第5話
「君とのことは、卒業パーティーの後に清算したはずだよね」
膝に乗るレシャを優しく降ろそうとすると、首元に縋りついてきた。
「酷いわ、私とのことは遊びだったのね!」
「遊びもなにも、アンジュに振り向いてもらうための相談をしていただけだろう? 君と恋人のふりをしたら、焼きもちを焼いてくれるんじゃないかって、提案したのも君だったじゃないか」
そう、イブリースがこれまで、レシャに近付くことを許していたのは、恋の相談をするためだったのだ。
学園内でも学園外でも優秀だと名高いアンジュに比べ、凡才なイブリースは、いつも彼女に見捨てられるのではないかと不安を覚えていた。
影ではダメ豚王子と呼ばれ、成績も下から数えたほうが早いほどの出来。
優秀だった今は亡き兄と比べられ、嘲笑にさらされてきたイブリースの矜持は王族にもかかわらず低く、周囲の嘲笑を浴びるような王太子だった。
そんな彼に近付いてきたのが、レシャだった。
自らが、アンジュとは不釣り合いではないかと悩んでいたイブリースに寄り添い、様々な案を提案して、アンジュがイブリースを見るように仕向けてくれた。
はじめは、楽しかった。
注意するためとはいえ、あのアンジュが自分を注目してくれているのだから。
しかし、レシャとの計画が回を増すにつれ、アンジュの表情が頑ななものになっていくことに気が付いた。
これまでよりも、自分を見てくれている。
けれど、こんな風に見られたいわけではなかった……。という思いに気が付いたときは、既に遅かった……。
必死になって縋りつき、泣いて謝り、やっと許してもらう機会を得たというのに。この女は……。
という思いを外には出さず、優しく諫め膝から降りるよう促した。
アンジュの目がいつもより冷ややかだ。
ぺろっと可愛く舌を出したレシャは、ぴょんと跳ねるようにイブリースの膝から降りる。
「相変わらず、少しもとりみださないのね。アンジュ様」
「あなたも、相変わらず礼儀をわきまえないのですね。フォーコネ男爵令嬢。わたくしは、あなたに名を呼ぶことを許してはおりませんよ」
本来、貴族の名を呼ぶことを許されるのは、当人の許可を得た者だけだ。
許可を得ずに名を呼ぶ行為は失礼だ。
それも、下位の者が上位の者の名を勝手に呼ぶことは、侮辱ととられても仕方がない。
「町では、同い年の子はみんな名前呼びよ? 様をつけているだけ、上品ではないの?」
挑発的に笑うレシャに、凍てつくような視線を送る。
間に挟まれたイブリースは、ただおろおろしていた。
婚約破棄騒動で少しは変わったように思えたイブリースだが、こうしてみると、やはり優柔不断で王太子らしい威厳がない。
そういうところに付け込まれているのだろう。
「ここは平民の住む町ではなくてよ。貴族の礼儀を覚えなくては、将来困るのはあなたですわよ」
「そんな風に澄ましてるから、イブリースに、私はアンジュに愛されていないのだ~なんて泣かれるのよ」
扇で口元を覆うアンジュを斜め下からねめつける姿は、場末の娼婦のようだ。
突然、過去の相談内容を開示されたイブリースは、目が泳ぎ始め、可愛そうなくらい真っ赤になっている。
「王太子殿下とお呼びなさい。それに、王太子からの相談内容を軽々に口にするのは不敬ですわよ」
「不敬、不敬、不敬。アンジュ様はそんなことしか言えないの? 可哀そうなお方。身分しか取り柄がないのね」
冷ややかなアンジュの視線を跳ねのけるように肩を竦めたレシャは、ふんっと鼻を鳴らす。
レシャの言葉よりも、真っ赤になってうろたえるイブリースが愛らしく、アンジュの目線はそちらにとられている。
レシャがいなければ、真っ赤になって照れているイブリースを堪能できたというのに口惜しいところだ。
とはいえ、レシャがいなければ、真っ赤になってうろたえるイブリースを見ることもできなかっただろうということに気づき、煩わしい相手ではあるが多少は手心を加えてもいいかと思えたところで、レシャの怒号がとんできた。
「無視するなんて、いい度胸じゃない!」
「上の者の許可も得ず話始めるような無礼な方の言うことになんて、返す言葉はありません」
「ふうん。でも、これを見てもそんなすまし顔でいられるかしら」
つんと澄ましたアンジュの目の前に、王妃の印章の入った紙が突きつけられた。
「あら、まあ」
そこには、レシャ・フォーコネを王太子の婚約者候補に迎え入れるという旨の内容が書かれていた。
「あなたのところの家がどう言おうと、王妃様の御意向は私に向いてるの。諦めておうちに帰ったら?」
ふふんとレシャが胸を反らすと、昼間なのに大きく開かれた胸元から胸が零れ落ちそうだ。
「そんな……これはなにかの間違いだ。君はただの協力者だっただけじゃないか、レシャ。それなのに、婚約者候補なんて……。そうなることを望んで僕に近づいたのか?」
「間違いもなにも、王妃様から直々に承ってるの。協力者なんて酷いわ。一時は愛を誓い合った仲じゃない」
アンジュに縋りつこうとしたイブリースを抱きとめたレシャは、甘い声を出す。
「君とは、アンジュに嫉妬してもらうための偽りの関係だっただろう。僕に触れないでくれ。婚約者はアンジュだ!」
「あん」
レシャを振りほどこうとするイブリースに、なおも縋りつくレシャを見ていると、まるで子犬と大蛇が戯れているようだ。
「アンジュ……」
助けを求めるようなイブリースの視線に、イブリースが頑張って奮闘する様を楽しんでいたアンジュがぱちんと扇を閉じた。
「フォーコネ男爵令嬢。これからは、王太子殿下をお支えする者として、互いに切磋琢磨してまいりましょう」
優雅に礼をするアンジュを、イブリースの体に両手を絡ませたレシャが得意気にねめつける。
「余裕ね。私のことなんて相手にしていないみたい」
「王妃殿下が決められたことなら、わたくしが覆せるほずはございませんもの。けれど、ご自覚くださいませね。王太子の婚約者候補であるということは、相応の品位と責任があるということを」
にらみ合う二人の間で、顔を青くしているイブリースは、頼りなげにアンジュを見つめる。
「イブリース、こんなお堅い女のために減量を頑張る必要はないわ。私が婚約者になるんだもの。さあ、カップケーキを食べましょう」
アンジュから視線を外し、悠然と微笑んだレシャは、余っていたカップケーキを取り出しイブリースの鼻先で揺らす。
この数日、簡素な食事しか取っていなかったイブリースの腹は、砂糖とバターの甘い香りに耐えきれず、大きな音を立てて鳴る。
「ほぅら、お腹空いてるんじゃない。イブリースの婚約者になるっていうんなら、ありのままのあなたを受け入れなくてどうするの。私は、そのまんまのイブリースが、好きだよ」
笑顔のレシャは愛らしい。
アンジュが冬の女王のような冷たい美しさを持っているとすれば、レシャは春の女神の使いのような愛らしさを持っている。
醜く太り、王太子であるということ以外、価値を見出されなかったイブリースは、王太子としてではなく、一人の人として自身を見てくれるレシャに傾倒した。
等身大の自分を見てくれていると感じたからこそ、アンジュに対する想いを相談もしていたのだ。
二人でアンジュへの恋心を成就させるための相談と称してはお茶会を開き、そのたび、レシャが手作りのカップケーキを作ってきてくれた。
素朴な味の中に、ほんのりと香辛料が香るカップケーキは、飾り気のないレシャ本人のようで好ましく思っていた。
それも、レシャが彼を裏切るまでは、だったが。
「いらない」
鼻先に突きつけられたカップケーキを、片手で押し戻しきっぱりした声で言い放つ。
「君は、僕の信頼を裏切ったんだ。そんな人の手作りなんて、食べられるわけがないよ」
アンジュを振り向かせるためという計画で、二人の恋物語を流したはずが、いつの間にか真実と誤認され、あわやアンジュと婚約破棄にまでなりそうになったのだ。
そのうえ、レシャは王妃の認可を得て婚約者候補となって戻ってきた。
これまで、優しくイブリースの悩みを聞き出していたのは、そうなるための布石だったのだろう。
「正直、ショックだよ。君のことは信頼していたからね。でも、結局は君も、自分の立場のために僕を利用したんだね」
愚かな王太子と呼ばれているイブリースのことだ。簡単に取り入れると思ってのことだろう。
レシャがイブリースに取り入り、アンジュとの婚約破棄を画策したことは、イブリース自身に非があったこととして処理され、レシャはイブリースの協力者として罪に問われることはなかった。
イブリースがそのように取り計らったのだ。
しかし、目の前に婚約者候補として現れたレシャを見ると、甘い判断だったと感じざるを得ない。
イブリースの甘さは、王太子として致命的なものになる……。
アンジュは、扇の間から冷徹な視線を二人に向ける。
イブリース自身は愛らしいが、この程度の諍いを収めることができなければ王太子としての資質を問われるだろう。
イブリースに助け舟を出すつもりはない。
アンジュは、婚約者ではなくレシャと立場を同じくする候補にすぎないのだから。
「恋愛相談をしているうちに、相談相手が好きになる……。なんてことはありがちなことよ。まあ、イブリースはアンジュ様にぞっこんだったのは誤算だったけどね」
にこりと笑ったレシャの顔は、言葉の割にどこか乾いているように見えた。
「所詮は、君も王太子の肩書に群がる一貴族だったわけだ。金輪際僕に近付かないでくれ。名前を呼ぶ許可も取り消すよ。フォーコネ男爵令嬢」
「ひどぉい。私、イブリースのためにいろんなことをしてあげたのに。でも、怒ってるみたいだから、今日は退散するわ。それじゃあね」
静かに起こっているイブリースを前に、落ちてしまったカップケーキをバスケットに拾い入れたレシャは、笑いながら片手を振って去っていった。
後には、嵐が過ぎ去ったように静まり返った二人だけが残された。
「婚約者は、アンジュ以外考えていないからね……」
ラベー公爵家の怒りを解くべく行動しているというのに、王妃によって新たな婚約者候補が設けられということは、王家が公爵家へ喧嘩を売っているようなものだ。
このことは厳重に王家に抗議してもらわないといけない。と考えていると、泣きそうな顔のイブリースがおずおずと袖を引いてきた。
——可愛らしいですわぁ。上目遣いなんて、卑怯ですわよ。こんなの、なんでも許してしまいたくなってしまうじゃないですの。
思わず暴走しそうな思考を咳払いで止め、イブリースに向き直る。
「わたくしが婚約者に戻るかどうかは、殿下の頑張り次第ですわ」
公爵家の娘としては及第点な答えだろう答えを返す。
「そ……うだね……」
心なしかしょんぼりした様子を見せたイブリースは、すぐに気を取り直し、アンジュに小さく笑いかけてから途中になっていた設問集に戻った。
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