本物は違う

NiHey

本物は違う



 俺はコーヒーが嫌れぇだ。

 


 あの苦くて酸っぱくて、ぐちゃぐちゃした雑巾みたいな味のコーヒーが嫌れぇだ。


 すこしの甘い香りに誘われて一口飲んでしまうと、「待っていました」と言わんばかりに本性を現してあいつは俺の口いっぱいにえぐみを吐き出しやがる。



 だけどよ、そのコーヒーを飲まないことには俺もエネルギーがでねぇの。

 だから仕方なく会社でパソコンをいじりながら、備え付けの無料自販機から紙コップに注がられた黒い液体を片手に持って、そいつをちびちびと俺の体に注ぎ込むのさ。

 

 まじぃまじぃって苦虫をすりつぶしたように片目をぴくぴくさせながらな。



 ある日そんなことを会社の休憩室でぼやいたら、経理の女が言ったんだ。


 美味しい珈琲を飲んだことがないんですねって。


 女曰く会社においてある自販機のそれは本当の珈琲じゃあねぇんだってよ。

 本物は香りも味も上品で、体だけじゃなくて心も休まるんだとかぬかすわけ。


 また何いってんだって感じでその言葉を信じてなかったんだけど、女の主張がそりゃあもう強いんだ。そこまで言うならと、本物とやらを飲みに一度は行って見ますよってその場の空気に合わせて呟いたんだ。そしたら、あれよあれよと日程を決められて、次の日曜の昼間には女の行きつけだとかいう洒落たカフェへ連れてがれたわけ。


 俺はカフェっていったらドトールくらいしか知らねえ。何ならドトールでさえ大して足を運んじゃいねえが、とにかくガヤガヤしたイメージがあった。けどな、そのカフェは違ったのよ。

 何が違うのかっていうと空気が違うの。

 なんつーか洗練されてんのよ。別に無音で静かーってわけじゃあねえ。

 店内にはジャズだかクラシックだか、俺にはようわからん音楽が流れて、それにかき消されない程度に客たちの会話もちゃんと入ってくる。

 だけどな、その客たちの声も心なしか澄んだ小鳥みてぇで、店内のBGMと調和してまるで森の中にいるような音を作り上げてんの。実際店内には植木鉢からでっけぇ木や植物がボンボン生えてるし、見たこともねえ花もそこら中に生い茂ってやがる。ここは植物園かよってなくらいに。


 店内に入ると少ししてから背の高いイケメンな店員がやってきて席に案内された。女は慣れた様子で先に歩いて、俺はその後ろをびくびくしながら追ったよ。


 あぁ、もう正直にいうわ。


 あの時の俺はちょっとひよってた。なんなら席についてからもっとひよったよ。

 だってよ、値段がバカたけぇのなんのって。

 コーヒー一杯が1600円だぜ? 信じられるか? 俺は目を疑ったね。文字通り三回はメニューの値札を見返したよ。

 しかもメニューには同じコーヒーでも何種類も違うのがあるんだぜ。ブレンドだとかアメリカンだとかの話じゃねえ。俺だって飲み方がいくつかあることくらい知ってるわ。違うのは豆なのよ。使ってる豆が違うんだってな。

 まじまじとメニューに目をやっていた俺の前で女は時間を置かずに注文しやがった。俺の分まで。いやいや、そこは少し考えさせろや、わからないなりにでもこっちも選びたいんじゃ。


 口に出したかって?


  言えるわけねえだろ。この時の俺は実験台に置かれたモルモットみたいなもんだ。まんまるな目でキョロキョロ周りを見ては、顔に手をやったり、椅子の上で体を小さく動かしたりソワソワ小刻みに震えるしかなかった。

 

 コーヒーが来るまで何を話したかはあまり覚えてねえ。ただ、女がニコニコ顔でうんちくを垂れ流してた気がする。珈琲はアラビカ種とカネフェラ種があるとか、育った産地によって味や香りが全く違うだとか、ウィキペディアみてぇに解説が終わらなかったな。


 値段とは非対称にちっせぇコーヒーが運ばれてきた時に、奴は本物の珈琲をやっと飲ませられるって謎に喜んでたよ。


 コーヒーはどうだったかって? 


 一言でいやぁそうだな。旨かったよ。

 うん、非常に旨かったね。


 運ばれてきたコーヒーがちっせぇって、さっき言ったけどよ、匂い……香りって言った方がいいのか? まあなんにせよそれがすっげぇでけぇのよ。


 こーんな、ちっこい液体から漂ってくるその香りが力強くって、でも朗らかで。見た目以上に大きな存在感を感じたよ。巨大とも思える香りが俺の鼻孔をやんわり触る、それだけで俺の眼球が上を向いたね。

 口に液体を入れるとまたびっくりした。これだけの香りだ、苦みがガツンと頭を叩くと思ってた。



 でも無かった。



 そう、苦みが無かったんだ、信じられないだろ?


 苦みだけじゃない。えぐみも、あの酸っぱさもないの。いや、酸っぱさはあった。でも俺の知ってる酸っぱさじゃなくてもっと柑橘みたいな、いや林檎みてぇな酸っぱさで、その中に味わったことない甘みがあった。

 

 あの時の俺は完全に白目をひん剝いていたね。


 女はそんな俺の様子をみて満足したのか、猫みてぇに目を細めてニンマリした笑顔で感想を尋ねてきた。



 本物はどうですかってさ。



 だから答えてやった。




 本音で答えてやった。




 こんなのコーヒーじゃねえってな。


 そりゃあ旨めぇよ。香りも華やかだ。

 でもな、こんなのは俺の求めてるコーヒーじゃあねえ。こんな腑抜けた飲み物じゃあねえんだ、俺が欲しているやつは。こいつは確かに安らぎを与えてくれる。

 だけど俺に必要なのは安らぎでも癒しでもねえ。そういう類のものじゃねえんだ。


 うまい言葉が見つからねえが、言ってしまえば、「カツ」なんだよ。

 このカツってのはな、活であり、喝であり、克だ。

 

 そうカツだ。

 

 俺はな、コーヒーに「カツ」を求めてんだ。こんな俗世から離れたように優雅な空間で、この芳醇な香りと美味は俺に「カツ」を与えられんのか? 

 残念だな、こいつにはできはしねえよ。


 だいたい珈琲ってなんだよ珈琲って。


 コーヒーを珈琲って表現すんな。洒落てれば何でも優れているってもんじゃねえぞ。この際てめえの珈琲(笑)が何だろうとどうでもいいが、

 

 俺のコーヒーはな、苦くて腐ったような酸っぱさと強いえぐみで口の中をしわくちゃにする。そういうもんだ。それが俺にとっての本物だ。


 まじぃまじぃあの苦みやえぐみが俺を動かすんだ。俺のカツになるんだ。



 だからその珈琲がどんなに香り豊かだろうが、高尚な味をしてようが、俺にとっての本物にはなれやしない。上質な味だの心地よい幸福感じゃあ俺のエンジンはかからねえ。動くことはできねえんだ。


 アンタはアンタで勝手にてめぇの珈琲とやらを優雅に啜ってろや。口当たりの良いものだけをとっていればいい。質の悪い苦さやえぐみに触れないでいるのも一つの生き方さ。


 でもな、俺はそれを糧にすることはねえ。

 だから俺は俺のコーヒーを体内に注ぎ込む。



 感想を一通り聞いて女は何も言わずに席を離れたよ。

 それから戻ってくることはなかった。

 

 去る時に女がどんな顔をしていたかは覚えてねえが、珈琲カップのそばに透明の水滴が一粒残っていたな。


 

 あの女はコーヒーのカツに負けたんだ。


 そして俺は本物のカツによって勝った。



 残された俺は一人カップを手に取った。香りが絹のように鼻腔を撫で上げ、真っ黒な水面の奥には勝利を祝う緋い輝きがたなびいていた。口づけ、芳醇な宴が口いっぱいに広がった。

 


 今でも忘れられない至福があの中には詰まっていたよ。



 そう、本物はやっぱ違う。お前も一度飲んだ方がいい。



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