第3話
アンジュが初めてイブリースと出会ったのは、アンジュとイブリースが共に五歳の時だった。
元々、アンジュはイブリースの兄であるラスールの婚約者候補として王城に連れてこられていた。
ラスールは、今なお生きて(・・・)いたら理想的な王太子になっただろうと言われているほど、聡明で賢い少年だった。
ラスールは、年の離れた婚約者候補であるアンジュにも優しく、紳士的に接してくれていた。
文句のつけようのない婚約者候補だった。
しかし、交流を深めるための二人のお茶会に、兄を探してイブリースが迷い込んできた。
ラスールに懐いていたのであろうイブリースは、当時は年齢相応程度にふっくらとしていて、半泣きになりながら兄を呼んでいた。
イブリースの声を聞いたラスールは、少し困ったような顔をした後、アンジュに断りをいれ、茶会の席に招く。
イブリースは、自分で作ったクッキーを兄に見せたかったらしく、絹のハンカチに包んだそれを自慢げに掲げる。
ラスールは小さく笑って、すごいじゃないか。とイブリースを膝に乗せた。
ラスールの膝の上で嬉しそうな笑顔を見せたイブリースは、それはもう可愛らしかった。
同じ髪色と博美の色をした二人の兄弟が、仲睦まじげにクッキーを食べさせ合う姿は、宗教画もかくやといわんばかりだ。
王子が料理などという身分にふさわしくない行いをしているということを、秘密にして欲しいと命令に近い目くばせと共に言ってきたのはラスールだった。
アンジュは、一も二もなく頷いた。
そして、口止め料にとイブリースのクッキーを一枚、分けてもらうよう要求する。
それを言ったとき、笑顔で固定されているラスールの表情がほんの少しだけ驚きに揺らいだ。
が、すぐに笑顔に戻り、イブリースにいいかい? と問うた後、恥ずかし気な顔をするイブリースの許可を得て、一枚、分けてもらった。
好奇心のおもむくままに口にしたクッキーは、生地を混ぜ過ぎたのか、やや固かった。
しかし、焼いてすぐに持ってきていたのかほんのり温かく、いつも毒味を通すため、冷めた料理やデザートを食べていたアンジュの心を温めた。
イブリースのクッキーを微笑みながら食べるアンジュを見つめていたラスールは、君となら、仲良くできそうだね。と自らもクッキーを頬張る。
結局、イブリースの作ってきたクッキーはほぼラスールの口の中に消えていった。
もう少し分けて欲しいといった視線でラスールを眺めていたが、気付いているのかいないのか、これは僕のために焼いてくれたものだからね。
と食べてしまったのだ。
うらやましかった。
当たり前のように兄に甘やかされる弟の姿も、兄のために何かしたいと奮闘する弟の姿も。
アンジュにとって、兄妹とは上下関係と礼節で結ばれた関係で、目の前の兄弟のような、甘やかな雰囲気が流れるようなものではない。
だが、アンジュのような兄妹こそ貴族社会では一般的なものだろう。
イブリースが現れたとたん、笑顔の仮面を付けていた上品なラスールの顔に生気が吹き込み、雰囲気が柔らかくなる。
ラスールにとって、イブリースは特別なのだ。
天使もかくやといわんばかりの無邪気な笑顔でラスールの膝を独占するイブリースに、アンジュの瞳は釘付けだ。
夢中で見つめすぎて、そんなアンジュの顔を、笑顔の奥から満足気な視線をよこしていたラスールのことには気付かなかったほどに。
王城から帰ったアンジュに、ラスールから正式な婚約の申し込みが来た。
喜びに湧き、でかしたとアンジュをほめる父たちに笑顔を見せながら、あの天使のような少年と、将来義理の姉弟になれるのか。とほんのりと喜んだことを覚えている。
そうして、アンジュとラスールは正式な婚約者となり、アンジュは王太子妃教育を受けるようになった。
しかし、その数年後、ラスールは病で亡くなった。
王子妃教育を受けている間も、ラスールは王太子教育や執務で忙しく、数か月に一度、お茶を共にする程度にしか会うことはなかった。
突然の婚約者の死に、アンジュはショックを受けた。
しかし、それ以上にショックだったのは、自分たちの立場はどうなるのかと憤る家族や家臣たちの姿だった。
仮にも娘の婚約者が亡くなったというのに、表向きは喪に服し、裏では自己の利益を求めて行動する周囲の人々の冷徹さにアンジュの心は乱れた。
それでも王城内でも家族の前でも冷静に振る舞い続けた自分のことを、内心では計算高いと自嘲する。
ラスールに恋心を抱いていたか、と問われると、なかったと言えるだろう。
しかし、数年婚約者であったという情はある。ラスールも同じだっただろう。
ラスールの葬儀の間、涙一つ見せないアンジュの姿を、褒める者もいたが、冷血だと噂するものもいた。
アンジュ自身、身の内に巣くう喪失感をどうすればいいのか持て余していたが、上級貴族の令嬢として教育されていた彼女にとって、人前で感情を見せるということは屈辱に等しかった。
こんな時までも、自分は体裁を取り繕うのか。
これでは周囲の者のことも言えやしない。と自嘲した。
葬儀の後、最後の思い出に、とラスールとよくお茶をした庭園を散策する許しを得て、散策していると、西洋風あずまやでうずくまる小さな背中を見つけた。
そっと近付いてみると、ラスールの葬儀の席で、白くなった彼の側に花を手向けた後走り去ってしまったイブリースだ。
「なにをなさっているのですか?」
王子であるにも関わらず、兄の葬儀に最後まで参加しなかった彼の様子に腹が立ち、少し乱暴に問い掛けた。
掛けられた声に振り返ったイブリースの顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。
感情のままふぐふぐと泣くイブリースにあっけにとられたアンジュは、思わず口を開けて眺めてしまった。
これが、ラスールに変わる次期王太子かと思うと更に腹も立った。
「ラベー公爵令嬢……」
「次期王太子ともあろうお方が、葬儀を逃げ出し、あまつさえこんなところで泣いているなんて……。お兄様も悲しんでおりますよ!」
八つ当たりだ。自分は、人目を気にして泣くこともできないのに、この王子は簡単に泣いている。
本来であれば、王子のいる場所に通りかかった自分が悪いのだが、そんなことも棚にあげてイブリースを叱った。
ラスールの婚約者になってからも、イブリースの良い噂はあまり聞かなかった。
兄の後をついてばかりの金魚のフンだと呼ばれていた。
趣味が菓子作りであることもどこかから漏れていて、王家に連なる者のすることではないと馬鹿にされていた。
だが、イブリースのラスールへの忠誠は本物だ。とアンジュは感じていた。
将来王として立つラスールへのイブリースの信頼は強いもので、将来の家臣として信頼できる。と生前のラスールは言っていた。
だからこそ、葬儀の席を逃げ出したイブリースの行動には反感を感じずにはいられなかった。
ラスールの信頼に答えるべく、最後まで、彼を見送るべきだったのだ。
そう彼に言おうと口を開こうとした。
「ラベー公爵令嬢も、兄上を悼んでくれているんだね……」
突然イブリースに抱きしめられ、肩に顔をつけぐしぐしと泣かれてしまった。
「第二王子殿下……なりません!」
慌ててイブリースを引きはがすと、蒼の瞳から水晶玉のような涙が次々に溢れている。
「うううううっ……ふぐっ……兄上ぇ……」
荘厳な葬儀で、列席者が、特に王族が泣くことは許されない。
だから、彼は葬儀の場を逃げ出し、一人泣いていたのだろう。
「……第二王子殿下……」
初めてイブリースと出会った時、嬉しそうにラスールの膝に乗りクッキーを食べさせ合っていた穏やかな光景を思い出して、一筋、涙が流れた。
ラスールとの婚約を決めたのは、——そもそも断ることなどできないが——、あの光景を見たからだった。
初めての顔合わせの時、微笑みを絶やさないが目の奥は冷めていたラスールを、怖いと思っていた。
しかし、そんな彼も、イブリースの前では春の木漏れ日のような笑顔を浮かべるのだ。
婚約者になってから、イブリースと会うことはほとんどなかった。
しかし、ラスールとの決められたお茶会で、話題に困り沈黙するたび、アンジュはイブリースの話題を出した。
すると、冷え冷えとした笑顔を浮かべていたラスールの瞳に温度が宿り、活き活きと話をしてくれていたのだ。
時には、アンジュがあまりにイブリースのことを聞くので、イブリースが作った菓子をお茶会にこっそり持ってきてくれたこともある。
イブリースが作った菓子は、回を増すごとに美味しくなっていた。アンジュが菓子を褒めるたび、ラスールは喜び、イブリースには才能がある。と鼻を膨らませていたことが懐かしい。
何事にも等しく興味を持っていて、等しく興味を持っていないラスールが見せる、唯一の人間らしさだった。
「ラスール様は、第二王子殿下のことを、愛されておりました……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら泣くイブリースの顔を、ハンカチで優しく拭くと、丸い瞳がこちらを見た。
「本当?」
「ええ、本当ですとも。お茶会の席では、いつも第二王子殿下のお話をされておりました。愛おし気に目を細められて、殿下お手製のお菓子を食べられるご様子に、いつも密かに嫉妬しておりましたのよ」
いたずらっぽく笑うと、兄上……と呟いたイブリースは再び泣き出した。
——もし、わたくしが死んだとしたら、こんな風に泣いてくれる人はいるでしょうか。
ラスールは、多分泣かないだろう。
アンジュもそうだが、相手を失い泣くには、ラスールと会った回数はあまりに少なすぎた。
それでは、兄はどうだろう。泣くかもしれないが、それは、自らの出世の種を失ったことが悲しくて嘆くのだろう。
父は? 母は? と思いを巡らせるが、アンジュには、どうしても自分が亡くなったからという理由で純粋に悲しんでくれる人の存在が感じられない。
——いいな……。
誰かを慕うこと。誰かを思って泣くこと。誰かを心から愛すること。
イブリースは、アンジュの知らない感情を持っている。
「ラベー公爵令嬢……」
「え……?」
頬に柔らかなハンカチを当てられ、持つように促される。
なぜ、ハンカチを? と疑問に思ったが、すぐに謎は解けた。
アンジュの目から、涙が流れ落ちていたのだ。
ホロホロと流れる涙を、イブリースのハンカチで受け止め、ぐっと目頭に力をこめる。
「みっともないところをお見せしました。申し訳ございません。ハンカチは後日、新しいものをお返しいたします」
顔をハンカチから離したアンジュの顔は、令嬢然とした冷徹な微笑みで彩られていた。
婚約者の葬儀の日に、婚約者を想ってではなく、兄を慕って泣く弟の存在が羨ましくて泣くなんて、なんて浅ましいんだろう。と、脳裏で自分を責めることを忘れない。
「兄のために泣いてくれてありがとう」
涙でぐしゃぐしゃになった顔が、笑う。
「泣いてなんて、おりませんわ……」
貴族にとって、感情を見せるのは恥ずべきことだ。
ましてや、次期王太子妃として教育されてきたアンジュが、人前で涙を見せるなど、あってはならない。
なのに……。
「兄上が亡くなられてすぐ……ラベー公爵令嬢との婚約を伝えられたんだ」
辛そうに目を伏せたイブリースに、アンジュの胸がずきっと痛む。
ラスールが病に倒れたという知らせが屋敷に飛び込んできた時、父と兄がまず叫んだのは、ラベー家はどうなるのだ。という言葉だった。
ラスールがどうなるとも知れないのに、裏で手を回していたのだろう。
所詮、アンジュは政治の駒にしか過ぎないのだ。ということを思い知らされる。
「葬儀では、母上と私以外、誰も兄の死を悼んでいないように思えて、寂しかった……。けれど、ラベー公爵令嬢。あなたも悲しんでくれていたのですね」
濡れた大きな瞳で見つめられ、再び両の瞳から涙が出てきた。
「ラスール様……」
ラスールとは、短い間しか婚約者ではいられなかった。
けれど、お茶の時間に、愛おし気に弟の自慢をする姿や、落ち着いた大人な笑顔を見せていたこと。
政治的な結びつきだが、アンジュを大切に扱ってくれていたことが思い起こされて、急に胸に穴が開いたよう感覚が湧きおこってくる。
「ラベー公爵令嬢……あなたも、お寂しいんですね」
「寂しい……?」
それは、アンジュが久しぶりに感じた感情だった。
幼いころから、将来の王太子妃にと厳しくしつけられ、管理されてきたアンジュにとって、感情は邪魔以外の何者でもなかった。
けれど、イブリースの近くにいると、ぴっちりと閉ざしてきた感情の蓋が開いてしまう。
「あなたと今日、ここで出会えたこと、嬉しく思います」
泣きはらした顔に、穏やかな笑顔を浮かべたイブリースは、アンジュの片手を取り、口づけた。
——ああ、この方をお守りしたい……。
くるくると変わるイブリースの表情を見ていると、ラスールがなぜあれほど彼を可愛がっているのか分かるような気がした。
イブリースの側は、温かいのだ。
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