第16話

「戻ったかい……」



 疲れの滲むかすれ声で目を覚ます。


 数度瞬きをした後、重い体を起こした。


 目の前では、レシャが疲れた様子で立っていた。



「……イブリース様!」



 意識がはっきりした瞬間、不安が湧き上がり、がばりと起きて隣を確認する。


 瞳を閉じたままのイブリースの掌をぎゅっと握ると、そっと握り返してきた。



「アンジュ……」



 この頼りなげな、けれど愛くるしい言葉の出し方は、アンジュの知っているイブリースだ。と確信して、涙が潤む。



「イブリース様……よかった」



 ぽろりと零れて頬を伝う涙を、イブリースの指先がそっと拭う。



「心配かけたね」



 恐る恐る触れてきた指先が愛おしく、掌で包み込み、頬にそっと押し当てた。



「本当ですわ……。もう、ご自分ではないものになろうだなんて、考えないでくださいましね」



「いちゃついてるところ悪いんだけど、そろそろ退散しないと城の連中にバレるんじゃないかい」



 呆れたような声に、レシャの存在を忘れていた二人は、顔を赤くして、パッと離れる。



「そ……そうですわね……」



「すまない。フォーコネ男爵令嬢」



 似たもの同士。と呟いたレシャは、ふんっと鼻を鳴らす。



「そ……それでは、イブリース様。また」



「ああ……。また明日」



 ベッドの上から降りた二人は、恥ずかしそうに乱れた衣服を整えながら目を伏せている。


 そんな二人の様子を、すでに慣れてしまったのか気にする風もなく、レシャは、部屋の扉に耳をつけ、外の様子を伺っている。



「まずい……誰か来る‼」



 レシャの言葉に、イブリースがぱっと動いた。


 アンジュの手を引き、レシャには手で指示して大型のクローゼットの中に二人を隠す。


 人間が二人入っても余裕な大きさのクローゼットの中で、息を顰めながらほんの少し開いているクローゼットの隙間から外の様子を覗いていると、バンッと乱暴に扉が開く音がした。



「ラスール‼ ああ、ここにいたのね」



「母上……」



 現れたのは、ネグリジェ姿の王妃だ。



「ラスール。ああ、わたくしの可愛い息子。嫌な夢を見たの。お前が死んでしまう夢よ」



 イブリースを抱きしめた王妃は、悲し気な声で叫ぶ。


 王妃の後から、ぱたぱたと王妃の侍女たちが追い掛けてきている。



「よかった……顔をよく見せて」



 今はもう王妃よりも背の高くなったイブリースの頬を、両手で包み覗き込むように目をじっと見ている。


 半狂乱の母の姿に、イブリースの瞳が戸惑いに揺れる。



「違う……。お前はラスールじゃない」



 ランプの灯に照らされた薄暗い室内に、勇気のような声が漏れる。



「どこへやったの‼ あの子を‼」



 頬を包んでいた両手に力がこもり、よく手入れされた長い爪が食い込み血が伝る。


 見るからに痛そうな光景に、アンジュはその場から飛び出しそうになった。


 しかし、その気配を察したイブリースに目線で止められ歯噛みする。



「母上、落ち着いてください」



 これまで聞いたことのないような落ち着いた、しかし威厳のある声に、わずかだが王妃がピクリと肩を揺らす。



「落ち着けるわけがないじゃない。あの子を返して!」



 だが、すぐに激昂し両肩に手をやり乱暴に揺する。


 痛いくらい肩に食い込んだ手を、優しく包み込んだイブリースは、束の間迷いを見せるように王妃から視線をそらした。


 だが、心を決めたように強い眼差しで視線を戻す。



「兄上は……もう亡くなっておられます」



「なんということを‼」



 パン。と乾いた音が部屋に響く。


 長年喪にふし、食事をあまりとらず痩せ細った腕から放たれる衝撃は軽く、体格のよいイブリースはびくとも動かない。


 それでも、深く痛んだようで、悲し気に眉を顰める。



「母上……。僕が息子ではだめでしょうか」



 訥々と聞かれた言葉に、王妃の動きが止まる。



「なにを……」



「兄上の葬儀の時、どうしてお前が。と僕を見ていいましたよね」



 一瞬、何を言われたのか分からないという表情をしていた王妃は、すぐに何かを思い出したかのように、嫌悪を含んだ視線を向ける。



「これまでずっと、兄上のようにならなければ母上に捨てられると思ってきました」



 何の感情も感じられない声に、隠れていたアンジュは息を飲む。


 イブリースが、常に人の顔色を伺って『捨てられたくない』と口にする原因となった傷痕が見えた気がした。



「だから、僕は兄上の器でもいいと思った」



「それならいいではないの。大人しく薬を飲みなさい」



 イブリースを懐柔できると思った王妃は、片方の唇を吊り上げて笑う。



「でも、それは違った……。僕は、僕です」



 笑った唇が、ピクリと揺れてへの字に下がる。


 いつもならばそんな時、すぐに意見を撤回していた。しかし、今は、撤回するつもりは毛頭ない。



「どうか、兄上の器としての僕ではなく、そのままの僕を見ていただけませんか?」



 クローゼットに隠れながら場のようすを聞いていたアンジュは、イブリースの成長に涙ぐむ。


 これまでのイブリースならば、王妃にいわれるがままだっただろう。


 自らの主張を臆することなく王妃に発したイブリースの姿は、アンジュにとって感極まるものだった。


 とはいえ、隣にいるレシャはそんな様子のアンジュに呆れた顔をしていたが。



「ラスールは……そんなことを言わないわ……」



 初めてだろうイブリースの反抗に、しばらく沈黙していた王妃の口から地を這うような声。



「ラスールは、常にわたくしのことを考えて、優しく、思いやり深かった。あの子の葬儀が終わった後から、わたくしには寄り付きもしなくなったあなたとは違ってね」



 王妃の剣幕に、イブリースが下唇を噛み締める。


 ラスールと比べられることがなによりイブリースを傷つけると分かっていての発言だろう。


 続けて、王妃は二の刃を口から放つ。



「あなたが……あなたが死ねば「そこまでですわ!」」



 王妃の言葉が最後まで放たれる前に、アンジュはたまらずクローゼットから飛び出した。


 メイド服姿のアンジュの姿に、王妃は一瞬呆然としたが、すぐに冷静さを取り繕う。



「なんのつもりです。ラベー公爵令嬢」



「お話を途中でさえぎったこと、お詫び申し上げますわ」



 アンジュの名を呟いたイブリースに微笑みかけ、冷ややかな目をした王妃に視線を戻す。



「王妃殿下……言葉は時に人を包む毛布にもなり、人を傷つける刃にもなる。そう教えてくださったのは王妃殿下でしたわよね」



 子を失った母の悲しみは、アンジュには分からない。そして、王妃が抱えている苦しみもだ。


 だが、さっきまでの王妃の言葉が本心であるとも思えなかった。


 ラスールが生きていたころ、兄を慕い追い掛けるイブリースの姿を幸せそうに城の窓から眺めている姿を知っているからだ。



「今の王妃殿下は、わざイブリース様を傷つける言葉を言っているように思えます」



 できるだけ、責めるような調子を声に乗せないよう注意しながら言葉を伝えた。


 しかし、王妃はやはり、自分への攻撃だと捕らえてしまったようで。眦がきゅっと吊り上がる。



「あなたになにがわかると言うの。ラスールが死んですぐにイブリースに乗り換えたくせに。悲しむそぶりも見せずにね」



「わたくしの大切な王妃殿下……いいえ、お義母様、とお呼びしてもよろしいでしょうか」



 「母」という言葉に、王妃がピクリと肩を揺らす。


 拒絶されなかったため、慎重に言葉を紡いだ。



「どうか……身の内の悲しみに流され、お義母様のことを大切に思っている方を傷つけるのはおやめください。そんなお義母様のお姿を見ているのは辛いです」



ラスールの婚約者だった時。そしてイブリースの婚約者であったときの双方で、王妃は、将来の王妃の心構えを説いてくれていた。


 為政者を支える者として、人として正しくあれと語ったのは、王妃自身だ。



「わたくしたちの間違いは、悲しみや痛みをすぐに忘れようとしたことでしたわ」



 貴族は、感情を表にしてはならない。


 常に微笑みを絶やさず、平静でいなければ、政敵に足元をすくわれたり、社交界で孤立してしまう。


 王族ならば、なおのことだ。



「お義母様の悲しみも、痛みも、共に分かち合わせてくださいませ」



 喜びは、周りの人と分かち合いたいものだ。


それと同じくらい、悲しい思いを周囲と分かち合えなかったとすれば、それはとても孤独なことだろう。


 静かに放たれたアンジュの言葉に、王妃の口から嗚咽が漏れだし、その場にへたり込んだ。


 悲痛な声で泣く王妃のそばでかがんだアンジュは、震える肩にそっとショールをかける。


 困った様子で立ちすくんでいたイブリースも、すぐにアンジュの反対側にしゃがみ、王妃をそっと腕で包む。


 イブリースの腕が触れたとき、はっと目をあげた王妃は、



「……ごめんね……ごめんね……イブリース……」



 と呟いた。



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