第7話

 夜ごと悪夢にうなされる。


 悪夢は、いつも同じ顔をしている。



「うわっ……はあ……はあ……」



 叫んで護衛の者に気付かれないよう、自らの口を押さえて天蓋を睨む。


 一国の王太子ともあろう者が、毎夜うなされ起きていると知られてはならないのだから。


 悪夢で起きた夜、いつもなら、サイドテーブル置いているチョコレートボンボンを口にして心を落ち着かせていた。


だが、今はラベー公爵家との約束で体型を絞っている身。深夜の甘味は大敵だ。


 長く続いた習慣のため、今もボンボンは置かれているが、それには手を出さなかった。


 じっとりにじむ汗が気持ち悪い。


 乾いた喉を潤すために、サイドテーブルに置かれた水差しから水を注ぎ飲み干した。


 イブリースが夜ごと、悪夢にうなされていることを知っている者は誰もいない。


 夜中に起きては甘いものを食べ、そのまま寝てしまうだらしのない王太子だと思われているだけだ。


 悪夢の原因は分かっている。



「僕が死ねばよかったんだ……」



 ぽつりと呟いた言葉が闇におちる。


 兄が死んで、自分が王太子になった日。世界は一変した。


 それまでは、将来は兄の家臣となり王家を離れるものとして教育されてきて、兄に仕えることを疑いもしなかった。


 それなのに、病に侵された兄が死んだ瞬間、兄のものだったものが全てイブリースのものになってしまった。


 兄の部屋、兄の家庭教師、兄の側近、そして、兄の婚約者。


 本来であれば、王太子という地位も含めて、全て兄のものだったのに。


 病魔に侵され、熱と体の痛みで辛いだろうに一言も苦痛を訴えず、治ることを信じ死んでいった兄の姿が回想される。



「兄上……」



 レシャの作ったカップケーキが食べたい。


昼間は断ってしまったことを、知らず知らずのうちに悔やんでいた。


 レシャと共にいたのは、恋の相談役としてだけではなかった。


 彼女が作ってくるほんのり甘くスパイシーな味のするカップケーキ。


あれを食べた日は、悪夢の中で自分に恨み言を言う兄の姿が、生前の優しい姿に変わるのだ。


 はじめは気のせいだと思っていた。


だが、カップケーキを食べなかった日は、反動であるかのように、重い悪夢にうなされた。


 それとなく、カップケーキの材料を聞いたものの、当たり前の材料しか使っておらずなんの参考にもならなかった。


冗談めかして、愛情をたっぷりこめたよ。というレシャに苦笑を返した日のことを思い出す。


 昼にカップケーキを出されたとき、目の前にアンジュがいなければ食べていただろう。



「まるで、中毒じゃないか……」



 自らの弱さに辟易する。


 王族が食べるものだということで、レシャのカップケーキは毒味をされている。


なので、中毒になどなるはずもないのだが。不思議と、あの香辛料の香りを欲している。


 ゴブレットを置き、溜息をついた時、ドアをノックする音が聞こえた。


 入るよう促すと、メイドが入ってくる。



「どうした?」



「深夜に王太子殿下が起きるようなら、これをお持ちするようにと、フォーコネ男爵令嬢からいいつかっております」



 メイドが持ってきたものは、お茶とカップケーキだった。


 香り高いお茶と共に、焼きたてのカップケーキの匂いが部屋中に充満する。


 イブリースの喉がごくりと鳴った。


 が、すぐに首を振る。



「なぜフォーコネ男爵令嬢がこれを?」



 王太子妃候補になったレシャは、王妃の住まう宮に王太子妃教育を受けるために移ったと聞いている。



「フォーコネ男爵令嬢が王太子殿下のことを思わない日はないと聞きます。今夜も、食べるかわからないのに、うなされた時のために、とこのカップケーキを……」



「どうして私がうなされていることを知っている」



 誰にも知られないようにしてきた秘密をレシャと目の前のメイドが知っているという事実に、枕元の短刀を抜く。


すでにダメ豚王子と呼ばれ周囲から見下されていようとも、兄への引け目から毎日うなされていることだけは知られたくない。



「ひっ……」



 メイドの目に怯えが走る。



「下々のものをむやみに怖がらせちゃだめだよ。イブリース」



 メイドが落としそうになった盆を背後から受け取り、くるりと一回転させテーブルに置いたのは、レシャだった。


 ドレスの上に黒い外套を着こみ、顔を覆ったフードを取る。



「深夜に男の部屋を訪れる礼儀知らずな王太子妃候補か……」



「イブリースのことを心配したんじゃない。だって、毎夜うなされているでしょう?」



 レシャの言葉に、イブリースが殺気を放つ。殺気にあてられ怯えたメイドは、レシャに目くばせされると同時に逃げ出した。


 これで、明日から、イブリースが毎夜うなされているという噂が広まってしまうだろう。頭の痛くなる現実に、イブリースの目が剣呑なものになる。



「出て行ってくれ。君と話すことはない。そのカップケーキも持って行ってくれ」



「いいの? せっかく悪夢から逃れられるのに」



 笑顔でイブリースの顔を覗き込んでくるレシャに気圧され、一歩後ろに下がる。



「薬を、盛ったのか」



「ええ。でも、悪いものではないわ。王妃様の思し召しでもあるのよ」



「母上の……」



「そう。これは、王妃様の望みでもあるの。だから、無理なんてしないで、美味しいカップケーキを食べましょう」



 不気味に笑うレシャの姿に、更に一歩後ずさる。



「え……衛兵!」



「無駄よ。みんな眠ってる」



 柔らかな絨毯を踏みしめ、一歩、イブリースに近付く。



「あなたに努力は似合わない。ありのままでいたらいいの。あなたを困らせるものから私が逃がしてあげる。気持ちのいい場所で過ごせばいい。さあ、このカップケーキを食べて、優しい眠りにつきましょう」



 薄く笑い、体に絡みついてくるレシャを振り払おうとするが、体が痺れて動かない。


気が付けば、周囲はカップケーキの甘く香ばしい香りが充満していた。甘い香りに押されるように、意識が遠のいていく。



「今回は、愛情をたっぷりこめたからね。ずっと寝ていられるよ」



 胸元に抱き寄せられたイブリースの口がゆっくりと開く。


 その口に、焼きたてのカップケーキが押し当てられた。


 久しぶりに咀嚼する菓子は、甘く、苦い。



「アンジュ……すまない……」



 数口カップケーキを口に含んだイブリースは、意識を手放し、深い眠りに落ちていった。


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