第2話

「ほらほら、もう息があがってましてよ、お豚さぁん」



 学園内の鍛錬所。


 鍛錬所とはいえ、周囲には人っ子一人影もない。


 高貴な人間の鍛錬を冷やかすなど、恐ろしくてできないからだ。



「あ……アンジュ……少し……休ませ……」



「上官(わたくし)と言葉を交わすときは、どうすればよろしかったかしら?」



「ぶ……ぶひぃぃぃぃぃ」



 訓練所の周辺をぼてぼてと歩くような速さで走るイブリースの側で、乗馬鞭を持つアンジュが楽しそうに笑っている。



「よろしい。あと三週すれば水を差し上げます! 心してお走り遊ばせ!」



「ぶ……ぶひぃぃぃぃぃ」




 卒業パーティーの後、アンジュの家であるラベー公爵家は激怒していた。


 イブリースが台無しにしたパーティーでは、アンジュの兄であるジルベール・ラベーの首席卒業による表彰が無いものにされてしまったのだから。


 ジルベールは、目立つことは嫌いだからこれでいい。と言い、妹の足元に縋る未来の王の姿を思い出し、堪えかねたように笑い転げていた。


「笑いごとではありませんわ。お兄様」



「いや、だってね、アンジュの気を引きたいからとしても……あれは、ない」



 イブリースの醜聞は、あっという間に広がった。


 とはいえ、元より王太子にふさわしくないダメ王子という評判に、新たに今回の醜聞が加わっただけなのだが。



「フォーコネ男爵令嬢も気の毒だね。未来の王太子妃になれると思っていただろうに」



 笑うジルベールを制したラベー公爵が、優雅に紅茶を口にする。


 自分を突き飛ばし、婚約を破棄するはずだった婚約者の足元に縋りつく王太子を見た時の男爵令嬢の顔は、どんなものだっただろうか。とアンジュは思い返す。


 足元で泣きわめくイブリースをなだめるのに必死で、気が付いた時はいなくなっていた。


いくらアンジュを嫉妬させたかったからといっても、婚約者ではない男からエスコートされ、アンジュを婚約破棄するように囁いていたのだ。


彼女の評判は地に落ちているだろう。



 ——迷惑料を後日送らなければいけないかしら……。



 王太子(イブリース)のしでかした事態の後始末は、婚約者(アンジユ)の仕事。


 王妃から常に言われていた言葉を思い出し、溜息をつく。



「王城から、謝罪の手紙と、婚約の継続を望む文書が届いているが、どうする? アンジュ」



 ラベー公爵の意味深な目つきに、背筋を伸ばす。


 子弟とはいえ、大勢の貴族たちの前で辱められたのだ。王族がしでかしたこととはいえ、簡単に許してしまえる話ではない。



「そうですね……」



 王城から届けられた手紙とは別に、アンジュの元へはイブリースからの手紙と贈り物が添えられている。


 内容を見て、思わす扇で口元を隠す。



 ——一国の王太子が家臣に軽々しく何でもするなんて書いてはいけませんわ。そのうえ、贈り物がイブリース様お手製の菓子だなんて……。なんて……なんて……。



「お可愛らしいなんて思ってないだろうね、アンジュ」



「思ってなどいませんわ」



 意味深なジルベールの視線に、ふいとそっぽを向く。


 そして、手紙を暖炉の火にくべた。



「おや、私たちには見せてくれないのか? 王太子殿下からの手紙」



「見せるはずもございませんわ。これは、イブリース様がわたくしにくださったお手紙です。取っておこうが、燃やそうが、わたくしの勝手でしてよ」



 抜け目なくアンジュの手元を見つめる現公爵と次期公爵の手に、イブリースの失態が渡らないための気遣いだ。


 本当は、イブリースから貰ったものはなんでもとっておきたいのだが。



「どうせ、手紙には婚約を破棄せずにいてくれたら『なんでもする』とでも書かれていたのだろう」



「……さあ」



 扇越しに兄とにらみ合うが、先に折れたのはジルベールの方だった。



「お前は昔から、イブリース様びいきだったもんな。だがな、ラベー家として、簡単に事を済ますわけにはいかないのは分かっているな?」



 どうやら公爵は、今回の件を次期公爵としての器を試すべく、ジルベールに一任したようだ。王城からの手紙をジルベールに渡した公爵は、机の前に広がる書類に目を落とし、仕事を再会しはじめた。



「だったら……どうするというのです?」



 アンジュとしてもジルベールにいいように動かされるわけにはいかない。


 あのふっくらとした、人のいい殿下の笑顔を守るためにも。



「それはな……家からこのような条件をもうけるのだ」




「そのようなことをしては、人類の至宝の損失ですわぁぁ!」



 



「お辛くはなくて? イブリース様……」



 訓練所の外周を走り終え、仰向けに倒れているイブリースに、ゴブレットにそそいだ果実水をそっと差し出す。



「お……お豚さんではないのか……?」



「いやですわ。それは、ラベー式鍛錬をしている時だけでございます」



 少々引いた様子のイブリースの手に、有無を言わさない笑顔で果実水を持たせる。

 アンジュの笑顔に安心した様子で、果実水をぐっと飲みほしたイブリースは、ふぅと息をついた。



「さすがに……辛くないといえば……嘘になる、かな……」



 やはり、とそっと目を顰めるアンジュの頬を、ふくふくした手が包む。



「けどね、同時に嬉しくもあるんだよ……。これまで頑張ることを避けていた僕に、君がチャンスをくれたから」



 強気の発言をしながらも、地面にべったり腰をつけ、すっかり息もあがっている。


 ふくふくした両掌でゴブレットを包み、ちびりちびりと果実水を飲むイブリースの姿は愛らしい。


 ラベー家がイブリースとの婚約を継続するにいたって、出した条件は以下のものだった。 


一、学力試験で一位をとること。


 二、武術試験で一位をとること。


 そして、体型を王太子らしいものにすること。の三つだ。


 どれも愚かで怠惰なダメ豚王子には不可能にみえるもので、ラベー家から三つの条件を突きつけられた王家は、諦めの溜息をもらした。


 しかし、当のイブリースは条件を飲んだ。


 これまで、授業時間に着席したら数分で離席していた王太子の姿はなりをひそめ、学園のみならず王城内でも勉学に励むようになる。


武術にいたっては基礎訓練にすら姿を現さなかったにも関わらず、熱心に訓練を行うようになっていた。


 今日は、武術訓練のための基礎体力をつけるための自主訓練をアンジュにつけてほしいとイブリースから頼まれたのだ。


 本当は、馬車の車輪も結びつけて走らせたかったが、イブリースの体力はまだそこまでついていないので断念した。



 ——賢く、強くおなりあそばせたら、今までのように愚可愛らしい笑顔が消えるかと思いましたが、これはこれでいいかもしれませんわね。



 アンジュにとって、イブリースは保護対象だ。


おれだけ愚かであっても、見捨てずにきたのは、その気持ちがあってのことだった。


 初めて出会った時に、自らそう定めたのだ。


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