第15話

 暗闇の中、目を覚ます。


 周囲に音はない。


 ここがイブリースの魂の中なのだろうか。


 きょろきょろ辺りを見渡すと、ぼうっと丸い灯りで浮かび上がっているところがあった。


 灯りの場所に向かい、歩を進める。


 闇に飲まれた地面に足をとられそうな錯覚に襲われながらも、ひたすら歩いた。



「ごめんなさい……ごめんなさい……」



 灯りの側から聞こえてくるのは、聞きなれた声。



「イブリース様?」



 灯りは、よくアンジュたちがお茶をしている西洋風東屋から放たれている。


 闇に足をとられないよう注意深く進んでいくと、東屋には、二人の人影が見えた。



「ごめんなさい……兄上。ごめんなさい……」



「イブリース様‼」



 人影を前に床に膝まづいて謝っているのはイブリースだ。


 姿を確認したアンジュは、闇を蹴って走り出す。



「イブリース様‼ お立ち遊ばして。王太子がみだりに膝をついてはいけませんわ!」



 そばに駆け寄り、抱き起こしたイブリースの頬には涙が光っている。



「……アンジュ。君も僕を責めるために現れたのか……」



 虚ろな瞳に歪んで映る自分の顔に、眉を顰める。



「失礼いたしますわ。イブリース様」



 パン。と乾いた音が辺りに響く。


 頬を打たれた衝撃で、虚ろだった瞳に光が宿る。



「アンジュ……? 本物かい……?」



「ええ、本物ですわよ。頬を打ったご無礼をお許しくださいまし」



「どうして……こんなところに……」



「あなた様をお迎えにあがりましたわ。さあ、こんな暗い場所なんて出て、一緒にお茶を飲みましょう」



 打った方の頬に優しく手を当て微笑むアンジュを食い入るように見ていたイブリースは、束の間迷ったような仕草をしたが、首を振る。



「だめだよ。僕は、ここで、罪を償わないといけないんだ」



 イブリースの告白にアンジュが罪……? と呟く。



「そうだよ。僕は決して許されないことをしたんだ。兄上にも、母上にも……」



「そうですか。では、わたくしもイブリース様が気が済むまでここにおりますわ」



 支えていたイブリースをゆっくり床に座らせ、自らも隣に座ったアンジュに、えっ! と驚きの声がかかる。



「どうして? こんなところにいるのは僕だけで充分だ。君は帰るんだ」



「嫌ですわ。わたくしとイブリース様は、将来夫婦になるのです。夫婦とは一心同体。病めるときも健やかなるときも共に歩む者。イブリース様一人をこんな暗くて寒い場所においてはおけませんわ」



「君は……本来ならば、兄上の妻になるはずだったというのに。僕に順ずる必要はないよ」



 全てを諦めたように笑うイブリースに、アンジュがこてんと首を傾げる。



「あら、わたくしは、イブリース様の婚約者でしてよ。どうしてラスール様がでてこられるの?」



「君は本来、兄上の婚約者だったじゃないか。将来を嘱望された兄上を支えるために、王太子妃教育に励んでいた君を見ていた。兄上をお支えするために、ずっとがんばっていたんだろう。なのに……」



「わたくし、イブリース様が作ってくださるクッキーが大好きですの」



「はあ?」



「初めて見た時は、なんて不格好なクッキーだろうと思っていましたの」



「所詮は、素人の作ったものだもんね」



「でも、そのクッキーを、この世の何物よりも大切そうに食べる方を見ていて、食べてみたくなりましたの」



 ちらりと伺ったイブリースは、俯いていて表情が読めない。



「分けていただいたクッキーは、お世辞にも美味しいとは言えなかったんですけれど。とろけそうな笑顔で召し上がっている方を見ていて、お味以外のなにかを召し上がっていると思いましたわ」



「味以外の……なにか……」



「そのクッキーが、いつしかわたくしのために作られるようになって、その方が幸せそうに笑っていた理由がわかりましたわ」



 ここまで話し、アンジュは口を閉ざす。



「理由って……?」



「わかりませんか?」



 問い掛けに、静かに首を振る。



「イブリース様のクッキーからは、言外の言葉が伝わってきますの」



「……」



「お疲れ様とか、無理はしないでねとか、頑張ったねとか」



 まあ、わたくしが勝手に感じていただけですけど。と恥ずかしそうに付け加えるアンジュに暗い視線が飛ぶ。



「もしそうだったら、僕が兄上に最後に作った菓子にはさぞ、恨み辛みが込められていただろうな……」



「え……?」



「アンジュは、知らないだろう。僕が、どれだけ兄上を憎んでいたかを」



ラスールに最後に贈った菓子も、クッキーだった。


 あの日は、母である王妃から、アンジュにあまり会いに行かないよう注意されていた。


 欲しいと思ったもののほとんどが、ラスールのものだと気付かされらイブリースは、いつものように気分を落ち着けるために菓子を作り、楽しみにしてくれている兄に持っていった。


 クッキーを見て、幸せそうに笑う兄を見て、つい、言ってしまった。



「兄上などいなければよかった……」



 両目から涙がぼろぼろ零れ落ちる。



「僕の欲しいものは、全て兄上の手の内だった。僕がどれだけ努力しても、兄上には叶わない。僕は、兄上の代替品としても失格だ」



 流れる涙をそのままに、心に溜めていた言葉が口からあふれでる。



「それなのに、兄上が亡くなられてから、兄上のものだったもの全てが僕の元にきてしまった。こんなこと……許されるはずない」



 苦悩を吐露するイブリースの頬に、そっとハンカチをあてる。


 二人は仲のいい兄弟だと思い眺めていたアンジュだが、そんな仲でも葛藤があったのだ。



「出来のいい兄を持つと、弟でも妹でも苦労いたしますのね」



 長年心の内に溜めていた想いを外に出したことで、呆然としている。


 父母からも重臣からも信の厚い、非の打ちどころのない兄に対する負の感情だ。


 持てば持つほど、自分が醜く愚かな存在のように思えていた。


 誰も兄弟に対してこんな想いなど抱かないだろうと自分を責めていた。



「わたくしも、お兄様などいなくなってしまえ。と部屋で叫んだことがござますの」



「…………本当に?」



 アンジュの応えに、ふいに顔を上げた。


 迷い子のような顔をしたイブリースの瞳に、生気が宿る。



「ええ。幾度もありますとも。もっとも、わたくしの場合は、兄はいなくなりはしなかったのですけど」



 残念ながら。と忌々しそうに付け加えるアンジュに、ほんの少しだけイブリースが笑んだ。


 泣きはらした顔で笑んだイブリースに、ほっと安堵の息をつく。


 イブリースの良いところは、どんな時にも素直なところだ。と思う。



「イブリース様は、こんなわたくしは許されないと思いますか?」



 イブリースの瞳の奥を覗き込みながら問い掛けるアンジュに、ふるふると首を横に振る。



「なら、イブリース様は?」



 アンジュが言わんとすることを悟ったイブリースは、悩まし気に眉を顰めた。



「本物のラスール様は、こんな風に冷たい顔でイブリース様を見ていらっしゃいましたか?」



 東屋で立っているラスールに顔を向ける。


 ラスールは無表情で冷たい顔でイブリースを見下ろしている。



「本物の……兄上……」



 記憶をたぐって思い出すラスールの顔は、いつも柔和で微笑んでいて。


 イブリースが、例の暴言を吐いた時ですら、困ったように笑っていた。



「ここは、イブリース様の魂の奥底。ご自身を許せないお気持ちが、ラスール様を固い表情をさせているのではないでしょうか?」



「僕が……兄上に、こんな表情をさせている……?」



「そうです。わたくしの知るラスール様は、いつもイブリース様を愛おし気に見つめていらっしゃいました」



 沈黙が薄暗い光の中に落ちる。


 アンジュの目から逃げるように俯いていたイブリースの頬から、雫が零れ落ちる。

 雫が流れ落ちる様子を、静かに見守った。


 イブリースが涙を流すにつれ、ラスールの体が発光して薄くなってゆく。


 まるで、イブリースの心に巣くう悔恨の念が洗い流されていくような光景だ。



「それでも……僕の過ちは……」



 許されない。とでも言わんばかりに消えようとするラスールの手をとり、その場に留める。


 消えようと揺らいでいたラスールの体の揺らぎが止まり、再びはっきりと体を形作っていった。


 このままでは、イブリースが囚われてしまう。と感じたアンジュは、ラスールから切り離そうとイブリースの手をとろうとした。


 その時だった。



「イブリース。久しぶりだね」



 揺らぎの止まったラスールの冷ややかだった顔が、穏やかな春の微笑みをたたえる。



「……あ……兄上……? しゃべった……」



「ずっと話をしたかった。けれど、どれだけおまえの回りに現れても、気付いてもらえなくてね」



 強引におまえの中に入ってきてしまったよ。と笑うラスールに、アンジュは伸ばしていた手を降ろして成り行きを見守る。



「兄上……兄上、兄上! ごめんなさい。僕は、兄上を……」



「私たちは、喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかったね」



 すがるように手を握るイブリースの背を、ラスールが優しく撫でる。



「おまえはいつも、僕の後をついてきていて、僕の言うことは何でも聞いていた。可愛かったよ」



「僕は……兄上に、本当はずっといて欲しかった……いなくなれ、なんて嘘なんだ……」



 長い間、伝える相手のいなかった言葉が、ようやく放たれた。


 声が震えている。



「人の運命なんて、誰にもわからない。僕だって、あんな形でおまえと別れるなんて思ってもなかったよ」



 悲壮な面持ちのイブリースとは対照的に微笑むラスールは、優し気だ。



「人生初の兄弟喧嘩で、相手が死んでしまうなんて、おまえも間が悪かったね。まあ、昔から間抜けなところはあったしね」



「兄上?」



 柔和だったラスールの口の端の片側がいたずらっ子のようににやりと跳ねた。


 イブリースは、初めて見る兄の様子ぽかんと口を開けている。



「ずっと空から見ていたが、おまえはばかだ」



「ば……」



 兄からは常に、おまえは賢いよと言われてきたので、ショックで固まる。



「何の罪もないのに、自分を罪人のように扱い、愚か者のふりをする」



 立ち尽くしたイブリースの回りを、ゆっくり回る。


 響く靴音がなんだか威圧的だ。



「誰が頼んだ。そんなこと」



 ふいに靴音が止まったと思った瞬間、イブリースの顔をラスールが覗き見た。


 蒼玉のように無機質な瞳に見つめられ、びくりと肩を震わせる。


 怒りが空気を通して伝わってくる。


 笑み以外の感情を出すラスールを見るのは、アンジュも初めてだ。



「おまえはただ責任から逃げているだけだ。愚か者のままでいれば、期待はされないからな」 



「あんまりですわ、ラスール様」



 追いつめられたイブリースが、震えている。


 かばうように隣にたったアンジュに、ラスールは冷ややかな視線を向けた。



「兄弟喧嘩だ。口を出さないでもらおう。ラベー公爵令嬢」



 硬質な、相手を拒絶する声。


 アンジュは口を引き結ぶ。



「イブリース。お前はもう王太子なんだ。愛するものも国もどちらも守って見せるんだろう」



 初めて兄弟喧嘩をした日、イブリースは言った。


 自分が王になるなら、愛する人も国もどちらも守って見せる、と。


 あの日、何の話のはずみか、国と愛する人、どちらをとるか。という話になった。


 迷わずに国だと答えたラスールに、イブリースが憤ってのことだ。


 イブリースがアンジュに惹かれていることを知りながら、そのままにしていたラスールは驚いた。


 常に自分の下にいるように振る舞う弟が見せた野心だったからだ。


 あの時の出来事は、両親の耳に入り、厳しく叱られイブリースの自尊心を削ぐことになった。



「私は、ついに国以外に大切なものを見つけられなかった。おまえは、違うのだろ」



 だが、ラスールはそんなイブリースを認めてくれていたのだ。



「イブリース、もう、自分を責めるな。他人のために怒れるおまえは、この国に必要な人間だ」



「兄上……」



「わたしの代わりの……いや、おまえ自身がよしとする王となれ」



 硬い表情を解いて破顔したラスールは、イブリースを抱き寄せた。



「はい……はい……」



 肩口でしゃくりあげながら返事をする様子がおかしくて笑う。



「そんなに泣き虫では、婚約者に捨てられてしまうぞ」



 泣いていたイブリースが、その言葉でびくりと震えた。


 彼が、常々捨てられてしまうと怯えるのは、ラスールの言動のせいか。とアンジュは軽く睨みつける。



「わたくしは、捨てません」



 本当? とかすれ声で呟くイブリースに向けて力強く頷く。



「初めてお会いした時からお慕いしておりましたのよ。捨てるわけがないでしょう」



「お……お慕い⁉」



 真っ赤になるイブリースに負けず、アンジュも耳まで真っ赤だ。



「ラスール様にお菓子を届けにこられたイブリース様を見た時から、お慕いしておりましたの」



 ラスールの目の前でこんなことを言うのは、不敬罪に問われてしまうだろうか。と伺い見れば、腕組みをしてあおるようにヒュウと口笛を吹く。



「やれやれ、私のほうが捨てられたといっても過言ではないな」



「そんな……でも……僕は、兄上のようではないし……」



 肩を竦め笑ったラスールは、再び落ち込んだイブリースの頭をまだ言うかと言わんばかりに軽く小突いた。


 涙目でラスールを見上げるイブリースをかばうように抱きとめ、叩かれた箇所を優しく撫でる。



「ラスール様になろうとするのではなく、イブリース様のままで、必要なものを加えてゆけばいいのです」



「加える?」



 きょとんとした瞳に、ええ。と笑って頷いた。



「ご自分ではない何者かになろうとするから無理が生じるのですわ。足りないものは、徐々に加えてゆけばいいのです」



 アンジュの言葉に、しばらく考え込んでいた。


 静かな時間が、薄暗い空間に流れる。


 考え込むイブリースを、この場の誰も急かさない。



「考えたこともなかった。兄上のようでなければ、価値はないと、ずっと思っていた」



 ぽつり、と落とされるように零れた言葉に、抱きしめる腕の力を強くする。


 自分の温もりを伝えることで、味方であることを伝えるように。



「私が、間違っていたのだな……」



 込められた力に応じるように、アンジュの背に手が回される。



「ありがとう」



 耳元で囁かれるように呟かれた言葉と共に、中央に光が集まった。


 三人を中心に集まった光は、爆発するように音もなく弾けた。



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