第6話
「はぁ……」
イブリースと別れ、学園から公爵邸に戻ってきたアンジュは自室のベッドの上に突っ伏している。
イブリースの怠惰な態度はなりをひそめ、勉学と武芸とダイエットに励む様子に心が痛むのだ。
「アンジュ、いるか?」
部屋の外から兄であるジルベールの声が聞こえる。
慌ててベッドから起き上がり、服を整え、出迎える。
「イブリース様の様子はどうだった?」
妹とはいえ、異性の部屋に入るというのに遠慮もなくずかずかと入り込み、ソファにどかっと座ったジルベールに、お茶を持ってくるようメイドに命じる。
「ここ数日、勤勉でいらっしゃいますわ」
「そうか……ところで、なにか報告することがあるんじゃないか?」
足を組んで紅茶を飲むジルベールに、全てお見通しのくせに。と内心独り言ちながら、今日会った出来事を報告した。
「うん、特に隠し事などはないようだな」
全て報告し終えたアンジュの頭を満足そうに撫でる。
一度婚約破棄されかけるような失態をしたアンジュには、公爵家の影がつけられていて、行動の全てを監視されているのだ。
撫でられた箇所を払い、しらじらしいと小さく睨むと、肩を竦めて仕方ないだろうと言った。
「おまえはイブリース様に甘すぎる。怠惰であるだけならまだいい。将来おまえの傀儡とすればよかったのだからな。だが、下流の女の口車に乗り、おまえを挿げ替えようとしたのなら話は別だ」
ジルベールは鼻歌を歌いながら影からの報告書を読んでいる。
「フォーコネ男爵令嬢が婚約者候補に内定したそうだが、心配はいらない。先の醜聞を収めるための一時的な措置だと聞いている。おまえは、イブリース様を疑うことなく、尽くしていればいい」
そもそも、ラベー家はイブリースとの婚約を破棄しようなどとは考えていなかった。卒業パーティーでのイブリースのアンジュへの傾倒ぶりを見て、王家に多少恩を売ろうとあの条件を突きつけたのだ。
王家でもお荷物扱いだったイブリースが、アンジュのために成績を上げ、見目もよくなれば、イブリースのアンジュへの愛情深さを衆目からみて確認できるだろう。という考えだ。
その考えに、アンジュは賛同できなかった。
イブリースは、怠惰で愚かと言われているが、本来の彼が賢いことを知っている。
「承りましたわ。お兄様」
それでも、家族の、それも目上の男性に口答えをするという行為が淑女たるものではないときつく教育されているため、反論せずに礼をする。
内心、イブリースを馬鹿にされた怒りに胸を焼きながら。
「それと……珍妙な趣味は、いい加減やめておけ」
顔に優雅な笑みを貼り付けるアンジュに向かい、吐き捨てるように言ったジルベールに眦をあげる。
「珍妙とは何事ですか。可愛らしいんですのよ! お豚さんは!」
アンジュの部屋には、所狭しと愛らしい豚のぬいぐるみが飾られている。
ピンクの布でできたもの。
皮でできたもの。
目が宝石のもの。
首にリボンを結んだもの。
様々だ。
「将来、王妃になった際、下々から馬鹿にされるだろう。まったく、おまえは……」
呆れたように肩を竦めたジルベールは、ぽんと近くにあった豚のぬいぐるみの頭を軽くたたいて出ていった。
ジルベールに叩かれた豚の頭をササっと払い、定位置に置く。
「お嬢様、王宮からお手紙と贈り物が届きました」
「ありがとう。受け取るわ」
ジルベールと入れ替わりに、メイドが入ってくる。
送り主はイブリースだ。
元々マメに手紙やプレゼントを贈ってきてくれていたが、レシャとの交流が盛んになってからは途絶えていた。
婚約破棄騒動があってからは、また送ってくるようになったのだ。
手紙を開けると、中身はアンジュが勉強や武芸に付き合ってくれていることへの感謝や、必ずアンジュの婚約者に戻って見せる。といった決意表明のような内容が書かれている。
花は、アンジュが過去に好きだと言っていったスミレと、イブリースの瞳の色をした宝石で飾られたネックレスだ。
本当は、イブリースが砂糖漬けにして贈ってくれたスミレが好きだという意味で伝えたのだが、スミレの花自体が好きだと勘違いされて以来、王宮の温室で常に栽培されている。
「王太子殿下のお心が戻ってよかったですね」
笑顔のメイドに、曖昧な表情を返す。
いつものイブリースなら、贈り物は生花ではなく、スミレを加工したお菓子を贈ってくれたはずだ。
スミレ入りだけでなく、新しく挑戦した菓子なども、一通り贈り物として送ってくれていた。
幼いころ、ラスールに贈られていた手作り菓子は、今はアンジに捧げられている。
どんな宝石よりも、イブリースの手作り菓子が嬉しかったというのに。
今回のことで変わってしまった、いや、変わろうとしている彼のことをどう受け入れたものか、戸惑っている。
イブリースの菓子作りは、ただの趣味ではない。
古今東西の菓子を知るために、五か国語を学び、世界各国の菓子の歴史をおさめている。
時折、城内でパティシエの真似事をして豪奢な砂糖細工を作るときに必要だから、と建築学も独学で学んでいる。
お菓子だけでなく、料理にも手を広げているイブリースは、各国でも評判の料理人を雇い入れた。そして、交渉の席で彼の料理を出し感心を得ているのだ。
料理に通じるものは政治にも通じる。
イブリースは、怠惰な王太子ではない。
ただ、ちょっと、自らの興味のないことから逃げがちだっただけで……。
よくよく観察していると、イブリースが逃げだす科目は、ラスールが得意だったものが主だった。
武術も、政治学も、帝王学も、ラスールが得意だったものだ。
イブリースは、兄の影から逃れられていなかったのだろう。
「無理をなさらないとよろしいのだけど……」
ソファに飾っていた豚のぬいぐるみをそっと抱きしめる。
テーブルの上に置かれた首飾りがシャンデリアの光を反射し、美しく輝いていた。
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