第4話


「ぐぅ……政治学は、好きじゃない」



「頭はどんどんお使いにならないと、老化してしまいますのよ。さ、このテキストを今日中に全て解いてしまいましょう」



 鍛錬の後は、勉学の時間だ。


 とはいえ、イブリースには新しくつけられた家庭教師がいるため、王城での勉強は彼が見ている。


 アンジュは、授業と授業の空き時間にイブリースの成績を上げるべく次回のテスト対策用の設問集を自作してきたのだった。


 図書室の一角にある次週コーナーでテキストを黙々と解いていたイブリースの腹が、ぎゅるると鳴る。


 かつて、いつでも甘いお菓子を好きなだけ口にしていたイブリースの姿が脳裏によぎる。


 いつもならば、イブリースは「腹の音を鳴らす」前に、好きなものを口にしていただろう。


 しかし、



「水を少し、もらおうか」



「はい、イブリース様」



『体型を王太子らしいものにする』というラベー家との約定に従うべく、イブリースは用意される食事以外、手をつけなくなった。


 ふくふくに太った姿が失われるのは辛いことだが、健康面を考えると仕方がないかもしれないと思い至ったアンジュは、イブリースのダイエットに協力し、王宮での食事メニューの監修もしている。


 なので、ここ数日イブリースは、ニワトリのササミをゆでたものと、ブロッコリーと人参を茹でたものしか食べていない。


 再び、イブリースのお腹の音が鳴る。


 お腹の音が鳴るたびに、周囲で勉強している学生たちが忍び笑いするのを横目で睨んだ。


 前向きに変化しようとしているイブリースを笑うものは許せない。


 これまでも、イブリースは影ながら笑われてきたが、先日の真実の愛事件からは公然と笑われるようになっていた。


 愚かな王太子。


 男爵令嬢にまんまとのせられた王太子として。


 複数の忍び笑いの声に、イブリースの頬が真っ赤に染まる。


 アンジュは、魔法で指先から水を出し、ゴブレットにそそいだものを渡す。


 これ以上お腹が鳴らないように、赤くなった頬を誤魔化すように飲み干す姿を眺めていた。



 ——笑った連中の顔は覚えたわ。後で覚えておきなさい。それにしても……我慢するイブリース様も、お可愛らしい。



 笑顔で食べたいものを食べている姿が好きで、イブリースの好きなようにさせていたのだが、表情を無にして我慢している姿もたまらない。


 アンジュは、生粋のイブリース馬鹿だった。


 うっとりと眺めていると、バタバタと大きな足音が近付いてきた。


 扉の前で、護衛達と甲高い声が押し問答を繰り広げているのが分かる。


 聞きなれたその声に、思わず眉根を顰めていると、バンと乱暴に扉が開いた。



「イブリース! やっと会えたわ。卒業パーティー以来、連絡が無いから、探しちゃった」



 バスケットを持ったレシャが、アンジュとイブリースの間にズカズカ割り込む。


 笑顔でイブリースに迫るレシャから彼を庇いながら、男爵令嬢の非礼を咎めようと口を開いた瞬間、イブリースのお腹が鳴った。


 レシャのバスケットから漂う甘い香りに反応したのだ。



「可哀そうに、イブリース。こんな悪女と婚約を続けるために、大好きなお菓子まで取り上げられるなんて。あなたの好きだったカップケーキよ。さあ、食べて」



 流れるようにイブリースの膝上に座ったレシャは、カップケーキを取り出して、断りを入れようと開いたイブリースの口に差し出した。



「フォーコネ男爵令嬢。身分をわきまえなさい」



 イブリースの口に差し出されたカップケーキは、素早く差し出されたアンジュの扇に当たって、勢いあまって床に落ち。



「何するのよ! イブリースのために作ってきたのに! イブリース、見た? アンジュ様は身分の低い私をいじめるの。それに、食べ物を粗末にする王太子妃なんて、民は支持しないわよ」



 これみよがしに、イブリースの頬に自分の頬をつけ囁くレシャの姿に、深いため息が漏れた。



 レシャ・フォーコネは、エルヴィシウス王立学園内では有名な少女だ。


 男爵令嬢という肩書はあるものの庶子であり、母親が平民であること。


最近まで、貴族教育を受けずに民の中で育ってきたからか、礼儀作法を全く知らないこと。


 それだけでも、周囲からは浮いていたというのに、レシャは、学園の『学生は身分によって差別されてはならない』という文言を盾に、王太子であるイブリースに近付いたのだ。


 はじめは、特殊な環境で育った気の毒な令嬢だから。という考えの元、イブリースに近づくレシャに、丁寧に王太子や上級貴族に対する礼儀を教えていたアンジュだったが、助言は全て『いじめ』ととらえられる。


 そもそも、婚約者のいる男性に対して気安く近づくという行為自体、マナー違反だ。尻軽だと周囲から陰口を叩かれても仕方がないだろう。


 それなのに、周囲からの陰口すらも、アンジュによるいじめだと思ったようで、いじめを解決してほしい。と更にイブリースに近付いていく様子に、周囲の視線は冷ややかなものだった。


 しかし、イブリースが、民の目線で貴族のことを語り、世知に長けたレシャのことを面白がり側に置くようになったことで、事態は一変した。


 元々評判のよくないイブリースではあるが、曲がりなりにも王太子である。


 周囲の貴族子弟子女たちは、学園にいる間に繋がりを持ちたくてたまらない。


 そんなところに飛び込んできたのが、身分が低いレシャだ。


 レシャに気に入られたら、イブリースと目通りが叶うとふんだ一部の学生たちは、レシャをもてはやしはじめた。


 中には、ラベー家と対立する家がレシャに力を貸して、アンジュによるいじめを捏造しようとしていたほどだ。気が付いた段階で返り討ちにしたのだが。


 学園内でレシャの存在感が増すにつれ、『王太子の婚約者』であるアンジュが軽んじられるようになった。


 それもこれも、アンジュと過ごす時間をレシャに裂くようになっていたイブリースのせいだったのだが。


 イブリースが、レシャを馬車で出迎え通学するようになり、二人きりでお茶会を開き、パーティーのエスコートにもアンジュを差し置きレシャを誘う日々が続く。


 そのたびアンジュは、立場をわきまえた行動をとるように双方に申し出ていたのだが、二人は楽しそうに笑うばかりで、彼女の意見は聞き入れられなかった。


 当時、アンジュは、婚約者に顧みられない自分を笑っているのだと思っていたが、後にイブリースに聞いたところ、いつも表情を崩さないアンジュが、自分のために怒ってくれる姿が嬉しくて思わず笑ってしまっていたらしい。


 レシャは、他人の気を引くのがうまい。


 イブリースが、婚約者の気をひきたがっていることを見抜いて近付き、彼の恋を応援するという名目で、自分にとって都合のいい噂を広める程度には。


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