過去の記憶、私が知らない彼女

 深夜の騒動の後、アリアとケアドは宿に戻り、休息を得ていた。

 特にアリアの疲労は凄まじく、悪夢にうなされながらも彼女は昼まで目覚めることはなかった。

 体の疲労が無くなったことで、アリアの目覚めが許可される。しかし、当の彼女はまだ悪夢の中で苦しんでいた。


 夢の中で、アリアは走っていた。何故これほどまでに走っているのだろう。肺に空気を送り込み、地面を強く踏みつけて駆ける。

 アリアの中では一生懸命に、決して手を抜かずに全力疾走しているつもりだった。

 しかし、彼女の動きはまるで走馬灯のようにゆっくりと動き、思うように前へ進まない。それがもどかしく思うアリアは、せめて疾走だけは止めまいと強く思った。

 息切れもせず、長い距離を彼女は走っている。それが夢の中であるが故ではあるが、今の彼女に夢と現実の区別は無意味だった。夢の中であればあるほど、それが夢であることに疑問を抱かない。

 現に、アリアは自分さえ知らない目的地へ向かって走っているのだから。

 ふと、アリアは自分がいるこの場所が気になった。だから、転ばないように気をつけながら、周りを見渡した。


「……あっ、そっか」


 ここは、彼女が幼少時に暮らしていた街だった。今は滅亡したカルホハン帝国の一城下町。侵略行為でのし上がってきた国だからだろう。石造・木造の不規則な家が並び、更に建築様式に至っては様々なデザイナーがしのぎを削ったのか、一般的なものもあれば、へんてこなデザインをしているもの。機能性を重視した格式高い建物等、国の景観は、お世辞にも素敵とは言い難いものだった。

 しかも、アリアが走っているこの場所はカルホハン帝国の中心と呼ばれる地域。

 国は景観というものを重視することもある。国は人がいなければ成り立たない。住んでいる人間にとっては生きていければいいという考えが大半を占めるだろうが、国の運営をしている人間にとっては死活問題になる。

 景観を良くすれば国のイメージも上がり、人が増えていく。国の存続を願うための一種の方法だったのだ。

 しかし、『我慢できなくなったら』侵略すればいいカルホハン帝国にその理由は意味をなさない。だからこそ、景観に拘らないある意味では自由な街づくりが行われていた。

 ここは血みどろの歴史が刻まれているが、住民は明るく、そして生き生きと生活している様子がアリアの目に映った。

 久しぶりの光景に、彼女も嬉しくなる。ある時期を堺に、現在目撃している光景は全て灰になってしまったのだから。

 しかし、歩を進めていけば、そんな国の陽の部分が次第に見えなくなっていく。

 先程まであったいくつもの興味をそそる建物は鳴りを潜め、ボロボロの建物が姿を現してくる。

 スラム街。カルホハン帝国に侵略され、のし上がってこれなかった一般市民の最後の行き先がここだった。

 奴隷同然の仕事をさせられ、食べる物に困る毎日。それでも、そこの人々は明日を掴むために生き続ける。

 そのすさんだ場所にアリアの格好は不釣り合いも同然だった。シルクの素材を使った肌触りの良い衣服。おしゃれを気取った丈の短いスカート。一流のデザイナーが手掛けた靴。

 どれも自分の親からの贈り物であった。アリアはこの衣服に何ら疑問を持つこと無く、成長していった。これが世界の標準だと信じて疑わずに。結局、不幸の当事者にならなければ、自分の幸不幸など分かりもしない。幸せを図る定規は自分の背丈が基準となる。

 だからこそ、アリアはソニルとの出会いを神様がくれた大事な贈り物だと信じていた。


「ソニル……」


 ようやく彼女は気がつくことができた。私はソニルに会いに行くために、走っていたのか。

 そういえば、と。アリアは過去の記憶でソニルに会うためにこうして全力で体を動かしていたことを思い出した。

 じゃあ、これは楽しい過去の再現……?

 アリアはこれを『現実』と思い込み、ソニルの姿を探した。


「ソニル? どこにいるんですか?」


 ソニルの姿を探すため、アリアは目を皿にしてスラム街を見渡す。

 そうして、彼女は友人の姿を発見することができた。


「――ソニル!」


 アリアが求めていた人物ソニルは、少しくたびれた樽の上に座り込んでただボーッとしていた。

 彼女の姿は深夜見たあのくすんだ青髪でなく、やつれた表情でもない。

 全く過去の姿と同一の彼女がそこにはいた。若草のような新鮮な緑色の髪は彼女の臀部まで伸びているが、髪留めで巻いてその長さということは実際にはもう少し長いのだとアリアは思った。

 彼女の毛髪とは反対に、彼女が着ているオーバーオールは砂埃にまみれて一度も洗われていないと思われるほど汚されていた。

 アリアの自分を呼ぶ声に気が付き、ソニルはふとアリアの方向に顔を向ける。そして、彼女の姿を発見したソニルは顔をほころばせ、樽から降りて立ち上がった。


「アリアちゃん……。おはよう」


「おはようございますソニル。今日も良い天気ですね」


 月並みな会話だ。だが、ソニルの元気な姿を見られたアリアはそれだけで安心していた。やはり、今日見たあのソニルは嘘だった……?

 そう。ソニルがあんな姿になっているはずがない。カルホハン帝国が滅亡した後、彼女は親と逃げ延びて、もっと待遇の良い国で暮らし始めて、そこで想い人が出来て、結婚して今は幸せに暮らしているのだ。

 夢の中であれば、そのように妄想するのも悪くないかもしれない。だが、アリアはこれを真実だと思いこんでいる。これは夢なのだ。彼女は単に現実逃避しているに過ぎない。

 それに気づくことができないアリアは自分より背丈の小さな――過去の記憶から成長していない――ソニルと楽しく話すのだった。大人となった自分の口調で。


「さて、今日はどこで遊びましょうか?」


「うーん……アリアちゃんはどこに行きたいかな?」


 控えめな性格をしているソニルは、もじもじとしながらアリアの言葉を待つ。

 これでも、彼女は喋っている方だった。

 普段は無口であまり喋らない彼女は、アリアが来た時は喜々として積極的にコミュニケーションを取ろうとはしているのだ。

 だが、彼女は相手を『立て過ぎて』いる。結果、アリアが常に決定権を握っていた。

 もう一つ、大事なことを思い出したアリア。その想いに応えたのか、彼女のポケットの中に何本かの長いパンが現れた。

 彼女はそのパンを全てソニルに手渡す。


「はい。今日も持ってきました。」


「あっ……ありがとう。本当に助かるよ、アリアちゃん」


 手に抱えたパンを美味しそうに眺めながら、ソニルはアリアに対して感謝の言葉を述べる。

 アリアはソニルとその家族を救ったと思い、誇らしげに胸を叩く。


「今後も、何かあったら私を頼ってくれていいんですからね?」


「……うん。そう……するよ。アリアちゃんは、私の親友なんだから……ね」


 ああ、間違いない。ソニルだ。『自分の知っている』ソニルが、そっくりそのままその姿で自分に微笑みかけている。

 アリアは、嬉しくなってソニルの手を引いて街の方へと向かう。そして、街の風景を二人で眺め、感想を言い合うのだ。

 あの店は品揃えがいいだとか、いつかあの服を着てみたいとか、それらは全て小さな子どもの冷やかしに過ぎないと大人は笑う。

 だが、二人にとってはこんな一時さえもかけがえのない時間だった。

 ソニルの楽しそうな表情や光が鏡に反射することで、きらめいていく瞳。

 アリアもそんな彼女を見ていたこともあり、積極的にソニルを連れ出していたのだ。

 ――きっと、私が見せる世界はソニルにとってすごく輝いて見えているのだろう。

 だがアリアは、街に繰り出した時のソニルの気持ちを考えたことはなかった。彼女が見せていたものは表向きの表情でしかない。その可能性を、幼少期のアリアは考えたことがなかった。

 それは当時の彼女が子どもであり、他人の配慮を考えないのも理由の一つだろう。果たして、ソニルは本当に幸せだったのか。

 真意はソニル本人にしか分からない。しかし、それを聞く術は難しい。本人はアリアを憎み、記憶の中の彼女は過去の巻き戻しのように同じ行動しか取れない。真意を聞くことはできない。

 その不安をアリアは無意識に感じ取っていたのか、ソニルの態度が少しずつ変化していってしまう。


「ねえ、アリアちゃん」


「どうしましたか? ソニル」


「……楽しい?」


 意外な質問に狼狽えるアリア。今まで、ソニルからそんなことを言われたことがなかったアリアは、自分が何か粗相をしてしまったのかとオロオロするばかりである。

 それは、過去の記憶ではあり得ない行動をソニルが取ったということになる。


「えっ? た、楽しいですよね? ソニルもそう思ってますよね?」


「……一度でも、私のことを考えたことがあったかな? アリアちゃんは」


「それは……どういう……」


「私は……私の家族はカルホハン帝国に故郷を奪われ……こんな狭苦しい場所で一生懸命生きてるの。でも、アリアちゃんは違うよね? アリアちゃんは、この光景が普通で、普遍だと思ってる。どれだけ自分が安全な場所で、安心した食事を享受し、教育を受けられているのか……全然分かっちゃいないんだよ」


「そ……そんなこと……! それはソニルのおかげで気づけたんです。自分がどんなに恵まれた場所にいるのか……! だから――」


「へぇ……」


 クスクスとあざ笑うソニル。胸が抉られていく思いが、アリアの中で駆け巡る。

 地に足が着かず、風が吹いてしまえばこのまま飛んでいってしまうのではないか。そう錯覚してしまうほど、アリアの中で現実が崩壊していった。


「じゃあ、これは何? 上流階級の恵みってやつ? だとしたらとんだ思い違いだよね?」


 パンを無造作に捨てるソニル。彼女が喜ぶからと、アリアは今までパンを……食料を配っていた。だが、ソニルとその家族自身、感謝していたのか。

 それはもう、アリアの記憶からは消え去っていた。どのような事実があったのか、彼女はこの長い年数によって失われてしまったのだ。


「あっ……」


「アリアちゃんは結局、私を見下して、悦に浸りたいだけなんだよ。だからこんな酷いことも平気でできるんだ。あーあ、どうして私はアリアちゃんなんかと出会ったのかなー?」


「ち、違……」


「違わないよ。これはアリアちゃんの記憶の中だよ? 私はあなたから作られた記憶のソニルなんだから、事実なんだよ。だから――」


 ソニルの姿が変わる。それはアリアが深夜に見たやつれて世界に絶望しきったソニルだった。

 すでにベレー帽は脱げており、彼女の表情一つ一つがアリアに理解できてしまう。

 そこに、すでに過去、仲良く行動していた時の控えめな笑顔は存在しなかった。


「ねえ……ボクは今まで闇だったんだ。でも、アリアという光がいる。ボクだって光になりたい。じゃあ……光を奪えばいい」


「光……それが私……なんですか?」


「眩しかったよ。今まですっごく眩しかった。ボクは闇の存在なのに、どうしてこんなに辛い辱めを受けなきゃならなかったのか。でも大丈夫。ボクは理解したんだ。キミは死にたいんだよね? だから、ボクを呼んだ。ボクがキミを殺して、光になってあげるよ」


「私が……死にたい……?」


「その手……。その手で今までどのくらいの生命を奪ったんだろうね? その手の『おかげで』どれだけの人が怖い思いをしたのかなあ?」


「くっ……」


 ガントレットに雁字搦めにされた右手を隠そうとするアリア。

 だが、ソニルはその右手を舐めるように見つめ、そして嘲り笑った。


「みんな迷惑してたよぉ? キミがいることで。キミは死んだ方が良かったんじゃないのかなあ? あー。あのギルドリーダーは可哀想だったねぇ。キミがいなければ、彼は今も国の平和を守る良い人でいられたのに。キミが悪者にしちゃった」


「嫌……嫌っ!」


 耳を塞ぎ、ソニルの言葉を聞かないようにしたいアリア。

 だが、ここは夢の中。ソニルの言葉は手をすり抜けてアリアの脳へ直接語りかけてくる。


「ねっ? キミの居場所はどこにもない。キミは一生、その呪いと共に生涯を終えるんだよ」


「ソニ……ル。私は……」


 ぬぅっとアリアの眼前に近づくソニル。

 彼女の目が、気味の悪い笑顔で糸目になっていく。アリアを嘲り笑い、そして一種の救いを彼女に提示するために。


「だからさ、ボクに殺されてよ」


「そんな……」


「ボクを救いたいんだろ? だったら、答えは一つしかないよ。キミが死んで、ボクが光になる。この方法でボクだけでなく、アリアだって救われる。こんな素晴らしい方法、他にないよ」


 鈍い音がアリアの左胸から聞こえてくる。その音は今までモンスターを殺してきた時に聞いたものに似ていた。

 ゆっくりと下を見るアリア。彼女の心臓部分は、ソニルによって貫かれていた。

 アリアがその事実を認識した時、ソニルは彼女の心臓を握りつぶした。果物を搾った時のような清涼感あふれる音はせず、ただ鈍く汚い音が鳴り響いた。

 ああ。私は死ぬのか。

 当の本人は至って正気を保っている。これが二人が救われる方法なら、私は後悔はない。

 自分の体が消えていく感覚を味わいながら、アリアは目の前のソニルの体が変わっていくのを見守る。

 ソニルの体も、着ている服も、全てアリアのものへと変わっていく。

 そう、今日からソニルは私になるのだ。

 すっかりアリアの姿となったソニル。


「ふぅ、やっと死んでくれたわね。全く、ここまで言わなきゃ死んでくれないなんて、アリアは本当にバカなんだから。あっ、今日から私がアリアか」


 彼女はアリアが日常で使っている敬語や振る舞いなどは鳴りを潜め、はつらつとした態度やタメ口をしている。髪型も違う。長い髪は煩わしいのか、腰まで伸びていた髪はバッサリとカットされ、今は肩くらいまでのセミロングな髪型となっていた。


「あっ、ケアド!」


 そして、いつの間にかケアドが現れていた。

 もう、見ていることしかできないアリア。ソニルはそんな彼女に勝ち誇った笑みを浮かべながらケアドに抱きつく。


「私ね、本当のアリアになれたんだっ! これからはこっちが本当の私だから! よろしくねっ!」


 彼はアリアに成り代わったソニルに気づくこと無く、彼女の頭をそっと撫でる。

 あぁ……。これが私にとってのハッピーエンドか。

 彼女は涙を流していた。これは悲しみではない。嬉しさからくる涙だった。

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