第10話

 降霊会に興奮しきった参加者たちが、地下室の階段から男爵邸のロビーにぞくぞくと現れる。


 従僕たちが扉を開き、口々に男爵に礼を言う彼らを馬車へと案内していった。

 アンジュとアンも、馬車がくる順番を待つ。



「もしご婦人、よろしければ少しお話をいたしませんか?」



 部屋の隅にアンと共に立っているアンジュに、男爵がにやけ声で近付いてくる。



「お話って何かしら?」



「あなた様にとって、よいお話です」



「まあ。詳しくお伺いしても?」 



 低い声で誘惑するように男爵の耳元で囁くと、ふふんと満足げに胸を反らした。



「こちらへ」



 他の参加者たちの目を縫って、二人は男爵家の応接室に通された。


 成金趣味のきらきらしい調度品が飾られた室内。ソファに促され、座ると、男爵も向かいに腰をかけ、従僕たちを下がらせる。



「実はですね、特別な方にだけ降霊に使われる薬をお分けしているんです」



 薄暗い室内。蝋燭の獣脂の香りがいやに鼻につく。



「この薬は不思議なもので、地上に残っている霊なら誰でもその身に降ろすことができます。奥様は……旦那様になにかご不満などありませんか?」



 降霊会で取り乱したことを言っているのだろう。


 狙い通り男爵が声を掛けてきたことに、心の中でガッツポーズをする。


 男爵はそんなアンジュに気付くことなく、深い愛情で結ばれた子爵と前夫人のことを、なんとお美しく理想的なご夫婦か。とうっとり語る。


 煽っているのだ。アンジュ扮する現ランスルー子爵夫人が、前妻よりも愛されていないことを。



「そうですわね。とても美しい夫婦愛ですわ。……わたくしは、そのため、亡くなった前の奥様と同じふるまい、言葉遣い、恰好を強いられておりますけれど」



 時には、前妻に似ていないからということで暴力まで振るわれている。とアンが語る。


男爵は、気の毒そうに眉根を寄せているが獲物を狙うようなギラギラした目は隠せない。



「そこで、です。この薬を使い、あなた様のお体に前の奥様の霊を降ろすのはいかがでしょう。体は夫人のもので、前の奥様と同じ考え、おふるまいができ、旦那様の愛はあなた様のものに」



「けれど、そんなことをすれば、わたくしの意識はどうなるのです?」



「我が家と契約を結んでいただければ、お好きなときに奥様の意識を目覚めさせることができます。嫌な時間は、全て前ランスルー子爵夫人にまかせればよいのです」



「まあ……」



 とうとうと語る男爵の話に、仮面の奥のアンジュの瞳が険しくなる。


 誰が好き好んで、自分ではない何者かになろうとするのだろうか。それも、霊などという存在もあやふやなものに体を乗っ取らせてまで。


 男爵の話の禍々しさに眉を顰めたアンジュだったが、その態度を、利用への迷いだと勘違いした男爵が更に続ける。



「ここだけの話、とある問題の多い高貴なお方も、我が家をご利用いただいてからは、優秀だとお噂されるようになったのですよ」



「とある高貴なお方?」 



「誰、とは申せませんが。最近、評判が変わったお方はいらっしゃいませんか?」



 声を顰めながらも、得意気に語る男爵に調子を合わせて、神妙に話を聞く。



「そういえば……いらっしゃいましたわね」



 そうでしょう。と満足そうに男爵が頷く。



「我が家の降霊は、霊に体を乗っ取られるような危険なものではございません。行くあてのない死者の魂を、生者のために利用するものなのです」



 さあ、いかがいたしますか。と獲物を見つけた肉食獣のように目をぎらぎらさせ、男爵は迫る。



「そうですわね……その薬は、わたくしが自由に飲んでも前の奥様を降ろせるのかしら?」



 男爵の話に心惹かれている振りをすると、更に、男爵が食い下がってくる。



「いえ、当家が雇っております魔女に霊会から魂を探させ、降ろすことで可能となります」



「なら、いつも魔女さんと一緒にいなければならないのね?」



「いいえ、一度降ろせば、薬を定期的に摂取するだけで霊を体内に留めておけるのです」



 もちろん、メンテナンスは必要なので、当家に来ていただいて魔女殿と会っていただきますが。と、慣れた様子で説明する。



「霊を降ろした状態は、どうやって解くのかしら?」



「薬の効果が切れたら、元の魂と霊が分離いたします。効果は半日ほど」



「そう……」 



「当家を利用してくださる方は多く、この薬も、後になっては手に入らないかもしれません」



 煮え切らない態度のアンジュにじれたように男爵は薬を勧めてくる。



「さあ、どういたします?」



 小刻みに震えているアンジュの手に、ふとましい手を添わせ決断を迫る。



「少し……考えさせてくださいませ」



 怯えたようなアンジュの態度に、小さく舌を打った男爵は、すぐに笑顔を張りつける。



「一週間。お待ちいたしましょう。他にもこの機会を望む方はいらっしゃいますので、これ以上はお待ちできません」



 コクリと頷いたアンジュを後に、男爵は部屋を出ていった。


 残されたアンジュとアンは、従僕に案内され、玄関口に待たせていた馬車に乗り込んだ。




「まさか、霊魂を人間の中に移すなんていうことが行われているなんて……」



 馬車の車輪の音が響く中、アンの声が重々しく響く。



「アン……王宮に忍び込んでイブリース様が飲食しているものの中に、あの薬が入っているか、調べてちょうだい」



 男爵から聞いた内容の出来事が、イブリースに降りかかっているかと思うとぞっとした。


男爵が用いる方法を使えば、望む魂をイブリースの中に入れ、傀儡に仕立て上げることも可能だからだ。


 男爵家に乗り込む前の調査から、降霊が行われる席で使用されている薬や香に常用性が見られ、意識の混濁も招くことがわかっている。


 使用されている薬や香で、死者の魂が甦っているかのように周囲の人間や魂を降ろされた人間が思い込んでいるのだろう。


 つまり、降霊術は一種の幻覚だ、とアンジュは考えている。



「かしこまりました」



「なるだけ早くね。もし、薬を飲まされているのなら、イブリース様のお体が心配だわ」



 一礼してドレスを脱ぎ捨て黒装束に早着替えしたアンは、馬車の窓から外へ飛び出していった。



「イブリース様……」



 残されたアンジュは、暗くなった外の景色を睨むように眺めていた。






「殿下ぁー、あーん」



 甘い声と共に、フリルとリボンがたっぷりついたドレスを着たレシャが、クッキーをつまみ、イブリースの口許に届ける。



「悪いね、甘いものは苦手なんだ」



 西洋風東屋の中で、レシャと向かい合っているイブリースは、摘ままれたクッキーを穏やかな笑顔で断った。


 不満げに頬を愛らしく膨らませたレシャは、紅茶をついでイブリースに勧める。


 王宮でしか使われていない高級茶番の香りの中に、独特の香辛料の香りが混ざって香る。


 アンジュがイブリースから遠ざけられてから、レシャはすっかり我が物顔だ。


 学園でも、王太子妃候補として部屋を貰っている王宮でも、イブリースにべったりしていて離れない。


 紅茶を飲もうと手を伸ばしたイブリースの側に、茶色の長い髪をひとまとめにした、眼鏡をかけたメイドが近付く。



「フォーコネ男爵令嬢。王妃殿下がお呼びです」



「あら、なんの用かしら。せっかく殿下とお茶をしているのに。ちょっと待っていてね、殿下。すぐ戻ってくるわ」



 明るく手を振って、レシャはその場を後にする。



「紅茶が冷めていますね。変えてまいります」



 眼鏡のメイドが、イブリースの前に置かれたカップと紅茶ポットを手に取ろうとした時、イブリースがニッと笑った。



「さて、アンジュ。その恰好はどうしたのかな」



 カップを守るように両手で包んだイブリースに、眼鏡のメイドは小さく驚くそぶりをした。



「お気づきでしたのね。認識阻害の魔道具を使っていましたのに」



 メイドが眼鏡を外すと、顔回りの景色がゆらりと揺れ、アンジュの顔が現れる。



「声は変わらないからね。どうして、メイドの恰好を?」



「こうでもしなければ、あなたに近付けませんでしたから」



 イブリースに近付こうにも、幾度面会要請をしても断られ、学園でも避けられ、会話を交わすことができなかった。


 なので、王宮のメイド服を拝借し、メイドとして潜入したのだ。


 伝言を伝えるだけでよかった。


 どれだけならば、ラベー家の者を使い、潜入させて伝えればよかっただけのことだが、なぜか、ことごとく失敗に終わったのだ。


 無記名のメモをイブリースの執務室に挟ませても、潜入させた部下に伝言を伝えさせても、イブリースは、レシャの入れるお茶を飲み続けている。


 業を煮やしたアンジュは、自ら近づき、注進するつもりでこの場に侵入した。


 イブリースは、城で働いているメイドや侍従たちの顔と名前を全て覚えている。


なので、侵入者としてバレる前に、こっそり正体を明かそうと思っていたが、声で正体を暴くとは思っていなかった。


 驚きはしたが、この機会を逃すわけにはいかない。アンジュは、イブリースの耳元に口を寄せる。



「フォーコネ令嬢の持ってきたものに口をつけないでくださいまし。怪しい薬の可能性があります」



 アンに調べさせたところ、イブリースは、朝昼夜とレシャとお茶を共にしていた。


その際、レシャが持ち込んでいた薬を紅茶に混ぜていることがわかった。


 薬には、意識を覚醒させる効能が見つかった。このため、イブリースの成績が上ったのだろう。


 以前見た時よりも痩せがちになったイブリースの姿に、薬の影響を感じ胸が痛んだ。



「いいんだよ、アンジュ」



「え?」



「私は、フォーコネ男爵令嬢のしていることを受け入れている」



 瞬間、時が止まった。


 これまでイブリースは被害者だと思っていた。密偵の伝言が聞き入れられないのも、なにかの手違いがあってのことだと信じていた。


 それなのに……。



「……どうして」



「おや? 君なら調べているんじゃないかい」



 呆然と呟くアンジュを横目にイブリースは紅茶の香りを強く吸い込む。



「この薬を飲んだら、嫌な事は全て別の誰かに押し付けることができるんだ」



 何の感情も見せない声で淡々と呟く彼は、アンジュの知っているイブリースとはかけ離れている。イブリースは、薬の魅力に負けてしまったのだろうか。


自分ではない、何者かになりたかったのだろうか。


 それならば、なぜ、一番近くにいたはずの自分がイブリースの気持ちに気が付けなかったのだろう。


 そんな想いがアンジュの胸中を巡る。



「学問も、武術も、それから長らく目にとめてもらえない母との関係も、ね」



 母との関係という言葉に、ぐっと気圧される。


 王妃はイブリースの兄であるラスールを喪って以降、喪に服しており、常に喪服で暮らしている。


 優秀で愛らしかったラスールを喪った王妃の愛は、イブリースには向かず、今もなお、離宮にラスールの遺品を集めて、当時を懐かしんでいるという噂は古くからあった。


 イブリースがそのことを苦にしている様子は見られなかったが、心の奥底では、一人、苦しんでいたのかもしれないと思うと胸が苦しくなった。



「イブリース様は……苦しんでいらしたのですね……」



 知らず知らずのうちに、涙が零れる。



「わたくし……お側で支えさせていただいているつもりで、何も知らずにいたのですね。イブリース様が、他の誰かになってしまいたいと思うほど、思い詰めていたなんて……」



 これまで、アンジュはイブリースを支えるために生きてきた。


 イブリースに足りないところは、アンジュが埋めればいいと、彼が不得意とするものは徹底的に励んだ。


 そうすることがイブリースの助けになると信じてきた。


 だが、アンジュが懸命に頑張れば頑張るほど、いつも不安そうな顔で、アンジュを窺うイブリースの姿が気にかかっていた。


アンジュが優秀さを見せれば見せるほど、『僕を捨てないで』と乞うイブリースの言葉は、本当は誰に向けたものだったのだろう。



「けれど、イブリース様。あなたは、ご自分の不得意なことを別の者に押し付けるような卑怯な人間ではないはずです……」



 それでもアンジュは知っている。気弱そうに見えて、本当は芯の強いイブリースの姿を。


 苦手な授業から逃げはしても、最後は必ず立ち向かう気概があることも。


 将来の王として、恥ずかしくない自分になるために、もがいている姿も。



「あなたは、弱いように見えて、本当はお強い方です。どうか……」



 懇願に近いアンジュの言葉に、イブリースは少しだけ悲しそうな顔をした。



「アンジュは……私がわからない?」



「なんのことです?」



「そうか……いつまでも覚えられているというのも苦しいことだけど、忘れ去られるということも悲しいね」



 アンジュの背筋をぞわりとしたものが走る。


 これまでのイブリースの変化は、薬による作用だと思っていたが、まさか、本当にイブリースの中に別の魂が入っているというのだろうか。



「ひとときだけ、君の『イブリース』を返してあげよう」



 後ずさったアンジュに悲しそうな視線を寄せながら、イブリースは、カップに入っていた紅茶を地面につっと落とす。



「あなたは……誰です」



 紅茶の染みが、地面に広がってゆく。


 その様子を楽しそうに見ていたイブリースが、すっと顔を上げ、人差し指を自らの唇に近付けた。



「……教えてあげない」



 天使のような笑顔を見せたイブリースは、眠そうに目をこすり、そのままテーブルにうつぶせになり眠ってしまった。



「イブリース様?」



 急に寝息をたてはじめたイブリースを不安に思い、そっと近付いて手を取り脈をみる。


 以前より細くなった腕は暖かく、脈はどくどくと主張を続ける。


 どうやら本当に寝ているだけのようだ。と胸を撫で下ろしたとき、うぅっと苦しそうな声をあげ、イブリースが体を起こした。



「アン……ジュ?」



「イブリース様⁉ ご気分がすぐれないのですか? 今、医者を……」



 頭を押さえながら体を起こしたイブリースに駆け寄って、体をそっと抱き起こす。



「いいんだ。薬が抜けるときは、いつもこんな風だから」



 さっきまでの春の木漏れ日のように温いが、誰も寄せ付けないような声色とは違い、少し頼りないが人好きのする声が聞こえる。



「イブリース様……イブリース様なのですね。わたくしのイブリース様……」



 いつものイブリースの声だ。と思ったとたん、みるみるうちにアンジュの体から力が抜けていく。両手でイブリースの頬を包み、表情を覗き込む。


 覗き込んだ表情も、さきほどまでの凛々しいものとは異なり無防備だ。



「アンジュ……」



 恥ずかしそうに頬を染めたイブリースは、顔を覗き込んでくるアンジュの両手に両手を重ねる。


 目の前にいる存在が、自分の知っているイブリースであることに安堵したアンジュの目から、涙がこぼれた。


 これまでずっと、温かい微笑みを向けられながらも遠ざけられてきたことが、不安だった。



「よかった……。もう、フォーコネ男爵令嬢の出すものは口にされないでくださいましね」



「いや……そういうわけにはいかないんだ」



 イブリースの答えに、アンジュの胸が刺されたように痛む。



「どうして……」



 イブリースは、アンジュの手を頬から離し、顔を背ける。



「僕の中には、兄上がいるんだ」



 イブリースの告白に、アンジュが息を飲む。


 それは、薬が見せた幻影なのではないか。と問いたかったが、イブリースのあまりに真剣な様子には嘘を感じない。


 演技もさほど得意ではないイブリースのことだ。これまでのことが演技であったことも考えづらい。


 やはり、さきほどまで自分と話していたは、今は亡きラスールなのだろうか。ということに今更ながら背筋が粟立つ。


 イブリースは、これまでずっとレシャに薬を盛られていたことを語る。


 レシャが、イブリースに『真実の愛』作戦を持ちかけた時に、共にお茶の時間を過ごす際に、庶民の間では女が手作りの菓子を作ってくるものだ。


と言うレシャが作ってきたカップケーキを、一般家庭の過程の味として楽しんでいた。


 しかし、カップケーキの中に、ラスールの魂を降ろし、定着させるための薬が仕込まれていた。



「母上が望んだんだ。兄上の魂を僕の体に降ろし、永遠に僕が兄上でいられるように、と」



 ラスールがイブリースの体に降りた日、彼が亡くなってからずっと離宮に引き籠り、顔を見せなかった王妃が、イブリースを離宮に呼んだ。


 そして、自分ではない何者かが、自身の体を動かし、唇から思考とは異なる言葉を紡ぐ様をずっと見ていた。


 イブリースの隣で、得意顔で、ラスール様が定着いたしました。と報告するレシャに報酬が渡された後、数年ぶりの母の抱擁を経験した。


 耳元で泣きながら囁かれる声は、全てラスールに向けられたもので。


 生暖かい愛情という名の抱擁は、イブリースから、抵抗する意志を奪っていった。



「酷い……」



 ラスール第一王子が亡くなっていこう、王妃が離宮に引き籠っている話は有名なことだ。時折、喪ったラスールを求めてさまよう姿が目撃された。


ともまことしやかに囁かれていた。


 しかし、自分の息子の体に、亡くなった息子の魂を降ろさせるなどという非情な行為をするほどだったとは、とアンジュの背筋がぞわりと粟立つ。



「いいんだ。ダメ豚王子と呼ばれるような僕ではなく、優秀な兄上にこの体を使ってもらった方が……」



 力なく微笑んだイブリースの言葉に、アンジュの頬を涙が伝う。



「イブリース様……。イブリース様は、ラスール様になりたいのですか……」



 アンジュの問い掛けに、イブリースは力なく首を振った。


 そのことにほっと胸を撫で下ろす。


 少しでも、イブリースに「別の誰かになりたい」という望みがあったとすれば、今の状況を脱することは難しいと感じていたからだ。



「でしたら……もう、こんな悲しいことはおやめください」



 子を思う母の気持ちも、母を思う子の気持ちも、どちらも利用したような出来事に胸が張り裂けそうだ。


 しかし、確かなことは。イブリースはラスールではなく、誰にも代われない一人の人間だということだ。


 そう想いをかけ、願うアンジュの濡れた瞳から、イブリースの瞳が反らされた。



「だけどね、アンジュ、こうすることで、僕は母上から初めて抱きしめていただけたんだ」



 遠くから、レシャがイブリースを呼ぶ声が聞こえる。


 持っていた眼鏡をイブリースが手に取り、アンジュに優しくかけた。とたんに、眼鏡にかけられている認識阻害の魔術が働き、アンジュの顔が地味な女性のものに変化した。



「行って。こんな恰好の君を見られたら、フォーコネ男爵令嬢がどんないいがかりをつけるか分からない」



 イブリース様。と呆然と呟いたアンジュは、イブリースに立たされ、背をポンと叩かれる。


 イブリースに促されるように、レシャや彼女の周囲を固める侍女たちに疑われないように礼をして、足早にその場を立ち去った。



「もっと早く、僕が兄上でいたなら。君に捨てられることもなかったのかもしれないね」



 去り行くアンジュの背に向かい、ぼそりと呟かれたイブリースの言葉が、抜けない棘のようにアンジュの胸に突き刺さる。






「腹が立ちますわ……!」



 王宮を去る馬車の中、待たせていたアンに手伝ってもらい王城のメイド服からドレス姿に着替える。


 着替えている間は、ショックからはらはら涙をこぼしていたが、公爵家の自室に戻り紅茶で一息ついたところで、ふつふつと怒りが湧いてきた。



「いつ、どこで、なぜ、わたくしがイブリース様をお捨てしたというの‼」



 婚約破棄を申し出ようとしたのは、イブリースの方で、今アンジュが婚約者候補として宙ぶらりんな状態なのは、イブリースがラベー家を怒らせたからだ。


 間違っても、アンジュからイブリースを捨てる。など、口に出したこともない。少し、考えたことはあるが。


 そのうえ、アンジュが婚約者候補に落ちたことを幸いに、レシャを候補に持ち上げてきた勢力まであるのだ。


 捨てないで。と縋る割に、自らアンジュから距離を置くような状況になっていることに気が付かないのだろうか。と、ソファに飾っている大きな豚のぬいぐるみをぽこりと殴る。



「なぜ、あんなにもご自分を大切にされないの!」



 そんな当たり前のことすら腹立たしく感じて、もう一回ぽこりと殴る。



「ご自分が犠牲になれば、全てが丸く収まるだなんていう考えは、為政者には向いていなくってよ!」



 殴った後、ぬいぐるみにごめんね。と呟き、労わるように軽く撫でた。



「必ず、取り戻しますわ……」



 全てを諦めたようなイブリースの瞳を思い出し、胸に闘志を燃やして立ち上がる。

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