もう一度だけあの海へ

をりあゆうすけ

もう一度だけあの海へ


「え……なんで?」

 Cafeは静寂に包まれ、客の視線は僕に集中した。

「ちょっと!大きい声出さないでよ!」

 彼女は、怪訝けげんそうな表情で僕を睨みつけた。


「あ、ゴメン……。でも、今、何て?」

「だから……別れましょう……って」


 彼女は、うつむき加減でポツリと呟いた。僕の心臓に、彼女の放った矢が突き刺さった。

 コートのポケットから取り出そうとしていた指輪を、そっと手離した。


「ど、どうして?理由を聞かせて……」

 僕は、引きった表情で精一杯の笑顔を作った。


「どうして?って……そもそも私達の始まりって、軽い感じだったでしょ?」

 彼女は、決して僕と視線を合わせなかった。確かに、僕達の出会いは所謂いわゆる『ナンパ』だった。僕は、男友達と酒を飲んでいて、隣のテーブルにいた彼女達のグループに声を掛けた。

 それが出逢いのキッカケだった。

 しかも、僕達二人はその後すぐにホテルへ行った。


 そんな、軽い出逢いだった。


「だけど、僕達もう一年の付き合いだろ?出逢いはアレだったけど、今は愛し合ってるじゃないか!」

 彼女は、僕の言葉に暫くの間 口をつぐんだ。珈琲から立ち込めていた湯気も、もう消えていた。


「知ってるんでしょ?」

 彼女は、何かを決心したように、顔を上げて僕の目を見た。


「し、知ってるって……何を?」

「とぼけないでよ。私、雅樹君と……って言うか、彼を愛してる」


 雅樹は、彼女達のグループを一緒にナンパした僕の親友だ。彼は、彼女と僕の三人で遊ぶ事が少なくなかった。僕は、ここ数ヶ月二人の様子がおかしいのを気付かないはずもなかった。しかし、その事を問いただすのが怖くて、きっと彼女の気の迷いだと信じて、気付かないフリをしてきた。けど、心の中では少しだけ焦りもあり、プロポーズで彼女の気持ちを取り戻そうと指輪を用意したのだ。

 彼女は今日、そんな僕のソワソワした様子を見て察したのだろう。そして、僕に先を越される前に別れ話を切り出した……そんなところか。


「怒らないの?私は一年前と変わらない……軽い女だよ」

 彼女は、まるで開き直ったかのように自分を卑下ひげした。

「怒らないよ。別れてから、僕が吹っ切れるように、悪い女を演じているんだろ?」

 彼女は、また目を逸らすと黙り込んだ。僕をなるべく傷付けないよう……それとは裏腹に、自分と雅樹が堂々と付き合う為に必死だと伝わってきた。


 僕にはもう、道は無かった。


「分かったよ。君がそう望むなら仕方がない……。でも、最後にひとつだけワガママを聞いて欲しい」



 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


「ごめん、すっかり暗くなったね」


 僕は、彼女を冬の海へ誘っていた。

 二人でよく来た海だ。もう一度だけ、一緒に海を見たい、ただそれだけ。彼女は、僕のワガママに黙って着いて来てくれた。

 寒空の中、僕達は砂浜まで行き並んで腰を下ろした。満点の星空、小さな波の音と潮の匂いが、僕をほんの少しだけ癒してくれた。


「一緒に来てくれて、ありがとう」

 呟くような僕の声は、波の音にかき消されたのか、彼女には届いていないようだった。心做こころなしか、悲しそうな、少し怯えた表情にも見えた。


「あ、もしかして海に沈められるとでも思った?」

 潮風よりも寒い僕の冗談に、彼女は少しも笑顔を見せなかった。僕の言ったワガママは、海に来る事だけでは無い。どうしても彼女にして欲しいお願いがあった。

 僕は、意を決して彼女に想いを伝えた。


「あのさ、プロポーズをしようと指輪を用意してたんだ。どうか付けてくれないか?勿論、嘘でもいい!分かっているから!」


 僕は、そう言って彼女の手を取った。彼女は、少しも抵抗せずに指輪を付けてくれた。きっと付けてくれると信じていた。彼女の優しさは、誰よりも分かっている自信があった。


「ありがとう……」

 僕は、涙声で彼女に感謝を述べた。

 ふと、彼女の顔を見ると真っ青になっていた。


「あ!ごめん!寒いよね?」

 僕は、思わず彼女の頬に手を当てた。


「大変だ!さ、早く車に戻ろう!」

 僕は、冷えきった彼女の手を引き、少し早足で車まで戻った。浜辺から離れてここまで来ると、冷たい潮風は少しだけ柔らいでいた。


「ちょっと待ってね!」

 僕は、車のバッグドアを開けると、いくつかの荷物をトランクに積み込んだ。


「さあ、帰ろう。雅樹のアパートまで送るよ」


 僕は、彼女に微笑みかけると

 バッグドアをゆっくりと閉めた。


【了】













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