ある人身事故について

リュウ

第1話 ある人身事故について

「うわぁー」

 私は目を見開き叫んでいた。

 自分の叫ぶ声が自分の耳に飛び込んできていた。

 ここは何処だろう。

 暗闇に眼が慣れてくる。

 カーテンから漏れる光、机や本棚が見える。

 私の部屋だ。

 私は自分のベッドに寝ていたことに気付いた。

 枕元に置いていたスマホを手さぐりで探した。

 スマホの明かりが眩しい。

 眼を細めて画面を見ると五時半だった。

 朝の五時半だなと自分に問いかける。

 仕事が不規則なため、朝か夕方か迷うことがあった。

 去年まで、電車の整備の仕事をしていた。

 定年で退職したのだが、まだ、働ける体だったので警備会社で働いている。

 たまたま与えられた業務が、時間に不規則だった。

 何か月も経っていたのだが、未だに体が鳴れていないようだ。

 

 嫌な夢を見た。

 パジャマや下着が汗で濡れていた。

 電車が脱線して、多くの死傷者が出た夢だった。

 その電車の整備をしたのが自分だった。

 夢だ、夢なんだと自分に言い聞かせて、ベッドから抜け出した。

 先ず、シャワーを浴びる。

 熱いシャワー。気持ちいい。

 熱いお湯と一緒に不吉な夢の記憶が流されていった。

 シャーワーから上がり、出勤の準備をする。

 私は今、一人だった。

 子供は二人居るが、既に独り立ちしていたし、妻は昨年、あっけなく亡くなってしまった。

 だから、一人だ。

 イビキがうるさいとか、早く寝なさいだとか小うるさい事を言う者はいなくなっていた。

 一人が気楽と、虚勢を張って生きている。


「スマホ、持ったの?」

「ガスの元栓は締めた?」

「換気扇は止めた?」

 亡き妻の声を背にして、戸締りをし、家を出た。


 今日は五月一日、連休の中日だ。

 地下鉄のホームは、家族連れや仕事に向かう人たちで混雑していた。

 電車を待つ。

 遠くから、電車の音がする。

 段々と音も近づいてくる。

 私は、この音に違和感を持った。

 大きな車輪やモーターの音の裏に他の音が聞こえる。

 目を閉じて、音に集中する。

 異音。

 技術者にとって、音はとても重要だ。

 何か擦れるような音が混じっているように感じる。

 その小さな擦れるような音に神経を集中させる。

 その時、電車が脱線する映像が頭の中いっぱいに現れた。

 私は、目を見開いた。

 ブレーキだ。

 ブレーキの部品が外れて、何処かに擦れている音だ。

 どうしょう、このままでは、大事故になってしまう。

 周りを見渡す。

 旅行を楽しみにしている子どもの笑顔が見える。

 いつもの様に仕事に向かう人たち。

 この幸せな時間を無くしてしまうかもしれない。

 電車を止めよう。

 駅員を探すが、かなり遠くだ。

 なんて説明するんだ。

 夢で見たんだったって言うのか?

 信じられる訳ないだろう!

 私は、咄嗟に防止柵を乗り越え、線路に降り立った。

 これで、電車は止まる。

「何をしているんだ」

「人が落ちたぞ!」

「大丈夫かぁ!」

「駅員さん!駅員さん!」

 ホームから声が聞こえる。

 電車が近づいてくる。音が聞こえなくなった。

 電車がホームに滑り込む。

 悲鳴が遠くで聞こえる。

 これで、みんな、助かるんだ。



 発生時刻 七時四十五分

 一部の区間で運行見合わせ

 原因は人身事故

 折り返し運転を行う

 改札口に表示された運行状況・遅延証明書。


 SNSにコメントが寄せられていた。

「人の迷惑を考えろ」

「会社に間に合うか心配、ふざけんな」

「こんなことしかできない人間なんだ」

「勝手な事しやがって」

 何も知らない人たちの反応は、こんなものなのだろう。

 自分のことで精いっぱいなのだから。

 乗降客にとっては、人身事故は、どうでもいいことなのだろう。

 身内でもない限りは。

 対岸の火事の様に。



 その頃、緊急停車した車両の点検が行われていた。

「おい、これって」整備員が別の整備員を呼ぶ。

「部品が欠落している。よく、停まれたな」と顔を見合わせていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある人身事故について リュウ @ryu_labo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ