第82話 歩いて行ける距離
去年よりも賑やかなお祭り会場を、ふらふらと水面を漂うペットボトルのように人の波に押されて流されていく。
いつの間にか花火が上がって、中身のない胃袋を連続した爆発音が震わせた。
人の顔が花火の光に照らされて、赤や緑やピンクに変わる。みんな同じ方を見上げて、俺だけがそれを見ている。
「あー今のキレイ!」
どこかで上がった声が、絵美の声に似ていた。
あの日の夏の終わりの花火大会も今日のように人も多くて、近くで見ることを諦めた俺たちは空いている土手に座った。
川の風が時折強く吹きあがってきて、ノースリーブとショートパンツから華奢な手足を出した絵美が寒そうだった。
抱き寄せた時に触れた、冷たい皮膚の肌ざわり。
思わず手のひらを見ていた。
初めてハッキリと思い出せた、絵美の具体的な感触だった。
引き寄せられるようにあの日が蘇った。
シャーベットオレンジのタンクトップにデニムのショートパンツ。二十歳の誕生日にお父さんに貰ったと言っていたダイヤのピアスが、暗がりでも綺麗に輝いていた。
鳥肌が立っているのに、体温が高いからか本人は平気そうにしていた。
帰り道に食べた、コンビニの梅おにぎり。
心が癒えたのかな。
今ようやく思い出せる。声も、肌触りも、思い出も。
ところが思い出した途端、それは完全に過去になった。
二年と二か月の月日が、はっきりとした体感を伴って全身に宿った。
絵美がこの世からいなくなって、もうそんなに経つんだ。
「先生!」
どこかへやりそうだった意識が引き留められて、振り返ると不機嫌そうな高校生くらいの男の子が俺を見ていた。
「中屋先生ですよね?」
「うん、そうだよ」
きちんと向き合うと、少し息の上がった様子の彼の顔を打ち上がった花火が青く照らした。随分と汗をかいている。
「高瀬が泣いてます」
高瀬の名前を聞いた瞬間、彼の正体が分かった。
「君は田中君?」
訊ねると彼は驚いて、それからギュッと眉を寄せ、「そうです、高瀬の友人です!」と、怒ったように答えた。
「高瀬に君の話を聞いたことがあるよ」
俺は微笑んだが、田中君はますます眉を寄せてじれったそうに身じろぎをする。
「俺は誰でもいいんです! とにかく高瀬に会ってやって下さい!」
彼の必死な形相に、ようやく高瀬が泣いているという言葉が耳に落ち、漂っていた心がにわかに騒いだ。
「高瀬になにかあった?」
訊ねると、赤く照らされた田中君の眼差しに微かに憐憫が差し込まれた。
「高瀬、知っちゃったんです……先生の奥さんのこと」
「……そう」
雷鳴のような打ち上げ花火の音が人々の歓声を誘って、ここに訪れた沈黙を際立たせた。
また高瀬を傷付けた。
嘘を吐き続けた月日の体感は初めからきちんと胸にあった。何度も後悔したのに、こうなるとわかっていたのに。
俯きかけた俺との距離を一歩で詰めた田中君が、俺のシャツを殴るように掴んだ。
「高瀬に会ってやってよ! あいつのことは俺が引きずってでも連れていくからさ!」
「会ってくれるかな」
「会いたいに決まってんじゃん! あいつまだ全然……」
言い掛けた田中君は、口を結んで目を伏せてしまった。
まだ全然?
さあ、俺はどうするんだ? とにかく、俺のせいで高瀬が泣いている。
田中君の肩を摩って、俯いた顔を起こしてもらう。
「そんな顔をしないで、もちろん会うよ」
光る視線を受け取って、腕時計を確認する。
「今日は帰りが十時半を過ぎると思うから、明日――」
「今日! 今日で!」
掴まれたシャツがまた揺すられた。
「あいつひと月以上もおかしかったんだ。先生に連絡するって言ってたけど、やっぱりできなかったみたいで。もう一日も待てないから!!」
自分の声が大きいと気が付いた田中君は一瞬周りを気にしたけど、それでも俺のシャツを離さなかった。
「分かった」
「ほんと?」
ホッとした笑顔に頷いて見せた。
「住所を教えるよ、メモは取れる?」
「だめだよ、先生から高瀬に送って!」
「え?」
「だって先生が嘘吐いたんだろ?」
きっぱりと言われて、彼ら高校三年生が今まさに成人しようとしていることに、唐突に納得してしまった。
「そうだった。俺が連絡する」
「今すぐ」
「分かった」
腕を胸の前で組んだ田中君に睨まれて、取り出したスマートフォンで高瀬に自宅の住所を送った。
「はい。送った」
「よし!」
「住所だけ送ったからきっと驚いてると思う。田中君から説明しておいてくれる?」
「えっ?!」
驚いた彼を笑うと、すぐにしょうがないなという顔になった。
去っていく彼は一度こちらを振り返って、何かを確かめるように俺の方を真っすぐに見た。
俺が笑って、「またね」と手を上げると、ちょっと驚いた顔をして、それから意味を理解したのか、頷いてようやく人混みに消えていった。
俺はまるで密使を遣わせたような気分になって、さっきまでの感傷的な心はどこかへ消えてしまった。
絵美の記憶が戻ったとたん、彼が現れた。
運命なんてない。でも、その言葉で飾りたい特別な出来事はたくさんあったと思う。
◇◇
家に帰ると丁度十時だった。
「おかえりー」
「ただいま」
真っすぐお風呂場に行ってシャワーを浴びた。
髪を拭きながらリビングに行くと、母さんがソファーでテレビを見ていた。
「父さんは?」
「やよいちゃんがくれたワイン飲ませた」
「あ、そう」
自分もソファーに座って、付いているバラエティ番組を眺める。
「なんかあったの?」
母親は鋭い。
「このあと」
「うん」
「先生に会いに行くことになってて」
「えっ?!」
こっちがびっくりするほどの声が返ってきて、俺は横にあったクッションに身体を預けた。
「なにがあってそうなったの?」
「そんなに食いついてこないで」
「なに言ってんのよ! あれからうんともすんとも言ってこないから母さん気になって気になって気になって気になってたんだからね!!!!」
「……すみません」
「で? なにがどうなってそうなったの?」
母さんの圧が俺の心のもやを吹き飛ばしていく。くっきりとはっきりと、これから先生の家に行くんだという事実があらわになる。
胸がドキドキしてきた。
「さっき、お祭りで先生を見掛けたらさ、俺また泣いちゃって」
「泣き虫ねえ~小さい頃より泣き虫になったんじゃない?」
「そうかもね……」
「それで?」
「熊田が一緒に居たんだけど、俺が泣くのを見て先生を好きなことに気が付いて」
「熊田君凄いわね。たどり着く? 泣いてたからってことで?」
確かに、今考えるとそうだ。
「ピンと来たんだろうね……」
「それでそれで?」
にじり寄って来る母さんから少し離れる。
「熊田と田中が先生を探しに行って、俺は菊池に慰められて、菊池にも先生が好きなことを話した」
「んー、言えてよかったじゃない」
「うん」
直と健人に会ったことは、まあ端折ってもいいか。
「ほいでほいで?」
「スマホに先生が住所を送ってきたんだ」
「まあ! 会いにおいでって?」
「何も。ただ住所だけ」
「え?」
母さんの顔が不可解な表情に変わった。俺もあのメッセージを見た時こんな顔をしていたと思う。
「田中が先生を見つけて、俺に会ってやってって言ってくれたみたい」
「はーん。田中君、柔道やってたもんね」
「うん? うん」
「先生を絞め落として住所を送らせたの?」
「そんなわけないだろ」
「えっ?!」
「えっじゃないよ」
なんなんだこの母親は。
「先生が俺に会うって言ってくれて、でも今日は十時までお祭りの見回りがあるから、先生は明日って言ったらしいんだけど、今日でって田中が押し切って、それで先生の家の住所が送られてきたってことみたい」
母さんが声を上げて手を打った。
「なるほどねー! よくやった田中君! できる男だと思ってたのよ! それで? 先生の家はどこら辺なの? あー母さんもワイン飲んじゃったからなあー。タクシー呼ぶ?」
「いやだよ!! 十一時だよ? そんな時間に先生の家なんか行けないよ!! 夜中になっちゃうだろうし、だめだよね?」
「はあ? 行ってこいバカ野郎!!」
「えっ?!」
バカ野郎と言い放った母さんは、直ぐに優しく笑って俺の頭を撫でた。
「今こそ高校生らしく思いきりなさい」
「こうこうせいらしく?」
突然穏やかな口調で言われて、なんだかもう母親のテンションが分からない。
「高校生はね、もっとやらかすのよ。無断外泊したり、変な色に髪を染めたり、カラオケでマイク振り回してテレビ壊したり、彼女とラブホテルに行って、なぜか近所のおしゃべりおばさんに見られたりするのよ」
「だれのはなしだよ」
俺は目を眇めながら、確かにどこかで聞いたことがある話だと思った。
「彼女に振られて制服のままシャワー浴びて泣いてたり、突然丸刈りにしてみたり、どっかでもらってきた鶏を庭で捌いて警察呼ばれたりするのよ」
「やまざきさんのむすこのはなしかよ」
テーブルのグラスに手を伸ばした母さんは、ワインをぐいっと飲み干した。
「正直何度もやよいちゃんを不憫に思ったわよ。でも今や娘が生まれて、ちゃんと仕事して幸せにやってる。あんたも一回くらい思い切って行ってこい! まだ好きなんでしょ?」
「いい、メールして普通に明日とかにしてもらうから」
ポケットからスマホを取り出すと、母さんが俺の腕を掴んで操作を邪魔してきた。
「いいから行きなさい!」
「なんで?! 明日会いに行くってば!!」
「気になって眠れないでしょう?! 私や田中や菊池や熊田が!! あんただってどうせ眠れないわよ!! いいから行ってきなさい!!」
「そ……んな理由で」
ふり絞って言い返したが、多分俺は眠れないだろう。
「で? 家はどこ」
「歩いて行ける距離」
「もっと早く会いに行け!!」
「ごめんなさい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます