第8話
「どういうことですの……」
今日も早朝からイブリースの特訓が始まる。
いつもなら、寝ているイブリースをベッドから叩き落とすところから始まるのだが。
「やあ、アンジュ。いい朝だね」
城の鍛錬所には、すでに準備運動を終えたイブリースが笑顔でアンジュを出迎えていた。
「かっこいいよ、王太子様。休憩にお茶しない?」
鍛錬所の一角では、レシャがテーブルを広げお茶を入れている。
「どうして、あなたがここに?」
「あら、ご挨拶ね。同じ王太子妃候補でしょう? 王太子様と私が共にいてどこが悪いの?」
相変わらず口が悪いが、イブリースの呼び方を改めたのは、城の教育の成果だろう。と検討をつける。
銀盆に載せた紅茶を運んでくるレシャに、一瞬、眉を顰めたイブリースだったが、一息に飲み干す。
「苦いな」
「お砂糖を入れなかったからね。今度はたっぷりいれてあげる」
ふふっと笑いながら紅茶のカップを受け取るレシャを前に、アンジュは固まっていた。
ほんの半日離れただけで、レシャとイブリースの距離が近付いている気がする。
半日前は、あれだけレシャを疎まし気にしていたのに。
そのうえ、準備運動だけで息が上がり休憩を必要としていたイブリースが、すでに剣を手に取り素振りまで始めている。
これまでの動きと違い、素早くキレもある。
たった半日で変化したイブリースを疑いの眼差しで見ていると、模擬試合を求められた。
「わたくしの相手は早いですわよ」
「やってみなければわからないじゃないか」
アンジュの武術の成績は首位。イブリースは下から数えた方が早いくらいの成績だ。
それなのに、イブリースは余裕の表情で木剣を構えている。
「怖いの? アンジュ様」
薄笑いを浮かべ挑発するレシャを無視し、自らも木剣を構えた。
カン、カン、カン。
数分、打ち合いが続く。
これまでのような、腰の入っていない軽い剣ではなく、重みのある剣だ。
これ以上打ち合えば、アンジュが打ち負けてしまうかもしれない。
勝負をつけてしまおうとイブリースの懐に飛び込んだアンジュの木剣が、あっけなくはねとばされた。
「きゃー、王太子様、かっこいい」
「そんな……」
負けると思っていなかったアンジュは、喉元に木剣を突きつけてくるイブリースを睨み上げる。
「こたびの勝負は私の勝ちだな」
口元だけにっと笑ませるイブリースの姿に、なぜか背筋がぞくりとする。
こんな風に相手を推し量るような視線を寄越す相手ではなかったのに。
「今後はもっと腕の立つ指南役を設けるとしよう。アンジュ、これまでの指南役、ごくろう」
「そんな……」
教科書に載っているような模範的な笑顔を張り付けたイブリースは、剣を片付け、訓練所の外周を走りに出ていってしまった。
おかしなのは、武術の鍛錬の時だけではなかった。
授業中、抜き打ちで小テストがあった時、いつもならば下から数えるほどの成績だったイブリースが満点を取ったのだ。
教師が小テストを返すとき、一人だけ満点がいると言ったとき。誰もが学力でも首位であるアンジュだろうと疑わなかった。
しかし、名前が呼ばれたのはイブリースだった。
今までのイブリースなら、こんな時、はにかみながらも嬉しさをかみ殺すような表情をしただろう。
しかし、今日のイブリースは、涼しげな顔を崩すことなくテスト用紙を受け取っていた。
明らかに、昨日までの彼とは様子が違う。
いつものイブリースなら、良い点をとったら、嬉しそうな顔でアンジュに報告しにきただろうに……。
そのうえ、小テストの点数がイブリースよりも下だったという理由から、イブリースの試験対策の指導役まで断られてしまった。
少々行き過ぎた指導で不興を買ってしまったかと思い謝罪に赴いたが、それもイブリースによって否定された。
アンジュにふさわしい婚約者になるために、心を入れ替えたのだ。と言われても、昨日までとは浮かべる表情も、声の出し方も異なるイブリースに、不信感しかつのらない。
「何を企んでいるの……。フォーコネ男爵令嬢」
イブリースにべったり張り付いていたレシャを捕まえ、人気のないところに誘い出す。
「なんのこと」
教室では大人しく可憐なフリをしていたレシャは、アンジュに呼び出され、苛立ちを隠さない。
「イブリース様ですわ。一晩であの変わりようはどういうことなのです……」
「あれ? イブリースに婚約者に戻るために優秀になるよう条件を突きつけといて、いざそうなるとうろたえるの? おっかしー」
はんと鼻で笑うレシャに、ぐっと言葉を詰まらせる。
今日のイブリースは、確かに優秀だ。
へばることなく鍛錬を続け、成績も優秀で授業態度もよく、周囲から見ても王太子然としている。
しかし、心境の変化があったのだろうかと、話しを聞きにうかがえば、お手本のような笑顔で逃げられ、全ての指導役まで解任されてしまった。
そのうえ、昨日まで避けていたはずのレシャを常に側に侍らせているのだ。
昨日一晩の間、王城でレシャとイブリースの間に何かがあったとしか思えない。
「ぷっ。酷い顔。そんなにイブリース様のことが知りたいの?」
耳を口元に寄せるような手振りをするレシャに、一瞬戸惑ったアンジュだったが、そっと近寄り耳を寄せる。
「教えるわけないだろ。ばぁぁか」
どすの効いた声と共に、レシャの胸元から取り出された携帯用香水瓶が、アンジュに向かって噴射される。
「遅くてよ」
顔に向かって噴射された液体を避け、畳んだ扇でレシャの腕を叩く。地面に転がった香水瓶を、レシャが態勢を整える前に拾い上げた。
「この香り、あなたが以前から持ってきていたカップケーキと似てますわね」
「返せ!」
鬼のような形相で手を伸ばしてくるレシャの腕の勢いを殺さぬようにいなし、バランスを崩したレシャの足を払い、地面にたたきつけ、体をおさえる。
「イブリース様にあなたが注いでいたお茶からも、この香りがしておりましたわ」
「はっ、あんたの気のせいだろ。いつも香水を頭からかぶったような香りをさせてるから、鼻までおかしくなったんじゃない?」
体の下でじたばたと暴れるレシャを膝でおさえると、ぐぅと呻き声が聞こえた。
「イブリース様に薬を盛ったのではなくて? 王族を害するものは一族郎党死罪になりますわよ」
「盛ってなんかねぇよ!」
「なら、この香水、調べてもよろしくて?」
「返せ!」
体の下から逃れようとするレシャを、更に強く押さえつける。
「そこまでになさい。ラベー公爵令嬢」
低くハスキーな声が辺りに響く。
声の元をたどると、扇で口元を隠した王妃がアンジュに冷ややかな視線を寄越していた。
お忍びできたのだろう。簡素な出で立ちで、供の侍女は数人しかいない。
「王妃殿下にご挨拶申し上げます……」
レシャの拘束を外し、礼をする。王妃に会うのは久しぶりだ。
ラスールの婚約者だったときは、王太子妃教育の一貫として、自らアンジュとのお茶をしてくれていたのだが。
ラスールが亡くなってからは、宮に引き籠り、公式行事の時以外ほとんど出てこない。
あの頃と比べると、美しかった金の髪の一部が白くなり、温かかった瞳は、温度を感じない。
「王妃様ぁ、アンジュ様ったら酷いんですぅ」
アンジュの拘束から外れたレシャは、王妃の侍女に、ドレスの裾についた泥を払ってもらっていた。
「ええ、全て見ていましたよ。フォーコネ男爵令嬢」
猫なで声ですり寄るレシャに、瞳を笑ませ、ちらりと冷ややかな視線をアンジュに送る。
「学生同士の戯れとはいえ、あまりにやりすぎではなくて? フォーコネ男爵令嬢は、あなたと同じ王太子妃候補ですよ」
「そうなんです。私はただ、新しく買った香水をアンジュ様につけて差し上げようとしただけなのに」
「フォーコネ男爵令嬢から取り上げた香水瓶をお返しなさい。それで、今回のことは見なかったことにいたしましょう」
中身が怪しいとはいえ、この状況で主張することもできなかった。
万が一、香水瓶の中身がただの香水であった場合、責任を取らなければいけないのはアンジュだ。
「……はい」
取り上げていた香水瓶を、側にきた侍女に渡す。
その瞬間、一瞬だが、王妃がほっとしたような顔をしたのを見逃さない。
「行きましょう、フォーコネ男爵令嬢。貴賓室にお茶を用意しているの。イブリースも呼んでいるわ」
「いいですね。行きましょ、王妃様」
勝ち誇った顔で王妃の側に駆け寄るレシャに、笑顔を向けた王妃は、侍女と共にその場を去っていった。
王妃たちが見えなくなるまでの間、ずっと礼をしているアンジュを放置して。
ぽつぽつと振ってきた雨粒が頭を濡らし、頬を伝って唇を濡らした。
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