大事な何かがあったのだろう。


「……ソニルと会話しました」


「ああ。そうだな……」


 あんな場面でなければ、アリアはどれだけ嬉しかったことだろう。

 帝国が滅び、実験体となったアリアが友人と再会する。そして、彼女はしばらくの間、辛い記憶を忘れて楽しく過ごすことができたはずだった。

 しかし、あれは会話というより、一方的な責めなのでは?

 ケアドが少しだけ疑念を持ち始めたと同時に、アリアは屈託のない笑顔で彼に話しかけた。


「――でね、ケアド! 私、会話したことでソニルを救う手段、見つかったんです!」


「えっ?」


「あのね……私が死ねば、ソニルは救われるんです。ソニルは私の友達です。だから、私が死にたいって思ってたこと、気がついてくれました。それに、彼女は今まで辛い毎日を送ってました」


「アリア……? 何を――」


「逆に私は生きる価値のない日々を送ってて……この間のギルドリーダーさんのように関係のない人を巻き込んで……。こんな私より、ソニルに生きててくれた方がきっと幸せです。ケアドも……そう思いますよね!? そうですよね!?」


 まるで、そうだと言ってほしいくらいに。

 アリアはケアドの服を掴んで、より一層厳しい笑顔で心に訴えかける。


「今まで私が良かれと思ってやってたことは、全部……全部、ソニルには無意味だったんです。ううん、迷惑だったのに、私は無理やり彼女に接していた。だから……そんなんだから……私は呪いを受けるんです」


「……本当に、ソニルはそう言ったのか?」


「言いました。私は聞いたんです。この耳で。私は必要ない。ソニルが私になれば、幸せな未来が待ってるんです!!」


「――それは夢の話だろう?」


「……夢?」


「夢はあくまでも夢だ。現実じゃない。例え、良いことが起こっても夢じゃ意味がないんだ。現実で叶えないとな。……けど、悪いことが起こっても、夢なら意味はない。現実じゃないんだからな。それは『自分にとって都合の良い』悪い出来事でしかないんだよ」


「そんな……そんなことありません……」


「――じゃあ、何で泣いてるんだよ。幸せになりたいのに、どうして涙ぐむ必要があるんだよ」


 その時、アリアは自分が涙を流していたことを実感した。

 ケアドに対して、努めて笑顔で接していたはずなのに。

 目元に指で触れて、その液体に触れる。確かに、ケアドの言う通り、悲痛な雫だった。


「死にたくないんだろ? 生きたいんだろ? 今は悪い夢を見てびっくりしてるだけなんだよ。本当にキミがやらなきゃならないこと、何だと思う?」


「私が……やるべきこと……」


「アリア。キミがやるべきこと……それはソニルのために死ぬことじゃない。ソニルのために命をかけて説得すること……じゃないのか?」


「説得……」


「夢じゃない、記憶の中のソニルはキミのことをどう思っていたんだ?」


「……それは」


 アリアは、自分自身の記憶を反芻する。夢が邪魔をするが、彼女は必死に『事実』を探していた。

 確かに、アリアの記憶のソニルは、アリアに笑顔を向けていた。

 街へ繰り出し、店の商品を眺めていた時、感想を言い合い、互いの価値観の違いを楽しんでいた時のソニルは心から笑っていた。楽しんでいた。

 それに、自分よりもソニルが先に待っていることが多かったのを、アリアは思い出した。それは何よりソニルが自分と会いたい、会話をしたいという証明ではないのか。

 彼女との思い出を振り返り終わった頃には、彼女の涙はすでに止まっていた。


「――笑ってた。一緒に遊んで、嬉しいって言ってくれてた……」


「……だろ? そんなに仲が良いなら、説得だってきっと上手くいく。どうしても約束を破らなきゃならない理由があったんだろ? それを説明すればいいんだよ。ソニルは分かってくれるさ」


「そう……かな?」


 温もりを感じていたい。アリアは無意識のうちに、ケアドの胸に顔を埋めていた。

 ケアドも彼女のその甘えを受入れ、黙って彼女を抱きしめた。


「大事に想ってくれる人の声は……自分を見失った時だって届くんだ。だから、みんな繋がりを求めたくなる。……少なくとも、俺はそう思いたい」


「ケアド……」


 顔を上げるアリア。彼女が見るケアドの表情は何かを思い詰めた、過去に何かあったと察せられるそんな表情をしていた。

 きっと、彼も大事な人に関わる出来事を体験したのだろう。だが、アリアは彼に聞くことはしない。

 彼女はやはり、他人には踏み入ってはいけない領域があることを知っていたから。


「――分かりました。今日の夜、決着をつけます」


 アリアの明確な決意。夢から覚めた時の彼女とはもう決別している。

 今、ケアドの目の前にいる存在。それは、かけがえのない友人を救うために全てをかける覚悟のある一人の女性だった。

 ケアドは彼女の意思を感じ取り、そして力強く頷いた。彼女の想いが友人に届くように願いながら。

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