第79話 先生の嘘
「高瀬」
「……ん?」
「今日、バイト無いんだよな?」
「……うん」
「うち、寄っていけよ」
「……」
「嫌ならいいけど……」
「……分かってるよ。自分が変だって」
「え?」
ギクッとして、身体に痛みが走ったように感じた。
そっと隣の高瀬を見ると、バスに揺られながら授業中と同じように真っすぐに前を見ている。
「ごめんね、気を遣わせて」
そうか……そうだ、高瀬は授業もちゃんと聞いてた。俺たちがそわそわしていることも、ちゃんと見えてたんだ。それでも、この状態なんだ。
思い切って誘って良かったと納得して、自分も前を向いた。
「うん、みんな心配してる。俺も」
「ごめんね」
「そんなんいいからさ、話して楽になるかわかんないけど、俺がなんでも聞くから」
「ありがとう、田中」
俺はその言葉だけでなんだかもの凄くホッとして、早く双葉町の停留所に着かないかと、急かす気持ちで運転手の後ろ姿を見ようと首を伸ばした。
「先生の奥さんがね」
「えっ?」
思いがけず話が続いて、変な声が出た。
「二年前に亡くなってた」
「次は、双葉町、双葉町です」
俺の口は辛うじて呼吸をしていたけど、完全に発声の仕方を忘れてしまった。
「高瀬君こんにちは」
「こんにちは。お兄さん、お久しぶりです」
「おう」
帰宅した俺たちを、母さんと家にいた兄貴が出迎えた。二人とも完全に心配そうな顔だ。
高瀬の言葉で頭が真っ白になったが、帰りながら母さんに、『高瀬を連れて行く』となんとか連絡を入れた。
最近様子がおかしいと話してあったから、今二人はこんな顔をしているんだろう。自分のせいだけど、そんなにあからさまに心配そうにしないで欲しい。
母さんが準備していたらしい温かいミルクティーをお盆に乗せて持たせてくれた。
うちにミルクティーなんてもんがあったのかとびっくりしたが、高瀬への気遣いなのかと思うと、最近よく言いそびれる、「ありがとう」という言葉が自然と出てきた。
「それで、どういうことなんだ?」
部屋のテーブルに向かい合って、俺はできるだけ落ち着いた声を心掛けた。
でも高瀬は沈んだ表情のままティーカップを見つめていて、俺はせっかちになりそうな気持ちを自分のミルクティーを飲みながら抑えた。
高瀬はなかなか口を開かなくて、俺は思考の余談を挟まないよう、なるべく無になろうとした。でも死という言葉は強烈で、俺はじわじわと恐怖に似た感情に侵食されそうになった。
「どういうっていうか、亡くなってたんだ」
ハッとしてしまうほど前触れもなく、高瀬が口を開いた。
「先生は本当に一度も言わなかったのか?」
聞き逃していたとか、言われたけど忘れてしまったとか、普通ならそんなことはあり得ないが、先生と出会った時の高瀬は普通の状態ではなかった。
高瀬は静かに頷いて、まだミルクティーの湯気の立つ辺りを眺めている。
「先生は言わなかったし、俺が奥さんのことを聞いたときも、まるで生きてるみたいに言ってた。もう眠ってる……とか」
それはある意味で嘘でもない表現だとは思った。でも高瀬が生きてると思ってたのは分かっていたはずで、やっぱりそれは嘘でしかない。
「何で……」
俺が呟くと、高瀬は疲れたように瞼を指先でひと撫でした。
「会った時、俺が凄く落ち込んでたせいだと思う」
「初めに会った時にはもう?」
高瀬は揺れるように頷いた。
「会ったのは春休みに入って割とすぐ。亡くなったのは、その前の年の五月の初め」
先月が命日だったという事実が、たった一度見かけた姿に繋がって胸を押した。
奥さんが亡くなってもう少しで一年というときに、あの事件で落ち込んでた高瀬に会ったのか。
「俺は気が付かなかった。ずっと、考えもしなかった」
「そんなこと考えないだろ」
目の前で気力なく語る高瀬を慰めたい気持ちはあるが、好きになったからと距離を取った時でさえ上手く寂しさを理解してやれなかったのに、もうこれは俺の理解できる範疇を超えている。
案の定、高瀬は小さく首を横に振った。
「真夜中だったんだ。田中に言われるまで、何で先生があんなとこに居たのかも考えなかった」
俺は黙ってしまうしかなかった。
しょうがない、高瀬は落ち込んでた。あの出来事は衝撃だった。あんなのは俺だって耐えられる気がしない。ゲイじゃない俺には、それ以上に衝撃だっただろう高瀬の心中は想像もできない。それはきっと先生だって同じだったはずだ。
「たくさん嘘吐かせた。奥さんにって、修学旅行のお土産を渡したりして」
「でもそれは、先生が言ってくれなかったからだし」
「俺が言わせなかったんだよ」
「え?」
「言ったら、俺が先生を頼れなくなるって思ったんだと思う」
「それは……」
そうかもしれない。
俺には高瀬の悩みの深さは分からないけど、死ぬというのは悩むことすらできなくなるということだ。先生は俺が想像していたよりもずっと若い人だった。奥さんだって若かったろう。高瀬が知ったら、きっと先生に余計な心配を掛けないよう相談なんてしなかった。
そしたら高瀬は一人であの事を抱え続けて、ゲイだということも誰にも言わずに二年生のあの教室に座っていたんだ。
俺たちがいただろって、言えるならよかったけど、菊池たちは今も高瀬がゲイだという可能性を見つけられていない。俺だって二人を見かけなければ想像もしなかった。
ようやく高瀬がミルクティーに手を伸ばした。
両手でカップの縁を持って、子どもが飲むみたいにゆっくりカップを傾けながら、後戻りせずに全て飲み切って、空になったカップを少し寂しそうに眺めた。
「もっと飲むか?」
高瀬は静かに首を横に振った。
「それで、高瀬はどうしたんだ?」
「どうしたって?」
「先生に連絡したんじゃないのか」
見開いた視線が大きく彷徨う。
「……してない」
「え、何で? 知ったんだし、お悔やみを言うとか」
高瀬ならそうすると思ったから驚いた。いや誰だってそうするだろう。好きな人なら余計に心配なはずだ。
確かに、自分のために事実を伏せて、それどころか生きているようなふりまでさせていた可能性を考えたらこんなに落ち込むのは分かる。でも知ってしまった。
「俺……」
「うん」
高瀬の表情がどんどん陰っていく。
「先生に……振られてるから」
「は?」
思わず力いっぱい言いそうになった一文字を何とか小さく抑えた。
高瀬は俯いて、とても顰めた声で二月の告白の話をした。
それは、俺にはギリギリ告白だと思えたが、熊田あたりは、「好きって言ってないじゃん」くらいは言いそうなほど、なんと言うか、繊細なやり取りだった。
「……それから先生には?」
「会ってない。連絡もしてない。だって振られたから」
「でも先生は告白じゃないことにしてくれたんだろ? それは高瀬との関係を続けたかったから、だよな……」
だんだんと言葉が消えてしまった。好きと言わなかったとはいえ、二人にはちゃんと告白で、お断りだったと分かっているんだから、高瀬が連絡を取れなくなったのもしょうがない。
「でもそれは俺のためだ。俺は先生を困らせるって分かってて、それでも言っちゃったんだよ。俺は先生が……」
高瀬は好きという言葉を言わなかった。
「……絶対ダメだったのに」
消えそうな声、瞼が震えている。
先生も分かったんだろう。ハッキリ好きと言わなかった高瀬の、止められないぐらいの気持ちと、精いっぱいの自制心を。
先生はどうして泣いてる高瀬を抱きしめ続けたんだろう。好きな人にそんなことされたら忘れられなくなる。高瀬がそうならそれこそ……いや、そうだから躊躇わなかったのか。
「ありがとうって言う代わりに、抱きしめててくれたのかな」
俺が想像を口にすると、高瀬の目から涙が落ちた。
涙は降り出した雨みたいにどんどん溢れて落ちて、俺はそれをオロオロと眺めた。ついに小さく声を上げて泣き出した高瀬に、俺は完全に固まってしまった。
「先生に会いたい」
ああ、こんな風に人を好きになりたい。
場違いにもそんなことを思ったら、俺まで泣けてきた。
男二人でメソメソ泣いていると、怪奇現象みたいに音もなくドアが開いて、キルトを掛けられたお茶のポットとクッキーの乗ったオボンが差し入れられた。そこへ瓶に入ったキャンドルが置かれ、火がつけられてドアが閉まった。
室内に濃厚なフルーツの甘い香りが漂って、俺はキャンドルをテーブルに置いて、ミルクティーのお代わりを二人のカップに注いだ。すると高瀬が急にクスクスと笑い出して、俺はギョッとした。
「良い匂い」
泣き濡れた顔で言った高瀬は、おもむろにティッシュを三枚抜き取ると、思い切り鼻をかんだ。俺は笑ってしまった。
「田中って共感性高いの?」
ミルクティーを啜る高瀬が、カップの上から濡れた目でこっちを見た。俺は少し恥ずかしい気持ちがしながらクッキーを頬張る。
「高瀬が子どもみたいに泣くからだよ」
「デカい図体で子どもみたいに泣いてごめんね」
「いいよ。でも、それだけ好きならもう一度ちゃんと会っておいた方がいいと思うぞ」
高瀬はカップを置いて縁を撫でながら、唇をむにむにとさせている。
「好きだから、会うのが怖いんだよ」
「怖いってなんで」
「好きって気持ちがあるのに、ちゃんと謝ったりできると思う?」
「俺は、謝るのは先生もだと思うから」
俺の言葉に高瀬はショックを受けた顔になって視線を下げてしまった。一方俺は泣いてスッキリとして、思ったことを言おうと開き直った。
「凄く優しい人だと思うよ、高瀬のことを考えてくれてたんだろうなって思う。でも、嘘がわかった時に、こうやって高瀬が傷付くのも先生は分かってたはずだろ?」
「……ずっとこのまま、知らないふりしてた方が良いかな」
「何で?!」
ついボリュームを上げてしまって高瀬を驚かせてしまった。
「何でそうなるんだよ」
「だって、俺のために言わなかったんだとしたら、それなのに先生に謝らせることになるなんて」
「いやそうじゃなくて! 先生にも罪悪感はあるだろって話! 会って、知ったことを話して、自分のために嘘吐いてまで支えてくれたことに感謝を言うんだろ?」
「……そっか」
「そしたら先生の嘘だって報われるし、先生も嘘が無くなって、これ以上罪悪感を感じずに済む」
「そう……かな」
「会うんだよ」
「会う」
オウムみたいに繰り返す高瀬に心配になる。
「まだ迷ってるとか言うなよ」
「うん」
ぎゅうっと膝を抱えた高瀬は、でかい子どもみたいで少し面白かった。
◇◇
田中の家で夕食をいただいて、七過ぎのバスに乗った。
先生には散々甘えたのに、田中には上手く話すことができなくて、ひと月以上も変な状態を続けてしまった。
でもやっぱり話したら楽になる。やらなきゃいけないことも教えてもらった。
先生に会ってなんて言おう。
会って、謝って、ありがとうって言って……。
でもたくさん嘘を吐かせちゃったな。嘘が辛いって散々先生に訴えておいて。
ああ駄目だ。せっかく田中に前向きにしてもらったのに。
降りる所の一つ前の停留所のアナウンス。
バスが停まって顔を上げると、フロントガラスに別の路線のバスの背面が見えた。
ふとした既視感に、窓の外に目を向けると、前のバスから下車する人影に見覚えがあった。
先生。
思わず立ち上がって前方の手すりにしがみついた。
長身の後ろ姿、見覚えのある鞄。先生だ。
丁度開いたバスのドアから自分も降りようとしたその時、立ち止まった先生が誰かに呼ばれたように顔を右に向けた。
暗がりに、光るような白いスカートがふわりと揺れた。
先生の隣に女の人が並んだ。顔を傾けあって、一緒に歩いて行く。
巻かれた髪とスカートが、弾むように揺れている。
見上げる眼差し、見下ろす眼差し。
走り出したバスが二人から離れ、俺は自分のスニーカーを見ていた。
止めろよ。泣きたくなるな。
なんなんだよその涙は。なんの涙だよ。
止めろよ。泣くな。
先生も一人だと思ってた?
先生が一人だって、俺のものにはならないよ。
先生が一人じゃなくてよかっただろ?
俺だけ支えてもらってたんじゃなかった。ちゃんと先生のそばには、先生を一人にしない人が居てくれてた。
よかった、よかった! よかった!!
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