第80話 母
家に帰ると、リビングから母さんの声が聞こえた。
「おかえりー、父さん?」
「俺だよ」
返事をして真っすぐ洗面所に向かった。
「俺だよって、詐欺じゃないんだから」
くすくすいう笑い声を聞きながら、前に先生ともこんなやり取りをしたことを思い出した。
手を洗いながら鏡を見ると、映った自分はどう見ても泣き顔で、急いで顔も洗った。
「田中君の家の夕ご飯なんだったー?」
「バジルソースのチキンソテー」
「えーいいなー美味しそう」
「今度作ってね」と洗面所に顔を出した母さんに、タオルで顔を拭きながら頷く。
母さんの顔を見ることはできず、「なんか疲れたから横になるね」と、リュックを持って横をすり抜けた。
「祐希?」
不思議そうに呼ばれて、「大丈夫だよ」と、振り返らずに階段を上がった。
ドアを閉めて寄り掛かると、背中の向こうで足音が階段を上がってきて、ドアをそっと叩いた。
「祐希、母さんにはわかる」
「なにが?」
「泣いてたでしょ」
「泣いてないよ」
「ダメよ、分かるの」
やっぱりわかっちゃうんだ。
「ちょっと、一人になりたい」
「本当に? 一人で泣いたらうまく行く? そんなことこの世にある?」
母さんの言葉で笑ってしまった。笑ったのに涙が溢れた。
「なんで泣いてるの? 全部言わなくてもいいから、一人で抱えないで」
覚えのある言葉にまた涙が落ちた。
もう駄目だ。もう駄目だった。
涙も拭かずドアを開けて母さんを見下ろした。
母さんってこんなに小さかったっけ。
「よかった、出てきた」
そう言って腕を伸ばした母さんは、泣き顔の俺の頭をよしよしと撫でた。
「はい、お茶」
「ありがと」
暖かいお茶が喉を通って体に沁みていった。
外を誰かが歩いている。詳細の分からない会話が窓の向こうから聞こえて、すぐに静かになった。
「俺、ゲイなんだ」
窓を見たままの俺を母さんが見たのが分かった。
「男の人が好きってこと?」
俺は頷いた。
「中二の時、孝一が好きで。好きっていうか、特別な気持ちになるっていうか。それで、自分がそうなのかもって思ったら怖くなって、サッカーができなくなった」
避けられるものでもなかったのに、とにかく逃げ出したかった。あの時はあれが精いっぱいだった。
「うん」
母さんはただ頷いた。
「高校では普通でいようって決めて、女子とも男子とも同じくらいの距離感でやり取りしてたつもりだった。でも知らない子とか、友達って思ってた子から告白されることがあって、周りからは付き合ってみたらいいじゃんって言われるんだけど、もうその頃には女の子は違うって感覚があった。告白を断ったら次の日からよそよそしくなって、連絡も来ないし、することもできない。友達が居なくなるみたいに思った」
「うん」
「男のことはさ、あんまり詳しくは言わないけど、異性みたいな目で見る」
「うん」
「苦しかった。嘘をつかなきゃならないのも、知られるのも怖かったし、そんな自分が普通じゃないみたいに思った。自分だけじゃないのは分かってるけど、自分だけ間違ってるみたいで。そしたら、あんなことが起こった」
静かな空間で、手元のお茶の湯気だけが揺れている。
気が付くとあの日も、過去のどの記憶とも変わらない数枚のスナップ写真のようなものに変わっていた。でも、あまり見返したいページではない。
「一年の終わり頃が一番きつかったかな」
「時々夜に出かけてたね」
驚いて顔が上がった。
「……気付いてたんだ」
「まあね」
母さんが小さく笑って頷くのを見て、俺は何故かホッとした。
「眠るのが嫌だったんだ。明日がくるのが。春休みが明けるのが。そしたらさ、先生に会った」
「先生?」
「中三の時の担任の先生」
「ああ、中屋先生?」
「覚えてるんだ」
「もちろんよ」
母さんは何度か確認するように頷いて、「祐希の進路とか、サッカーのことで時々電話をもらったことがあった」
「そうなの? なんて言ってた?」
「あなたが教えてくれないことよ。特待生とか、辞めるとか」
「先生が言ってたんだ」
まあそうか、担任だったんだし。
「短絡的に決めたことじゃないと思いますって言われたの。理由はあると思うけど、問い詰めたりすると、ますます言えなくなってしまうかもしれないし、それよりも居場所がないように感じることが一番良くないのでって。この会話はすごくよく覚えてるの。いい先生だって思った」
また涙が出そうになって、何度か俯いた。
「それで、先生に会って何を話したの?」
「ゲイだって言った。サッカーを辞めた理由だってことと、高校でのことも話した。そしたら一人にしてごめんって、何かあるのは分かってたのにって泣いてくれた。そのあと家まで送ってもらって連絡先を交換して、夜は危ないから、外に出る代わりに連絡するように言われた。それから毎日メールをくれて、そしたらだんだん眠れるようになって、学校が始まってからも、全部先生に話を聞いてもらってた」
「そんなに良くしてもらってたの」
涙っぽくなる目を何度が瞬かせて頷く。
「友達ができて、ちょっとずつ仲良くなって、フットサルも始めた。でも時々落ち込むことが起こるんだ」
「どんなこと?」
「色々あるけど、置いていかれるような感じがするんだよね。色々経験する年頃だからさ」
「そうよね」
「でも先生と話すと大丈夫になる。なんでも前向きにしてくれる人なんだ」
「そう」
笑顔になる母さんに、俺も笑顔を返した。
息を吸って、話の続きを組み立てていく。
「毎日が楽しかった。ちょっとくらい凹んだって先生がいるって思ったらなんとでもなった。合わない人がいてフットサルを辞めたあとも、すぐバイトと料理を始められた」
「そういう理由だったんだ」
「うん。でもさ、秋ごろから先生がちょっと変だったんだ。俺に凄くいいストールをプレゼントしてくれた」
「あのブルーのやつね? 先生がくれたの」
「うん、実はそう。首が寒そうだからって、気まぐれみたいに。そしたら誕生日には手を握ってくれた。孝一が彼女連れて来たからさ」
「ああそうだった。そっか、あれはちょっと辛いことだったのね」
「うん。多分それで先生も手を握ってくれたんだと思う。ぎゅーってハグもしてくれて、色々あったけど、よく頑張ったねって言ってくれた。凄く嬉しくて、正直ちょっとドキドキした。でもそんな風に考えたらいけないって思った。だって奥さんがいるし。先生はゲイじゃない。それで、その後から連絡ができなくなった」
「どうして?」
「好きになりそうだったから」
「……そっか」
「孝一とは友達になれた。先生とも友達になりたかった。ずっと今まで通りの関係がよかった。でも会えないと凄く寂しくて、一人ぼっちな感じがした。そしたら様子がおかしかったのか田中が気にしてくれて、菊池と林さんが付き合った日に、田中にもゲイだって言った」
「ああ、あの日?」
「うん。母さんがパンをたくさん買ってきた日」
「覚えてる」
「田中は凄く気を遣ってくれて、ずっと一緒に居てくれた。人に支えてもらってばっかりだなーって思ったけど、これで先生とも友達でいられるかもって思ってた。そしたらある日、先生がバイト終わりに会いに来た。話があるって言って。でも俺、なんかすごく泣けてきて、そしたら先生が抱きしめてくれるからさ、それでつい――」
「好きって言ったの?」
「俺の気持ちわかる? って聞いた」
「先生はなんて?」
「分からないから大丈夫って」
「……そう」
母さんの目が伏せられるのを見て、微かにあの日の気持ちが胸に過ぎる。
「振られたんだって、それで終わりだった。そう思ってた」
「違うの?」
口が渇いて、お茶を啜った。
「ゴールデンウィークに孝一がバイト先に来て言ったんだ。先生の奥さんが亡くなってもう二年だって」
「え?」
「先生の奥さん、俺が中学卒業してすぐに事故で亡くなったんだって」
母さんは何も言わないで俺を見ていた。
「二年前の、ゴールデンウィークに亡くなってるんだ」
「……そうだったの。ごめんね、私ママ友付き合いが無いから全然そんな話知らなかった」
「変な角度から罪悪感持ちこまないでよ」
「でも……」
「ちゃんと連絡来てたんだ。クラスのチャットグループで、みんなでお花を贈ろうとかそういう会話をしてた。でも俺は見なかった。中学の頃は人と違うことで色々とモヤモヤしてたし、高校ではあんなことがあって、知らない人からたくさん連絡が入ってきたりしてたから、見ないようにしてた」
「自分を守ってたんだからしょうがないわよ」
「……俺、先生とほとんど毎晩連絡してたから、時々申し訳ないよなって思って、俺ばっかり構ってたら奥さんに怒られるよとか、こんな時間に電話して奥さんに文句言われちゃわない? とか言ってた。先生はいつも大丈夫だよって。俺は甘えて自分の話ばっかりして、先生にそんなことが起きてるなんて思ってもいなかった」
涙が二つ落ちて、テーブルに丸を作った。
「どうしてかな……」
涙を堪えて痛む喉から言葉を絞った。
「祐希が気を遣って話せなくなると思ったんでしょうね」
母さんは俺と同じ答えを出した。
「俺のために嘘つかせた。俺の居場所を作ってくれるために。謝りたいけど怖くて会えない」
「どうして?」
「だって俺は先生に会いたい。ずっと寂しい。離れたら孝一は忘れられたのに、先生にはずっと会いたくてしょうがないんだ」
涙が止まらなくて、肩で何度も拭った。
「今も先生が好き?」
「うん。でも一番大好きな人に一番つらい嘘、一年もつかせた」
「田中君はなんて言ってた?」
「……嘘を吐いてた先生にも罪悪感があるだろうから、会って謝って来いって。お礼も言って、そしたら先生の嘘も報われるからって」
「そうね、それがいいわね。答えが出たのにどうして泣いて帰ってきたの?」
息が苦しい。喉が引き攣れて痛い。
布団にもぐってミノムシになりたいけど、俺は今すぐに絶滅したい。
「……さっき、前を走ってたバスから先生が降りて来たんだ」
「え?」
「女の人と一緒に歩いて行った」
「……恋人ってこと?」
「そんなのは分かんない。でも凄く悲しくなって、泣けてきて、謝りたいって気持ちが消えちゃいそうになって、そんな自分がほんと……嫌になった」
違う。もうずっと嫌だった。
こんなのは田中には言えない。
前に奥さんを突き飛ばす夢を見た自分が、胸の中でもやもやしてる。
「奥さんが亡くなってたって聞いてから、ずっとこの考えを見ないようにして頑張ってた」
「どんな?」
「一瞬。ほんの少しだけ……」
直ぐに見て見ぬ振りをした。たくさんのメッセージと同じように。
でもずっと通知のマークが灯ってる。見なくてもそこにあり続ける。嘘と同じように、身体の弱いところでじっとしてる。
「ストールをくれたこととか、手を握ってくれたこととか、抱きしめてくれたこととか、そんなことを引っ張り出して……」
いつも俺を思ってるって言ってくれたから。ずっとそばにいるって言ってくれたから。特別だって。
「先生にも俺が必要だったのかもって。俺と同じ、ひとりぼっちだったのかもって。もしかしたら……先生のそばに……俺の居場所があるのかもって」
でも違った。分かってたのに。先生は俺とは違うって。先生を追い出した夜にちゃんと理解したはずなのに。
「なんで好きなんて感情があるんだろ。ただ後悔だけがあればよかったのに。こんな気持ちがなかったらもっと! もっと……」
「祐希」
母さんに抱きしめられるのなんて何年振りだろう。
俺、本当に成長してるのかな。
好きって感情が起こるたびにただ苦しくて、色んなことを失っていく。
小さなころには大きく膨らんでた胸の中が、どんどん小さな箱庭みたいになって、そこでじっとしている方が楽だと終着していく。
しゃくりあげる背中を摩ってもらって、子どもになったみたいだ。でもやっぱり話すと楽になる。こんなどうしようもない話でも。
「母さんに言わせるとね」
ぽんぽんと背中を弱くたたかれながら、母さんの声を聞く。
「……うん」
「別に、よくない?」
「え?」
いつぶりかの親子の抱擁が解かれて、母さんがたくさん引き抜いたティッシュで俺の顔を拭った。
「ちょっと都合のいい想像しちゃっただけじゃない」
「でも……先生の大切な人が亡くなってたっていうのに、そんな風に……」
「そんな風に考えたことを悪だって思ってるみたいだけど、母さんはそうは思わない。どんなことも想像し得る。大事なのは、祐希がそれに罪悪感を感じてるってこと」
「でも、悪い夢も見た」
「夢じゃないの、世界を滅ぼしたって無罪よ」
にこっと微笑まれて、つい安心してしまいそうになる。
涙で濡れたティッシュで鼻を拭った。
「親って倫理観を教える立場なんじゃないの?」
「一瞬考えただけでそんなに落ち込める君に教えることなんてなにも無いわよ」
「それに」と、母さんは自分の椅子に座って、お茶をぐいと飲んだ。
「好きな人が嘘をついてまで自分を支えててくれてたんだもの、嬉しく感じたってしょうがないわよ」
「そう思っちゃうのが嫌なんだよ」
「感情は勝手に出てくる。人間性は、どれを外へ持ち出すかで決まるの。考えただけで罪なんて、想像力を委縮させるだけよ」
「そう言われても、ごちゃごちゃしちゃうんだよ……」
テーブルに置いた手に、母さんの手が重なる。
熱く、重たくなった瞼を上げて、母さんと目を合わせた。
「人を好きになると、みんな都合のいいことを考えるの」
「みんな?」
「そうよ。もれなく全員。間違いなく。だから、そんなに自分を責めないの」
畳みかけるように断言されて、もう頷くしかなかった。
田中の家で飲んだと言うと、母さんがミルクティーを入れてくれた。
「それにしても、その女の人が本当に恋人なのかも気になるわね。先生ご兄弟は?」
「お姉さんがいるって言ってた」
母さんがすっと目を細めた。
「いや、お姉さんって感じじゃなかったよ! 分かんないけど……」
「あんたはちょっと、思い込みが激しい子なのかしらね」
「えっ?」
考える人みたいなポーズで母さんが俺をまじまじと見ている。
「まあしょうがないわよね、一人でずっと考えてきたんだもの」
思い込みの激しい男って、なんかすごくいやなんだけど。
でもそう言われると先生にも色々修正してもらったような気はする。
孝一のこととか、将来のこととか、山下さんのこととか……。
「なんか本当に迷惑しかかけてない気がしてきた。俺、本当に先生に会った方がいいのかな」
「会うでしょ!」
「秒で答え出さないでよ」
「田中くんともそう答えを出したんでしょ? 会おうよ。私も先生に会いたい。会ってお礼言いたい。祐希のそばにいてくれてありがとうって。あんたがまごまごしてるなら母さんが先に会いに行こうかな」
「やめてよ!」
喋って泣いたらお腹が空いて、母さんと焼うどんを作った。
「父さんは?」
「金曜だもの、飲み会だって」
「そう」
二人で焼きうどんを食べて、アイスクリームを食べた。
母さんはソファーで横になってニュース番組を見ている。俺はチョコレートを齧りながら何度かスマホの先生の名前を眺めてみたけど、ふわっと揺れる白いスカートも思い出されて、胸の中は複雑になった。
「ゲイだって父さんに話したらなんて言うかな」
「彼氏がイケメンだといいなって言うと思う」
確かにそう言うような気がする。俺なんで言うの躊躇ってたんだっけ。
「ごめんね、孫抱きたかったよね」
「そんなの全然気にしない。ところで先生ってイケメンだったっけ? でかい! ってイメージしかないんだけど」
ソファーから顔を出した母さんに、俺はついに笑ってしまった。
「かっこいいよ、身長は188センチ」
母さんはキャーっと歓声を上げて、「楽しみ!」と左右に揺れた。
「いや、なんでだよ」
「いいじゃない、息子の好きな人ってだけであがっちゃう」
口から「はあ」と溜息に似た音が出た。
「ところで祐希の好みのタイプって誰なの? 芸能人とか」
「そういう目で見たくないから考えてない」
「えーつまんない。先生はタイプなの?」
「そういう目で見たくないから考えてない!」
「もーーっ! でもまあ好きなんだから、好きなのよね」
うんうんと納得する母さんに、背中がむずむずして堪らなくなった。
「やめてよ!」
「やめないわよ。これからは私はあんたがどんな彼氏つれてくるのかを毎日の楽しみにするんだから」
「本当にやめてほしい」
「逞しくて? 高身長で? イケメン~?」
ようやく親に話せてホッとできたはずなのに、歌うようにからかう母が憎らしい。
「別に筋肉はそこそこでいいから!」
我ながら変なところを訂正している。
「そこそこってなによ。あった方がいいんでしょ?」
「そこそこでいい」
「そこそこは欲しいとも言える」
あ、だめだ。俺が黙らないと。
「先生に会ったらさ、まだ好きってのもちゃんと言っておきなよ」
「なんで?」
「ちゃんと言葉にしたほうがのちのちいいのよ」
のちのちってなんだよ。
「俺が諦められてないって分かったら、迷惑なだけだよ」
「いいじゃない、散々自分の話ばっかりしてきたんでしょ? 話があるって会いに来てくれた先生に、メソメソ告白なんかしちゃってさ」
「メソメソって、人生で初めての告白だったんだけど!」
言い返したが、ソファーの向こうからは笑い声が返ってきた。
「先生の話を聞いておいで。奥さんを亡くしてすごく辛い時に、どうしてそばに居てくれたのか、ちゃんと聞いておいで」
そうだった。
自分ばっかりで、初めにあった大きなヒントを見落としたんだった。あんな時間に手ぶらで歩いていた先生は、きっと元気なんかじゃなかった。
「うん」
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