第9話

「初めまして。明日から研修生としてこのみなと中学校でお世話になります河野努と言います。高橋先生の担当する3組の副担当になりました。教科は社会になります。よろしくお願いします。」

何の嫌がらせか、何故俺が憎いこいつの担当しなきゃいけないんだよ。

相変わらず岡は爽やか笑顔で挨拶をしている。

「高橋先生、初めまして。よろしくお願いします。」

モテるんだろうなぁ、甘い顔。アイドル顔というのか。声も猫撫で声で癇に触る。そりゃ黄実ちゃんも惚れるはずだ、と河野を見ながらムカムカが止まらない。

「……こちらこそ。」

極力会話を避けある程度の事を教える。

河野は困った様子で隣の席であたふたしている。

「チッ…。うぜーな。」

小声で言ったつもりだったが職員室全体に聞こえていたのか、岡が慌てて河野を取り繕う。

「河野先生、申し訳ない。高橋先生、しばらく河野先生は私が教えますから気にしないで授業に専念してくださいね。」

初めて学校で自我を見せてしまい一瞬焦ったがこいつはいいや、岡がしばらく面倒見てくれるらしいし好きに授業できそうだぜ。


いつものように別棟へ向かう途中、河野が話しかけてきた。

「高橋先生!いつもすぐ教室からいなくなってしまうので探すの大変でしたよ。授業教えるの上手ですね。僕見習わないと、と改めて思いまして。感謝言いたくなりました。」

無邪気な笑顔を屈託なく向けている。他人を疑うって事を知らないんだろう。別に河野に別棟に勝手に入っている事がバレてもいいのでお構いなしに歩き出す。

「え、高橋先生。こっちは立ち入り禁止って…。」

河野は本棟と別棟が繋がる渡り廊下であたふたしている。

「俺が授業上手いのは大した事じゃないよ。好きな事だからやってるだけさ。」

いつものように合鍵で鍵を開け2階の旧美術室に向かう。

ギシ…

入り口の軋みは相変わらずで河野を歓迎しているようだ。

「先生待って…。あの、子供たちと仲良くなる秘訣って何ですか?イマイチまだ生徒と距離掴めなくて…。」

たはは、と笑いながら頭をかく。高橋はそれを横目で見ながら2階に上がっていく。

「あいつら俺を先生と思ってないだろ、こっちも生徒と思わなきゃいいんだ。研修なんだから気楽にやれば?」

珍しく柄にもなくアドバイスなんてしてしまい身体中痒くなる。目をキラキラさせ河野は高橋の後ろをついていく。

旧美術室の扉を開け、カーテンを開ける。眩しい。窓を開けると心地よい風が通り抜けて行った。

「わぁっ!いいところですね。本棟とは全然違いますがここ立て壊すんですか?」

「…お前はなんで学校の先生になろうと思ったんだ?」

ぽかんとした顔をこちらに向け河野はにっこりと笑う。

「俺…あ、僕、来年結婚するんですよ。結婚するならお金必要じゃないですか。あ、でもお金も大事だけど子供が好きなんです。大学時代に塾のアルバイトをしていて子供と関わる仕事をしたいと決めてたんです。」

「結婚…。」

「内緒なので言わないでくださいね!研修生のくせに生意気だ!なんて言われたら嫌なんで…。あはは。」

もしかして…。

「へぇ…。おめでとう。相手は同じアルバイトの子?」

「あっ、はい!見ます?可愛い子なんですよ!実はもう彼女のお腹の中に子供もいて名前も決めてるんです。」

河野は携帯を取り出し高橋に見せる。

「照れちゃいますね。えへへ。男の子で名前も決まってるんです。黄牙にしよう、って決めたんです。黄は彼女の名前から、牙は僕が頼りないから子供は元気に牙のように元気よく!という意味を込めて!」

携帯を持つ手が震える。

「高橋先生には生まれたらすぐ挨拶に行きますね、彼女も連れて。」

「いや、辞めてくれ。迷惑だ。すまん、これからやる事があるんだ。本棟に帰ってくれないか?」

「あ…す、すみません。プライベートな事でしたね。本当にすみません…。」

河野はペコペコと頭を下げて罰が悪そうに美術室を出て行った。

黄実とあいつが…。

完成間近だった油絵の作品を投げ飛ばしカッターナイフで切り刻んだ。

結婚だ?子供だ?ふざけるな!俺は黄実のせいで人生変わったんだ…あいつらはのうのうと平凡に過ごしていた。

フラフラとした足取りで手帳に手を伸ばし娘の写真を見つめる。

乱れた心を徐々に落ち着かせタバコを口に含む。

黄実と河野が結婚…。

校庭に目をやると笑いながら岡と帰宅する姿を目撃した。

俺と同じように壊したい、ズタボロに。


   ***


「先生方、聞いてください。なんと!このみなと中学校ですが、市の見本私立として新しい制度を取り入れることになりました。5組に高成績の生徒を集めて、定時制のクラスの見本として生徒たちに指導してほしいとの事です。名誉あるこのクラスの担任に、現在3組担任の高橋先生を推薦します。皆さんの意見をお願いします。他に推薦したい先生いますか?」

岡が校長とわからん事を言い出した。

「すごい!高橋先生、さすがですね!」

河野は小さく拍手をして喜んでいる様子だ。

「ち…ちょっと待て。なんで5組確定なんだ。現担当の大吉先生が引き継げば…。」

名指しされた大吉は近くにいた米村の後ろに隠れる。

「校長先生と決めたんです。うーん、私自身が高橋先生を贔屓目で見てるから…って言ったら他の先生に怒られますかね?たはは…。もしこの取り組みが評価されれば高橋先生が行きたかった海外での美術の勉強会に…。」

言い終わらない内に高橋は自身が座っていた椅子を蹴飛ばし岡の胸ぐらを掴む。

「お前、どうせ気に入らないだけだろ?気に入らない俺を隔離させてその手柄を後で横取りしようって魂胆だろ?」

「ま…待って待って、離してくださいって。高橋先生、よく聞いてくださいね。授業はあまりないクラスになります。登校は自由にします。その代わり他の生徒より課題は多めです。先生はその採点をしていただければ…。先生たちの中で一番頭いいの高橋先生しかいなかったんですよ…。」

岡は体制を整え話を続ける。

「いいですか、聞いてください。この特別クラスは市の見本になります。より良い成績を収め大学に行く優秀な生徒を育成するのはいいことだと思いませんか?先生最近はいつもイライラしてるじゃないですか…。せめてもの償い…じゃないですけど少しでも授業準備の負担を減らせるなら、と打診してみたんです。迷惑でしたか?」

「迷惑だろ、俺は…。」

「高橋先生っ!すごいですねっ!岡先生も言ってた行きたがっていた海外行けるじゃないですか!海外で勉強したいんですよね?認められて偉い人になっちゃったらどーしよう!」

と言いかけて河野が間に空気も読めずに割り込んで来る。

「……かげんに…。いい加減にしろ!俺の人生他人が指図するな!気になっていた女まで奪って次は特別クラスだぁ?担任になるのが怖いだけだろ。」

全員シン…と静まり返る。罰が悪そうに河野は言葉を付け足す。

「あ、あの…女まで奪って…なんの話ですか…?」

大きなため息をつき河野を睨む。

「もういい。特別クラス受け持つぜ。手厚く生徒を指導してやる。だがな、今後俺のやり方に指図するなよ?河野の担当降りるぜ、岡、お前がやれ。わかったな。」

人が変わったように高橋は話し終え、職員室の窓を開けタバコを吸い始めた。あっ…と校長が止めようとしたが岡が制止する。

「あ、いい機会だ。別棟、俺にくれないか?やりたいことあるんだ、鍵を俺に預けてくれ。」

岡は頭を抱えながら別棟の鍵を高橋に渡す。

「…あまり、変なことはするなよ。俺は高橋先生の夢を応援したくて…。押し付けてはないことだけわかってくれ。」

「この学校を有名にすればいいんだろ。してやるよ、お前の昇格もついでに待ってるんだろうなぁ、あっはは!」

何かが吹っ切れたように清々しい。

岡が気に入らない。新しいことは大抵面倒事が多い。押し付けられたんだろう。それならそれでやりたいことをやる。これから正々堂々と別棟使えるのは大きい収穫だった。言ってみるもんだな。

河野に対しても猫かぶらなくていいのは助かったな。河野はその日から高橋のストレス発散になって行った。


   ***


研修も残り1ヶ月を切った。

面倒を見てくれると、当初は約束していた先生から毎日嫌がらせをされ、嫌味を言われ最近はもう研修を辞めたいとさえ思っていた。岡先生がいなかったら僕は先生を辞めていたかもしれない。

大学生時代になんとなく始めた塾のアルバイトが楽しく、子供と接する仕事に就きたいと思った。

僕はずっとなんの取り柄もなく、ただなんとなく大学受験してすんなり大学に入り、なんとなく過ごしていた。そんな自分を変えたくて、アルバイトを始めてみたら本当に楽しかった。

頭だけはよかったし、子供が好きで教えることも上手だったので生徒からすこぶる評判はよかった。

だから学校の先生になったら、楽しいが毎日続くんだ!と楽しみにしていたんだ。


「おい、女顔。邪魔。」

机の上に広げた授業で使うプリントが、高橋先生の机に少しはみ出ていてそれを指摘された。

「あ…すみません。あの、先生…女顔って言うのはちょっと…。」

高橋は悪びれることなくドカッと椅子に座ると、提出された課題の山の採点を始める。美術とは関係ない数学だ。あからさまに『俺は担当じゃない教科も教えてるんだぞ。』と無言の圧力をかける。

「高橋先生、職員室内で暴言は辞めてください。」

校長はたまらず制止しようとするが河野がそれを止めた。

もうすぐ研修終わるんだ。こんな大人同士のいざこざなんて、生徒に会えば忘れちゃうんだから頑張って乗り越えなきゃ!

気を取り直して喝を入れ顔を上げると岡先生と目が合った。恥ずかしい…。

「河野先生、気合い入ってますね。今夜も飲みに行きます?」

白い歯を見せ笑う岡先生、本当に気が効いて優しい先生。僕が失敗しても即座に対応してくれてこうして助けて気にかけてくれる。岡先生にプライベートなことまで話している。子供が生まれたら学校に来なさい、って歓迎されてしまった。

「はいっ!行きます、今日もご馳走様でーす!」

片手を上げて元気よく答える。隣から舌打ちが聞こえるのももう日常で慣れてしまった。僕は彼をなぜこんなに怒らせてしまったのかまるで見当もつかない。

岡先生といるだけで楽しくて時間をあっという間に忘れてしまう。この学校で岡先生とずっと働けたら、と期待してしまう。

学校での仕事も終わり、行きつけの居酒屋へ向かう。

駅前に最近できたばかりの大衆居酒屋だ、今日も飲兵衛で賑わっている。いつもの店員に挨拶していつもの席に案内される。

「すまんすまん、待たせたな。って、もう一杯やってるのか!すいません、こっちに生一つ!」

「はーい!」

店員は元気よく返事しビールを注ぎに厨房へ向かった。

岡先生は上着を脱ぎポロシャツのボタンを開いてうちわで仰ぐ。走ってきたのだろうか?汗が額から流れている。

「走ってきたんですか?急がなくていいのに。」

「河野先生に伝えたくて!これ、見てくれ。」

岡先生はテーブルの上にあるお皿をどかし、ある資料を広げる。

…両親が共働きでも安心して働ける中学校一覧だ、もちろんその一覧の中にみなと中学校も入っている。

「え、先生。調べてくれたんですか?」

「ああ、これから大変だろ?うちでも支援できるが来れるかわからないもんなぁ。校長に頼んで優遇してもらうとか…。」

相変わらず優しい先生だ、この学校に研修に来て高橋先生に毎日いじめられてもこの優しさで救われる。

「はいっ、生お待ちっ!あれっ?河野先生、違う学校行っちゃうんですか?」

店員はテーブルに広げられた資料を見ながら残念そうな顔をする。

「僕、今はまだ研修なんです。もうすぐお別れなので来れるだけ岡先生と来ますね。」

「寂しくなりますね、岡先生。」

そう言うと忙しそうに他の客の対応に向かった。岡先生を見ると心なしか寂しそう、な気がする。

「あはは。お別れだなんてしんみりしちゃうな。あ、話の続きなんだが、この学校はこの制度が良くてこの学校は…。」

岡先生は資料を見ながら学校を指差ししながら手書きで書き込んで行く。時たま資料に汗が落ち慌てる先生が面白い。

「僕、黄牙が中学校入ったら先生の所に行かせたいです。僕が一緒に働けないのならせめて息子に神様みたいな優しい岡先生を知ってほしい。」

今まで我慢していた涙が溢れる。

「ど、どうしたどうした!河野先生、店出ますか。」

資料を片付けながら店員を呼び会計を済ませようとするから止めた。

「いいんです、ごめんなさい。毎日高橋先生にあそこまで馬鹿にされて、我慢していた気持ち溢れちゃいました、ごめんなさい、もう泣かないです。」

「そ、そうか…。そうだな、高橋先生…。俺も仲良くなりたかったのに嫌われてしまってね。最初の頃は何も話さなくて生徒からの評判も良くて…知ってるだろ?教えるのが上手で美術の授業が楽しい!と言う生徒が多かったんだ。」

ようやく汗が引いてうちわをカバンにしまい語り出す。

「特別クラスの専属担任にしたのは理由があってな。このクラスの担任になると市の特別教員になるので将来希望があれば海外の大学に行けるんだ。昇格だな。高橋先生、美術が大好きで何度もコンクールに入賞しているだろう?海外に行ってもっと伸び伸びと絵の勉強してもらいたくて。いつも狭い空間で申し訳なくて…。」

いつだったか高橋先生は『広い海外を娘と一緒に旅をしながら死ぬまで絵を描き続けたい。』と言っていたのを思い出す。

「そんなしっかりした理由が…。本人に伝えないんですか?」

「…他人を信用していない彼に伝わると思うか?いまだに追いやったと思われてるんだぞ、こんなに気にかけてるのにな。仲良くなりたいよ。」

岡先生は携帯の待ち受けを見せてきた。

「知ってるか?この猫の形をしたロボットアニメ!高橋先生、このアニメが好きらしくこれを餌に仲良くなりたかったんだけどなー。」

あれ?これは黄実ちゃんも好きなアニメだ。

「知ってます、彼女も好きなんです。付き合ってる時、イベントも行ったし部屋中この作品のフィギュアだらけですよ。高橋先生も好きなんですね。」

『好きな女まで奪っておいて』

高橋先生の言葉が脳内でこだまする。僕にきつく当たる理由。まさか…。

楽しそうに話す岡先生の言葉はこれ以上頭に入ってこなかった。


   ***


もうすぐ研修が終わろうとしていた。

盛大に送り出し会という名の送別会をしようと、研修が終わったら企画してもらっている。

高橋先生にもきてもらおうと、今日は別棟の旧美術室に呼び出し話をしようと考えていた。…来てくれないだろうけど。

「何だよ、お前と話すことなんてないだろ。」

別棟には毎日決まった時間に来ているのを知っているので、その時間に合わせて呼び出して正解だった。

「話すことないだなんて…。あの、来週お別れ会と言うか、送別会やるので来てくれませんか?」

ゲッ、と声にしたのかタバコの煙をこちらに向けながら「嫌だ。」と答えた。

「……先生は。先生はなんで僕に…私にそんなに冷たくするんですか?」

言葉が詰まる。まだ煙は吐かれたまま冷たい視線が痛い。

「さぁな。」「黄実ちゃんをいじめたのはあなた達じゃないんですか?」

高橋がびっくりしたような顔で目を見開き、ようやく目が合って会話ができるようになった。

「最初から知ってたんですね、高橋先生は。意地悪ですよ、教えてくれたってよかったのに。僕が黄実ちゃんの彼氏っていつから知ってたんですか?大学在学中ですか?」

言葉に詰まっているのか、中々口を開こうとしない。

「結婚した、って教えてから確かに態度おかしくなりましたよね。ひどいですよ、嫉妬ですよ、それ。でも、安心してください、他言しないので。生徒に優しい高橋先生が研修生を嫉妬でいじめてるなんて知ったら、みんなどんな顔するでしょうね?」

高橋はタバコの火を消し真っ直ぐに目を見つめる、と言うより睨んでいるが正しい。

ずっとこんなほぼ八つ当たりのようなことでいじめられていたと思うと悔しいけれど、言えてスッキリした。

何も話さない高橋を見ながら少し気は晴れたが、嫌な思い出を思い出させてしまったか少し可哀想になってしまった。

「すみません。偉そうにペラペラと…。あ、もうすぐ次の授業始まるので行きますね。高橋先生にお世話になったこと、嫁には伝えないので安心してください。さようなら。」

美術室を出て階段を降りている時だった。背後から高橋先生に腕を掴まれ、びっくりして足を踏み外し転倒してしまった。

一瞬見えた高橋先生の顔が笑っているように見えた。

気がついたら学校の近くの病院にいた。付き添いに岡先生が居てくれて、意識が戻った時に泣いて喜んでくれた。本当に優しい先生だ。

幸いなことに怪我はそんな酷くないため1週間程度で退院できるとのことです。それを聞いた岡先生は、また泣きながら喜んでくれた。

研修期間はこの事故で、来週を待たず先生たちに挨拶もできず終わった。

最後の日の高橋先生との出来事は誰にも言うつもりはない。僕自身、あの時本当に性格が悪かったから、同じことされたら同じことをしたかもしれない。

後悔は生徒達に挨拶できなかったことぐらいだろうか。

またみなと中学校で岡先生と一緒に先生として働きたかった。その夢はもう叶うことがないけれど。

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