第77話 安全な浜辺



 事故現場は本当になんでもないところだった。

 ほとんど毎朝走っていた。

 河川敷の半ばにある遊歩道を行って折り返して、たったひとつ、この横断歩道を渡って帰ってくる。

 信号を見落としたにしても、そこまでスピードが出るような場所には見えなかった。

 作ってもらった花束から白い百合を一本抜いて、阿部くんがしたように信号の下に手向けようかと迷ったが、河川敷に座って隣に置いた。


 事故から二年が経った。

 連休が明け、毎日は夏に向けて気温を上げつつある。

 休日の午前九時。遊歩道を行く人は少なくない。

 犬の散歩や、夫婦で歩くお年寄り、全身を同じメーカーのウェアで揃えた色黒の男性が気持ちいいスピードで走り過ぎていく。

 絵美のランニングはもっぱら早朝だったけど、前日が遅かった休日には、ゆっくり眠ってこれくらいの時間に走ることもあった。

 俺も何度か一緒に来たけど、スピードについて行けなくて殆ど散歩だった。

 

 不意にぼんやりとした絵美の後ろ姿が浮かび上がった。

 澄んだ早朝の空気の中を一定に鳴る衣擦れの音。腕と脚が忙しく動いて、リズムよく走っていく。

 あと少しではっきりとした映像になりそうだ。

 息を潜めてじっとする。イメージが逃げていかないように。 

 キャップの下の短い襟足。黒髪をいつも同じショートボブにしていて、それがよく似合っていた。

 あの活力がどこにしまわれているのか不思議なほど身体の線は細く、全部が腕の中に納まって、でも抱き上げると見た目よりも重たい。

 いつもどこか嬉しそうにしている薄い唇、黒目の濃い真っすぐな瞳。


 部分的な映像は、どれだけ注意を払っても全体にピントが合うことはなかった。

 置いた百合の花を手に取ると、強い香りが全てを曖昧に戻して、少しホッとした。


 また遊歩道に目をやった。

 この中にも一人くらいは絵美を覚えている人がいるのかもしれない。きっと俺の記憶はその人と同じくらいぼんやりしてるんだろう。


 スマートフォンが鳴って、見ると絵美のお母さんだった。

「もしもし」

「櫂くん? 今日は何時頃に来るの? お昼はお蕎麦と天ぷらだけど、間に合う?」

「はい、ご馳走になります。お昼までに着くようにします」

「分かったわ」


 立ち上がって輝く川面を眺めた。

 ここへ来るのに二年も掛かった俺を笑うようにキラキラと太陽を反射して揺れている。

 掠れた記憶と後悔ばかりが巣食う心を千切ってあそこへ捨ててしまいたい。川はそれを容易く飲み込んで、またすぐにキラキラと輝くだろう。

 




「お父さん、お蕎麦美味しかったです」

「いやあ、人にごちそうできるまでに随分かかったよ」

「そうなんですか?」

「そうよ、初めはぶつぶつ切れて啜れなかった」

 お母さんがキッチンで笑った。

「まさか手作りのお蕎麦をご馳走になれるなんて思ってなかった」

「何かに集中してないと落ち込んじゃうから、色々始めさせたの」

 なるほど、自分にも覚えがある。

「蕎麦打ち以外に何を始めたんですか?」

 訊ねると、お父さんは目を細めてお母さんと目配せをした。

「付いといで」

 くすくす笑うお母さんの声をキッチンに残して、嬉しそうに立ち上がったお父さんについて奥の部屋に向かった。


 お父さんが手を掛けたのは二人の寝室のドアノブだ。

 一体何を始めたって言うんだろう――。


 ドアを開けた瞬間、水音とモーター音が耳についた。

 カーテンが引かれた薄暗い部屋に足を踏み入れると、かつてあったはずのベッドは無く、代わりに横に大きな水槽が三つ、クリアなライトに照らされて俺を迎えるようにコの字型に並んでいた。

 俺は言葉も発せられず、真ん中に立って身を屈め、一つ一つの水槽を眺めた。


 濃淡のある美しい水草や流木がバランスよく配置され、作り込まれた景色の中を色の綺麗な小魚が、身をひらめかせて泳いでいる。

「どうかな」

「綺麗です」

 語彙を失ってしまうほど、どれも凝り性のお父さんらしい完成度だった。

「アクアリウムを始めてみたんだけど、やっぱり生き物を入れたくてね、選びに行ったら種類が多い多い。つい水槽が増えてしまった」

 お父さんの楽しそうな言い訳を聞きながら、床に膝をついて目線を合わせ、くもりのない水槽を端からゆっくり鑑賞する。

「良く出来てるでしょ」

 いつの間にか戸口にいたお母さんが、エプロンで手を拭きながら俺の隣に並んだ。

「ええ、とても」



 三人で背中合わせに座って水槽を鑑賞した。

 涼しげな水音。くすみ一つない水槽の向こうには、幾つもの絵美の写真が成長を辿るように壁や棚に飾られている。それらはもちろん俺を切ない気持ちにさせたが、幻想的な水中を舞うように泳ぐ魚の群れが、傾きかけた心を引き留めて、絶妙な癒し空間を完成させている。


「絵美の部屋をどうしようかって話してね、初めはああして壁に思い出の写真を飾ってみたの。でもそれじゃあ寂しいばっかりになっちゃって。凄く静かだし、時が止まってしまう感じがした。それで、丁度お父さんが始めようとしてたから水槽を置いてみようってことになったのね、でもお店の人に相談したら、二階じゃ床が抜けるかもって言われて、二人であれこれ調べてこうなったのよ」

「じゃあ二人の寝室は二階に?」

「そう。ベッドを運ぶのが大変だった」

 お母さんが笑って背中が揺れた。

「水音がいいのか、とても穏やかな気持ちになれますね。水槽のレイアウトも立体的で、それは岩の多い山肌のようだし、あっちは渓流を覗いたみたいです」

「さすが櫂君はよく分かってくれる」

 お父さんの嬉しそうな声が上がる。

「あくまでも部屋のメインは水槽なの。それで、辛くなりすぎない程度に絵美の思い出に浸るの」

 背中に二人の体温を感じた。

 お互いに支え合って、この二年、二人は一度だって娘の死から目を逸さなかった。

 俺はあれからずっと曖昧な記憶を抱えたまま、心に空いた穴を誰にも見せず、自分で見ることもしなかった。

 目の淵が濡れていくのを感じながら、そっと二人に体重を預けた。


「絵美のことが、思い出せないんです」

「思い出せないってどういうこと?」

「声や姿がぼんやりとしてるんです。遺影を見ても、目を瞑るともう思い出せない。一緒に出掛けた場所は思い出せても、その時の絵美の姿や印象的だったはずの会話が出てこない。記憶がそこにあるのはわかってるのに、どうしても手が届かなくて」

「いつからなの?」

「もうずっとです」

 お母さんが息を吐いて俺の左手を握った。

「本当の事を言うと、俺は二年間、思い出せないことを悲しんでたんです。まるで何もなかったみたいに感じられて。実際、結婚してからの二年間はあまり一緒に居られなかった」

「しょうがないわよ、二人とも仕事を始めたばかりだったんだから」

「寂しさや喪失感はあります。でもきっと二人ほどじゃない。だってこんなにも記憶が不確かだ」

 左手が引かれて、お母さんの両手が俺の手を包み込んだ。

「きっと逃げているんです。何もしてやれなかった。結婚した以外には」


 壁に散りばめられた絵美の思い出を見上げる。

 生まれて、笑い始め、床を這い、立ち上がる。

 歩いて、走り出し、ランドセルを背負って、制服姿が二枚。

 海に行き、川に行き、山を登り、空を飛んで海外まで。

 社会人になって、これからだった。これからたくさんの未来が待っていると思っていた。老いた頃には絵美との思い出を壁中に飾れるんだと思っていた。こんな風に。

「もっと一緒に行けばよかった、待ってばかりいないで。あの日だって俺は、ただ眠っていた」

 壁には俺がいた。絵美との結婚写真。何の不安もなさそうな、無力な子どものような顔をしている。

「ごめんなさい」

「謝ったりしないでいい」

 お父さんの声は厳しかった。

「絵美が選んだ。俺もだ。俺は櫂君に後悔してない」

 まつ毛に引っ掛かっていた涙がぽつっと落ちた。

「櫂くん、絵美はね、一人の家に帰るのが嫌いだったのよ」

 お母さんの柔らかな声が俺を呼んで、手の甲が励ますように摩られた。

「一人暮らしを始めてからもよく家に帰ってきてた。誰もいない家に帰るのは寂しいって言って」

「そうだった」

 お父さんの背中が揺れた。

「でもある時からそんなこと言わなくなった。ちょっと寂しかったわ。あんまり帰ってこなくなったから。でもあなたを連れて来たときに分かったの。絵美がびっくりするくらいおしゃべりになってたんだもの」

「おしゃべりじゃなかったんですか?」

 俺の印象では話し出したら止まらないタイプだった。

「小さい頃はおしゃべりだったけど、人は興味のない話を聞かされるとうんざりするって学んでからは、どっちかっていうと無口だったのよ。あの子こそ自分の興味以外には関心が無い子でしょう? 聞き役があんまり得意でもなかったしね。それがあんなにおしゃべりになった。あなたがうんうんっていつまでも聞いてあげてたんでしょ? 私にするみたいに」

「二人とも興味深い話題が多いから」

 お母さんも、そしてお父さんも笑って、三人の背中が揺れた。

「絵美は俺が好きなように育てたから、正直結婚は無理かもしれないと思ってたんだ。我が娘ながら少し活発過ぎたからね。奇跡的に同じくらい活発な相手が見つかれば、なんて思ってた。だから絵美が君を連れてきた時は意外に思った。でもなんだろうな、同志が現れたような気がしたんだ。母さんが言うように、思春期頃に減った口数が元に戻って、嬉しかったよ。俺たちが居なくなっても、絵美があのままでいられるんだと思えた。逃がしてはならないとまで思った。だから俺からも結婚を頼んだんだ」

「そうだったんですね」

「そうよ、どっちかっていうとお父さんが絵美を焚きつけてたわ」

「ぼやぼやしてると取られるぞって言ってな」

 笑う二人の背中に揺らされて、ぱたぱたと涙が胸に落ちた。

「記憶は薄れていく。私たちもよ。寂しいけど、生きていくためには仕方がないんでしょうね」

「さっきも言ったけど、俺は後悔してない。櫂くんは絵美の理解者でいてくれた。それに君は俺たちにとっても永遠に救いだ。愛した娘をありのまま愛してくれた。君の愛情に疑いなんてない。思い出せなくなるくらいに悲しんでるんだから」

 お父さんの手が俺の右の太腿を摩った。


「櫂君は絵美の帰る場所だった。あなたはそういう人なのよ、何時も誰かのホッとする居場所。私にとってもそうよ、一緒に二人の帰りを待ってくれた。一人で待つよりずっと幸せだった。私たちあなたを愛してるの。ここでこうして心を分かち合えるのはこの三人だけ。だから櫂君、幸せになってね。あなたが幸せになると私たちも自動的に幸せになれるようになっちゃったのよ。それから、できたら長生きもしてくれると嬉しいわ」

「はい」





 高校一年の時に初めて付き合った三年の先輩とは、大学生になったら大学生と付き合いたいと言われて別れた。

 次に付き合った同級生は、デートの最中に橋の欄干に二人の名前を書こうとした彼女を止めたら喧嘩になって別れた。

 高三になると同時に付き合った一年生の子は、素直でよく笑う優しい子だったのに、俺は大学が決まった途端、まだ何が変わったわけでもないくせに、急に高校生と付き合い続けることに疑問を感じた。

 きっと高一の時に俺を振った先輩もこんな気持ちだったんだろうと思った。だけど俺は振られた時の経験があったから、教師になるために真剣に学びたいからと言い訳をして別れてもらった。


 次に、俺は疲れた朝香のかりそめの居場所となった。

 学びながら生活のために懸命に働く彼女が帰ってくる夜を俺は待った。

 彼女のために栄養のある太りにくい夕食を作り、無理をさせないように気をつけて抱いた。

 彼女が快感に身を落としていく姿を見ると、言いようのない安心感が得られた。

 でも彼女は俺を恋人にはしなかった。これをアスマに話すと、尽くされることに罪悪感があったんだろうと言った。真実は分からないし、それをあの時に聞いても俺は救われなかっただろうが、彼女がひと時でも安らげていたのならよかったと思う。


 アスマの言うように、俺は安全な場所にいる。

 父が死に、母が元気を取り戻すまでの二年を俺はそこでじっと待った。そこが俺を守る場所だった。いつしか俺は、そこが誰にとっても居心地のいい場所だと勘違いしていた。

 でも彼女たちにも人生があって、夢や憧れがあり、辛くてもやらなければならないことがあった。

 絵美に出会って、俺は彼女の帰る場所になった。

 俺が行くことのない景色を見に行く絵美の帰りを待ちながら、俺は自分の夢や憧れや、やるべきことに取り組んだ。

 やっと自分のありかたを見つけたと思った。でも、絵美は旅立ってしまった。

 もし俺がこの安全な浜辺から海へ出る勇気があったら、絵美について山に登り、魚を釣り、毎朝一緒に河川敷を走っていたら。

 二年経ってようやくそんな後悔をしている。


 高瀬に出会って、俺は生まれて初めてこの安全な浜辺から出ようとした。一人で行かせたくなかった。

 あの夜、公園で俺がした決断は最善だったと思う。きっと何度あの場所に戻ったって俺は高瀬に絵美の死を告げられないだろう。

 約一年をかけて交流してきた高瀬祐希という俺の元教え子は、俺が妻を亡くした寂しい男だと知れば、頼めばそばにはいてくれるだろう。でもきっと自分の悩みや不安を全て語ってくれることはなかっただろう。


 正しい決断がいつも正しい結果に辿り着くなら良かった。

 俺はどうして高瀬のそばに居続けてやらなかったんだろう。居てやりたかったのに。

 

 ――お前にその子が必要なんだよ。

 

 そうだよアスマ、俺に高瀬が必要だった。

 俺は安全な居場所でいたくなかった。触れたいと思った。何度も引き留めた。それなのに罪悪感や心残りを言い訳に、抱きしめたのに見送った。泣いていたのに。漂流船に乗せたまま。



 あれからアスマが連絡をくれるようになった。なんて事のない飲みの誘い。

 高瀬のことは聞かれないが、いつでも聞き役になってくれるということだろう。


 悲しみを告白しても、絵美の記憶は戻らなかった。

 俺は今もまだ後悔を抱え、一人きりの部屋、一人きりのベッドで朝を迎え、一人きりで河川敷に座り、輝く川の水が海に流れていくのを見ている。 

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