第83話 嘘のない二人 1



 二十二時四十五分。

 家から出て、夏の夜の空気で思い切り肺を満たした。

 肺が膨らむとちょっと前向きになれる気がする。

 先生の家の住所を入れた地図アプリを立ち上げ、案内に従って歩き始めた。

 胸中はもちろんかなり騒がしい。でも、夜更けに近い住宅街はとても静かだ。


 いつもの先生との分かれ道にたどり着き、何度か見送った背中を思い出しながら、今夜は自分もその道を選ぶ。

 久しぶりに通るな。中学生か、小学生以来かもしれない。

 真新しい家や表札に目をやりながら、少し落ち着いてきた俺は、今日のお祭りのことを思い出していた。



 打ち上がる花火を見ながら、菊池と熊田にも先生の話や、中学の頃の話をした。

 菊池はちょっと泣いていたし、熊田はいつもよりもずっと無口だったけど、話し終わると、「いい先生だな」と言ってくれた。

 俺が告白したことを後悔していると言うと、菊池は、「迷惑だなんて思うことないよ」と言ってくれ、熊田は、「次ははっきり好きって言っとけ!」と、先生の姿を見ただけで泣いた俺をいじった。



 角を曲がったところで、ぽこっとメッセージが届いた。

 田中から、俺が怖気づいて先延ばしにしていないかの確認だ。考えを見透かされて笑うしかない。

 酔っぱらった母さんに家から出されたと送ると、大笑いのパンダのスタンプが貼られて、頑張れよと励ましが届いた。



 夏の夜空はよく晴れていた。星も幾つも瞬いている。

 今日は健人と直とも再会できて、菊池と熊田にもカミングアウトができた。そんな自分史に刻まれるべき一日を思い出したら、もたついていた足取りはずっと軽くなった。



 それなのに。



 案内が終わったそこは、四階建ての集合住宅だった。

 木造じゃないからマンション? アパートなのかな、違いが分からない。

 エントランスを抜けて階段を上がると、三階に着いてすぐの部屋が先生の部屋番号だった。

 ごくっと唾を飲んでいざインターホンに触れようとした時、指がぶるぶる震えているのが目に入って、慌ててドアに背を向けた。


 落ち着け大丈夫、きっと先生は変わらず接してくれる。


 そう言い聞かせるのに、心臓はバクバク鳴って、脚が萎えている。

「あー」

 情けない自分にがっかりしながら、よろよろと玄関前の手すりに寄り掛かった。


 三階ってそこまで遠くが見えるわけじゃないんだな。

 あそこの木が茂っているのがハンノキ公園かな。先生はここから孝一の家の煙を見たのか。

 うちの屋根はわからない。コンビニの緑色の看板があそこで光っているからあの辺かな。小学校はマンションの階段で見えないけど、中学校はあれだ。あそこが子どもに不人気の五号公園で、ちょっと上がったあそこが桜公園。


 これが毎日先生が見ている風景。

 見知った場所なのに初めてのように新鮮だ。


――そのとき、下の方で一斉に木の葉が鳴り、吹いてきたぬるい夜風が汗ばんでいた俺のうなじを撫でていった。


 風が収まると、ふと考えが浮かんだ。

 俺の知ってる先生も、俺がいる場所から見えていた先生なんだ。

 先生が、見せてくれていた姿。

 事実を知らずに過ごした日々をたくさん後悔したけど、いくら一人で考えても、俺が思いつくことは事実とは言えないし、それは先生の側面でしかない。

 そう思いつくと無性に先生に会いたくなった。

 会って先生の話を聞きたい。全てじゃなくても、せめて俺に話したいって言ってくれたことは知りたい。

 それから、きちんとありがとうが言いたい。ごめんなさいも。

 俺はようやく手すりを押してまっすぐに立った。

「よし!」と口にしたその時、誰かが階段を上がってくる音がした。


 え、まさか今帰ってきたんじゃ……。


 狼狽えた俺の前に、ふわりとしたスカートが現れた。


「あ」

「え?」


 現れたのは、以前先生と一緒に歩いていった女の人だった。

 あの日とは違う鮮やかな緑のスカート。でも間違いない。

 その人は俺の上げた声に立ち止まり、不思議そうにこっちを見ている。

 どうしよう、先生に会いに来たのかな。

「どうしました?」

 彼女は俺に声を掛け、その場から動かない。

「いや、あの」

 俺は自分が先生の部屋の前にいることに気が付いて、さらに狼狽えてしまった。

「あの! 俺はすぐ帰るので!」

 脈絡のないことを口走って、彼女の表情に困惑が浮かんだ。

 ああどうしようこれじゃ不審者だ。



 ――ガチャ。



 突然ドアが開いて、視線がそっちに取られた。


「高瀬」


「あ」


 先生。

 紺色のポロシャツ姿の先生を目に映した瞬間、狼狽は緊張に変わった。

「ああ、中屋さんのお知り合いですか」

 急に明るい声が廊下に響いて、彼女に目を戻す。

「ええ。外崎さんは飲んでいらっしゃったんですか?」

 先生が外崎と呼んだ女の人は、よく見ると確かに顔が赤い。

「お祭りですもん! 外で飲むビールは最高です!」

「それは良かった」

 二人がもたらした和やかな空気が俺を包んで、女の人が俺と先生の間を抜け、二つ向こうのドアにざくっと鍵を刺した。

「それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 ご機嫌な様子で手を振られて、俺は慌てて、「おやすみなさい!」と深く頭を下げた。

 ドアが閉まり、カチャと鍵がかかる音がして、再び廊下は静かになった。


「いつからそこにいたの?」

 ギクッとしてそろそろと顔を上げると、そこには先生の笑顔があって、俺はもう覚悟を決めるしかなかった。

「今、ついたとこ」

 いきなり嘘をついてしまった自分にしゅんとなる。

 あーもう!! しっかりしろ俺!!



 奮い立たせた意気込みは、先生の何もない部屋に入った途端、一目散に逃げ出してしまった。



 まず目に入ったのは部屋の真ん中のソファー。それはかつて孝一の部屋にあったソファーを連想させた。でもこの部屋のソファーはただそこにあった。

 前にテーブルはあったけど、正面は壁で、テレビなどはなかった。

 先生が日頃そのソファーに座ってどうしていたのかちっともイメージがつかなくて、俺は落ち着かない気持ちになった。

 左手にあるキッチンのカウンターに寄せられた二人掛けのダイニングテーブル。閉じたノートパソコン。見覚えのある鞄が反対側の椅子に置かれている。

 部屋の奥にある背の高い本棚に詰められた本の背表紙だけがこの部屋の賑わいと言ってよかった。

 灯された暖かな色の間接照明が、あまりにも簡素な部屋を返って寂しげに浮かび上がらせている。

 俺はひどく心もとない気持ちになって、身体が震えて、鼻の奥がツンと痛んだ。


「なにもないだろ」

 先生はカウンターにあったグラスを掴むと、残っていた水を飲み切ってシンクに置いた。

「奥さんの物はご両親が持って行って、残ったものは処分したんだ」

 さらさらとした語り口の先生に、どうしてと聞きたかったけど、声にならなかった。

「見ると辛くてね、引っ越したついでに色々と自分の物も捨ててしまった」


 言わなきゃ。どうしよう、たくさん言おうとしていたことがあったのに、知りたかった先生のことなのに、いつも静かな電話の向こうがこんな風だったなんて思っていなかった。


「泣かせてごめんな」

 慌てて流れた涙を拭う。

 ああ、先生に謝らせてしまった。先生は何も悪くないのに。

「嘘ついてごめん」

 違う、いいんだ先生。こんなに悲しいことを話す必要なんてない。そんなのは嘘じゃない。

 言葉が出てこなくて首を振るしかない。

「傷付けてごめん」

 違うと言う代りに喉の奥から声が漏れて、俺は耐えられず泣き出してしまった。

「ううっ……う……」

 自分の泣き声がますます寂しさを呼んでしまいそうで、何度も呼吸を落ち着けようとするのに、高ぶった感情が積み上げた平静を繰り返し打ち崩してしまう。

 先生の言葉を全部否定したいのに、途切れた音しか出てこない。悔しくて、居た堪れない。

「泣かないで、怒っていいんだ」

 先生の声は少し掠れていて、俺はうっとおしい涙を何度も拭って先生と目を合わせた。

「怒ってなんかない」

「そう? 酷い嘘だろ?」

「違う……俺の方こそごめんなさい」

 それからなんて言えばいい? なんだった? ありがとう? ありがとうなんてくそったれだ!

「高瀬が謝ることなんて一つもないよ」

「違う」

 頭を振って下を向くと、すぐに眼球に涙が溜まって視界がぼやけた。

「先生は嘘をついたんじゃない。俺のために言わなかっただけだよ。俺がバカなんだ……あんな時間に公園で会ったのに……なんにも……」

「高瀬」

 先生の声に呼ばれて、俺はたくさん首を振った。

 ありがとうなんて言えるわけないんだ。ごめんなさいだけ。

「悲しい嘘つかせてごめんなさい。今までずっと、ごめんなさい……」

 ひとりぼっちだなんて自嘲して、八つ当たりして、取り繕う言葉で先生に嘘を吐かせた。一年も。

 涙を床に零さないように何度も手で拭った。それでも涙は溢れてきて、うっとおしくて、バカな自分と一緒に拭い去ってしまいたくて、ごしごしとシャツで目を擦った。

「ごめんなさい先生……」


 ついにしゃがみ込みそうになった身体を覚えのある匂いが包み込んだ。

 背中に回った温もりが先生の腕だと気が付いて、鳩尾の辺りで深くため息が出た。

「先生、離して」

「嫌だ」

 身体を伝って声が響いてくる。

 断られるとは思っていなくて、さらに強くなった抱擁に息が詰まった。

「会いたかったよ」

 思いもよらない言葉が聞こえて、瞼が瞬いた。

「……どうして?」

「高瀬に会えないと、寂しい」

「……」

 背中を摩られて涙がまた溢れて、顎先で先生の服を濡らしている。

「どうして?」

「どうしてかな。高瀬が泣き止んで、ホッとしたらわかるかもね」

「そんなこと言われても、泣き止めるかわかんない」

 先生の身体が揺れて、「困ったね」とまた背中が摩られた。

 どうしよう。

 ごめんなさいって涙が出てるのに、先生の匂いや体温が鼻先をくすぐってくる。さっきの女性がご近所さんだと分かって、俺の心にはまた都合のいい妄想が浮かんでしまう。本当に自分がどうしようもなくて嫌になる。

「うっ……うっ……」

 また泣き出した俺に、先生は腕を解くと手を引いてソファーに座らせた。

「はい」

 先生が箱から引き抜いたティッシュを渡してくれる。

 貰ったティッシュで鼻を噛み、次のティッシュで涙を拭った。それを二回繰り返して、手に持ったティッシュが団子になった。それでもまた涙が落ちた。

「どうしたら泣き止める?」

「……わかんない」

 ティッシュ団子で目を拭っていると、「ちょっと待ってね」と先生は立ちあがってキッチンへ行った。

 涙を拭きながら見ていると、先生はチラシを一枚持って戻ってきて、それをテーブルの上に置き、俺を見てちょこっと笑うと、迷いなくパタパタと折り始めた。

 なにをしているのかと見ていたが、できたのはゴミ箱だった。

「はい。これにティッシュを入れて」

 手に持たされて、俺はがっくりと項垂れた。

「どうしたの?」

 とぼけた声で聞かれて肩が震えた。

「だってこれ、おばあちゃんの家にあるやつ」

「そう、祖母が折り方を教えてくれたよ。たくさん作っておくと便利だよね」

「ああもう……」

 どうしてこの人はいつもこうなんだ。

 泣きじゃっくりに笑いが混じって、揺れる背中を先生が摩ってくれる。

「チラシでくず入れを作ったら泣き止むなんて、高瀬は変わったやつだな」

「先生がずるいんだよ」

「ずるいってどうして?」

 本当に分からないという顔をされて、俺は顔を覆ってしまった。

「はぁー」

「大丈夫?」

 不思議そうに顔を覗かれて、ついに気持ちが溢れてしまった。


「大丈夫じゃない! 言いたいこと全部忘れちゃった! どうして先生はいつも俺の問題を簡単になんでもないことみたいにしちゃうんだよ!!」


 突然癇癪を起した俺を先生は引き続きとぼけた顔で眺めて、「問題なんてあった?」と首を傾げる。

「なに言ってんだよ今話してたろ! 俺が悩んでたせいで先生に嘘つかせて、色々無神経なことも言ったと思うし、しまいには好きになって告白までしちゃった!!」

「告白?」

「とぼけないでよ!!」

 怒鳴ると先生は笑って俺の隣に座った。

「気持ちを伝えてくれて、嬉しかったよ」

「嘘!」

「本当だよ。ぎゅーってしたのに分かんなかったの?」

「そんなのっ……わかんなかった!」

「そっか」

 よしよしと肩を摩られて、癇癪を起した自分に早くも後悔が湧いてくる。でも、涙が止まらないほど苦しかった感情は魔法のように消え去って、残っているのは先生のことが大好きな、すぐに都合のいいことを考えてしまう俺だけになった。

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