第76話 どてっぱらに穴
四月が終わって、ゴールデンウィークに紛れて五月がやってきた。
今日は孝一と彼女がバイト先に来る。
誕生日にバイト先を教えてから行く行くとは言われていたが、ついに「明日行くから!」と昨晩連絡が来た。
たかだかコンビニに来るのに事前連絡は大げさだと思ったけど、彼女と来ると言われても待ち遠しく感じる自分に気付けたのは良かったと思う。
二時過ぎになり、そろそろかなと思いつつレジに立っていると、入店音と共に現れた孝一が俺を見つけて「おっ」という顔で手を上げた。あとから彼女も続いて、ちょこっと頭を下げてくれた。
立夏ちゃん。
心の中で名前を確認して、お決まりの挨拶と笑顔を返す。
先にいた男性客がおにぎりと冷やし中華を抱えてやってきて、レジに通しながら袋の確認をする。袋はいらないらしく、おしぼりと箸を一膳付けて支払いを待った。
男性は支払いを終えると、冷やし中華に全てを乗せ、両手で抱えて退店していった。
「ありがとうございましたー」
退店の音が止むと、店内のCM放送に紛れて二人の楽しそうな会話が部分的に届いてきた。
あの二人はもうアレをすませたのかな。いや、何となくそういうことはまだしてなさそう。分かんないけど。
でもまあ、キスくらいはしてるんだろうな。うん。
白昼堂々こんなことを考えても微笑みを絶やさずにいられる。時が解決してくれるっていうのは本当だ。未来って明るい。
ほどなくして二人がレジに来た。置かれたカゴにはペットボトルが四本と、幾つかのお菓子が入っている。妹たちの分かな。
「彼女連れでのご来店、ありがとうございます」
まあまあ大きめの声で言うと、向こうで松本さんが笑って、二人もタイミングを合わせたように揃って笑った。
きっとこんなことにも苛立ったんだろう。あの頃なら。
「二人とも元気そうだね、外暑かった?」
バーコードを読み込みながら、なんだか店長が常連客に言うようなことを付け足してしまった。
「今日は暑いよな」
「うん。日差しが強くて」
「そっかー。このあとは二人でどこ行くの?」
「おばあちゃんのとこだよ。真結と立夏の妹の美冬ちゃんもいる」
「そうなんだ」
真結ちゃんは時々コンビニに来てくれる。火事のあとからおばあさんの家で暮らし始めたと言っていた。ここからそう遠くないとは聞いたけど、詳しい場所までは聞いていない。
「じゃあ、今夜はみんなでいつもの洋食屋さん?」
中学時代からよく行くと言っていたおばあさんのお気に入りのレストランを思い浮かべると、孝一が、「いや」と急に思わしくない表情になった。
「家に行ってくるよ」
「お支払い方法を選んで……」
定型文が途中で出て来なくなって、孝一の顔を見つめた。
「家が直ったんで売るんだ。離婚も済んで、最後にみんなであの家で食事しようって」
顔を合わせた俺と孝一の横で、立夏ちゃんがスマホで支払いをした。孝一は何も言わずに彼女のカバンにぶら下がったエコバッグを取り、広げたバッグに彼女が品物を入れていく。
俺は二人の日常の一部を垣間見ながら、ペットボトルを寄せて、「そうか」と呟いた。
なんと言って良いか分からなかった。
俺のゲイの始まりの場所が売りに出されるというのは、なんだか少しおかしみも感じられたけれど、孝一との思い出の場所が無くなるのは悲しい。でも、孝一にとっては良くない思い出が多い場所なのかな。
「両親は離婚して、かえって仲が良くなったよ」
「え、そうなの?」
びっくりした俺に、孝一は苦笑いをした。
「今の方が友達みたいにやり取りしてる。お互いの恋人も紹介し合ったんだって。俺からすると全然意味が分かんないけど」
俺にも全く分からない。多分一生理解することのない、宇宙空間くらい上空の話だ。
「夫婦としては上手くいかなかったけど、気は合うんだろうな。まあ一度は結婚したわけだしさ。真結と拍子抜けした。さっさと離婚してたら家も燃えずに済んだのにって真結が言ったら、笑ってたよあの人たち」
俺はまた返事に困って孝一の顔を眺めた。
表情には呆れがあったけど、安堵感も見えた。そうだ、悪い思い出ばかりなはずがないんだ。だから孝一はあんなに怒っていたんだから。
「いい人に住んでもらえるといいな」
「え?」
今度は孝一が驚いた顔をした。
「俺の思い出の場所でもあるしさ」
「ああ、そうだな」
孝一はすーっと息を吸って何度か頷いた。
「じゃあ今日はおばさんの手料理か」
「うん、張り切ってたよ」
面倒臭そうな声色を出しておいて、孝一は嬉しそうに笑った。俺はそんな孝一を気兼ねなく笑った。
「そういや、中屋先生は元気か?」
パッと表情を変えた孝一に、心臓がドキッと鳴った。
「えっ?! ああ、うん!」
しまった、急に先生の名前を出されて慌ててしてしまった。
「最近は、あんまり会ってなくて」
動揺を覚られないよう首を傾げつつ笑顔を作る。
「もう二年か、早いよな」
そう言って孝一は視線を漂わせ、思いもよらない顔になった。酷く痛々しそうに眉を寄せ、唇をきつく結んでいる。
二年? 二年ってなんだ?
卒業してからってことかな。それってそんな表情になるほどのことか? 時が経つのは早いけど、孝一は先生が担任だったわけでもないのに。
俺が心中で首を傾げていると、孝一の隣で立夏ちゃんも神妙な顔をしている。
えっ? なんだよ二人とも、どうしたんだよ。
「奥さんを亡くして翌年すぐ学校変えたって聞いた時、先生らしいなって思った。周りに気を遣わせたくなかったんだろうって。担任じゃなかったけど、いい先生だった。試合にもよく来てくれて、男女問わずみんなに人気があったしさ」
孝一は目を伏せたまま、日に焼けた腕でお菓子と飲み物の詰まったエコバッグを持った。
立夏ちゃんがチラッと俺を見たのが分かったけど、俺は自分が今どんな顔をしているか分からなかったし、身動きひとつ取れなかった。
すっかり変わってしまった空気を来店音が破って、若い女性が二人、ケラケラと笑いながら入ってきた。
「あ、じゃあまた来るわ! 仕事頑張って!」
孝一は手を上げ、彼女と店を出て行った。入れ替わりに入ってきたスーツ姿の男性客が真っすぐレジまで来る。
「205」
「はい! 205番ですね!」
俺は声を張って番号を繰り返し、後ろの棚からタバコを抜き取った。
完全に混乱に陥った俺は、その日を自動運転モードで乗り切った。
一昨年同様、俺を置いて両親は旅行に出かけていた。
連休に一人きりにされた俺は、家でも自動運転モードで過ごした。
あの日から二日、俺はこの状態で過ごしている。
今まで生きてきた十七年間で培った経験から、自動運転モードで大抵の物事にはするすると対応ができた。ところが、このモードでは思考が緩慢になる。無重力空間で藻掻くようにのったりとして、何かを考えるにはかなり苦労を要する。
俺はつまり、それを拠り所としていた。
孝一が放った真実が、過去の多くの景色を大きく変えてしまうだろうことを瞬間的に理解した俺は、思考を肉体から離脱させ、詳細を知ることを回避した。
ただ、そうまでしてもかなり致命的な大きさの穴が俺の体の真ん中に空いてしまっていた。たった一瞬で。
明日で連休が明ける。夕方には両親も帰ってくる。バイトは凌げたが、さすがに親の前でこのモードでいればおかしいと気付かれる。医者に連れていかれるかもしれない。
それでも、思考を身体に戻すのには勇気が足りなかった。
部屋の天井付近で漂いながら刻々と時が過ぎるのを待った。
そろそろ何かを食べなくてはいけない。スマホにも通知が増えている。
身体に戻って明日の準備をして、また毎日を生きなくちゃ……。
そのとき、不意に脳が記憶にアクセスを始めた。
身体に残した最低限の意識が、何かを見つけようとしている。
浮かび上がる印象的なサムネイルをサッと撫でるたび、幾つもの記憶がスクロールされて過去へと遡っていく。
嫌だ、戻りたくない。
訴えるものの、肉体に残った意識の方に決定権がある。
可愛い二人の男の子の歌とダンス、甲田の弟たちだ。
次は心配そうな田中の顔。味気ないカレーパン。
田中は結局佳純ちゃんに謝って、お付き合いはしなかった。
居酒屋、八島さんの笑う声。孝一の家から上る黒い煙、きな臭さ、救急車の音。
冷えた夜道に降りしきる雪。甘酸っぱいクリスマスケーキ。
五感が次々記憶に撫でられていく。その度に、ベッドにある俺の身体は寂しそうに丸まっていく。
だめだ、考えなくちゃ。
先生の奥さんが亡くなっていたことに対する衝撃が穴という形で出現しているのかと思ったけど、その割に穴が大きすぎる。俺は先生の奥さんに会ったこともない。
でも俺は先生と再会してから約一年、奥さんの存在をあるものだとして生きていた。だから、その分の存在感が俺の中にはあったはずで、穴の幾らかのスペースは奥さんのものだと断定できる。でもどう考えてもそれ以上の大きさの穴が、まるで洞窟のように俺のお腹の真ん中に暗黒空間を作っていた。
俺は先生のことを考えるほかなかった。
先生に振られて、それでも毎日は続いた。
先生を失った人生は、思っていたほどには過酷ではなかった。
田中は相変わらず優しいし、菊池も熊田も幸せそうだ。林さんも。そのうえ甲田からは頻繁に弟たちの動画が送られてくるようになった。見せる相手がいないんだろう。凄く可愛いから、迷惑ではない。
無事大学に受かった小塚先輩からのフットサル誘いに喜んで、バイトのシフトをどうしようなんて思っていたところだった。
でも、嬉しいことや楽しいことはたくさんあるのに、それでもよく気を付けていないと簡単に内側に籠ってしまいそうになった。そんな自分を気取られないように、今まで以上に普通でいることにエネルギーが必要だった。
毎日きちんと食事と睡眠をとって、若さと体力で日々をなんとかやりくりした。
それはあの日から二ヵ月以上が経った今も変わらない。
何気ない親や友達とのやり取りの中で、今だって時々傷付くことはある。友達を目標として脳内先生でしのいでいた日々が懐かしいほど、そういった時には孤独を感じた。
今、どてっぱらにこんなにも大きな穴を抱えて、あんな真実を真正面から受け入れたら、俺は穴に飲み込まれてしまうかもしれない。
それに考えなくったって分かる。どう考えたってこの穴は先生だ。
俺は怯えている。なのにもう自動運転モードも切れかけの蛍光灯みたいに今にもその効果を失いそうになっている。
ああ、どうしよう。
前向きな活力が尽きてしまいそうなのに、体に残した俺がまた記憶が遡り出す。
泣き止まない俺を抱きしめてくれた先生の腕の強さ。頬を包む温かい両手と、ショックを受けた先生の顔。ミルクレープを食べる俺を見る少し嬉しそうな眼差し。月光冠を見上げる俺と先生。ポケットの中で握ってもらった、あったかい手の温もり。抱き寄せられた時に漂ったお香の香り。
スマホに浮かぶ先生の名前、俺を励ます穏やかな声。
蒸し暑いお祭り会場で、ラムネを煽った先で見つけた先生の姿。
あのあと俺は、嘘が苦しくて花火みたいに消えてしまいたくなるって先生に言った。一人の方がいいって。そしたら先生は泣きながら、一人になろうとするなって俺を止めてくれた。
先生はいつも俺を前向きにしてくれたのに、俺は困らせてばっかりいた。
泣いて、怒って、苛立って、距離を取ったくせに告白までして、先生に嘘を吐かせた。
なにも知らず結婚について尋ねたりして。
甘えてばかりいることを誤魔化すために、奥さんのことを持ち出したことが何度あっただろう。
「俺も、叶わない人を想ったことがあるよ」
先生、あれは奥さんのことだった?
「会いたいけどそれも叶わなくて、すごく辛かった」
俺を慰めるために、初恋の話でもしてくれてるんだと思ってた。
先生の嘘は全部俺のためだ。俺を一人にしないために。最後のあの日だって。
あの日、先生は話があるって言った。なんでそれを聞かなかったんだろう。
あのとき桜公園で、どうして先生がそこにいる理由を疑問に思わなかったんだろう。
俺はあのとき先生になんて言った? 真夜中に公園に現れた先生に。
「先生死んじゃったの? 幽霊?」
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