第75話 絵美


 あの時アスマとは逸れたが、俺はちゃんと彼をきっかけにはした。


 俺は大学に入って半年ほどで出会った朝香という女性と成り行きでそうなって、そのまま付き合っていると言えなくもない頻度での関係が続いた。

 彼女はとても大人びていてミステリアスな印象があり、大学の講義があるとき以外は常に働いていた。必然会うのは夜に限られて、いつも俺のアパートで食事をしてからセックスをして、幾つかの仕事の愚痴なんかを聞いてから眠り、朝が来て帰っていった。


 気が付くとそんな関係が半年になり、周りからも付き合ってるんだよね? という空気を感じて、こういうことは曖昧にしておくべきではないかと思って、ある夜アパートに来た彼女に「付き合おうか」と申し出たら、彼女は少しあっけにとられたような顔をして、「そういうつもりはないの」と言った。

 俺は大げさに驚くタイプではないから、あからさまに顔には出なかったが、言葉が直ぐに続けられなかった。

 行為をする前に言ったことは間違っていなかったと思うが、結果は予想とは違った。

 彼女は、「ごめんね」とくたびれたように言って、幾つかあった私物をコンビニ袋に詰めて帰っていった。


 今になって思うと、彼女は大学と掛け持ちのアルバイトで手一杯で、彼氏を作るような余裕はないと割り切っていたんだと思う。とは言え、俺に確認も取らずに身体だけの関係に仕立てられたことには文句を言いたかったが、始まりが曖昧だったのは俺の落ち度だと認めて、振られたということで納得した。

 それでもしばらくは落ち込んだ。

 忙しすぎて友人も殆どいない彼女の悩みを聞き、俺なりに寄り添ってきたつもりだった。彼女には自分が必要だろうと思っていた。

 もしかしたら彼女は、俺がもっと恋人然とした付き合いを期待していると思ったのかもしれない。今までのままで構わないと言ったらもしかしたら――そこまで考えて空しくなった。

 改めて思い返すと、今まで付き合ってきた子のうち、長く続いたのは少し依存気味な子が多かった気がして、自分もそれを居心地良く思っていたのかと思うと急に不健全に感じた。

 それからしばし自分の人生に思いを巡らせた俺は、その年頃にありがちな自分探し的な衝動に駆られ、アスマに付いて知らない世界を覗いたりして衝動を癒した。

 理解できない他者についてアスマとの問答を経験し、アスマについては上手く正体を掴むことができなかったけれど、人は変わることができるということだけを強く理解した。

 まあ結局俺が変えたのは、不健全に感じる自分の女性の好みだったわけだけど。

 我がことながら単純だとは思うが、その時に初めて俺の目に絵美が映った。



 絵美は俺の友人と呼んでいい繋がりを最大限に広げた時に、一番活動的で、いつも何かに夢中な子だった。その点ではアスマと同じで、けれど彼女の興味は広範囲のアウトドアだった。


 彼女は社交的ではあったが、自分の趣味に人を巻き込むタイプではなかった。

 彼女を知る人たちはみんな、自分と彼女の共通の部分でのみ彼女を認知していて、彼女が別の興味のある物事に取り組んでいる時、彼女が何処にいて、それが何なのかを知る人はいなかった。

 友人を自己存在感を得るために必要としている人間には耐えられないだろう彼女の在り方は、そういった人間を自分の周りから自然淘汰させ、定住地を持たないさすらい人のようでもあった。その点で言えば、アスマよりもさらに潔のいい生き様だった。



 学部を跨いだレクリエーションデイキャンプで初めて絵美に話しかけた。

 俺はひとつ前の失恋もあって、かなり気を遣って交友を深めようと努めたが、彼女は意外にも俺の興味をあっさりと好意的に受け取って、空いた時間を俺に当ててくれた。

 彼女の生活はアクティブそのもので、俺の想像以上の行動力だった。

 気が付くと沖縄にいて、気が付くとカナダにいたりした。それでも彼女は連絡をくれたし、現地から絵葉書を送ってくれたり、絵葉書よりも早く帰ってきてお土産を渡してくれたりした。


「それで、どんな景色だった?」

 俺が訊ねると、彼女はまるで今カナダに着いたみたいな顔をして、見てきたことを一から全部教えてくれた。

 歩きながら喋り続ける彼女をカフェに連れて行き、好きだというソイカフェとミルクレープを驕り、彼女の話をいつまでも聞いた。



「朝は五時に起きてランニングに行くの」

 真夜中を過ぎたベッドの上で絵美が言った。

「それって彼氏も付き合うの?」

「まさか!」

 絵美は昼間と変わらない元気な声で笑った。

「私ね、やりたいことが本当に多いの。未だにお父さんと定期的に山に登るし、釣りに行く。この間のクライミングも楽しかったし、夏にやったダイビングも本当に楽しかった。小さい頃から何でもさせて貰ってたから、私には多分、相当体力があるんだと思う」

「俺の百倍あると思うよ」

 二人で笑ってスプリングが揺れた。

「今まで付き合った人はね、私といるとみんな疲れちゃうの。最初は楽しいけど、これがずっと続くの?! って感じなんだと思う」

 言いながら絵美は自分でうんうんと頷いた。

「じゃあ俺は、無理に参加しないようにしようかな」

 そう言った俺を絵美は不思議な生き物のように見た。

「こう言ったのって俺が初めて?」

「ううん、でも始めにそう言われたのは初めて」

「待っていれば帰っては来るんだよね?」と聞くと、絵美は驚いた顔をしてから、それをゆっくりほころばせて、うんと頷いた。

「それでもいいの?」

「いいよ。俺の趣味は読書、多少の料理。釣りは小学生以来やってないし、高いところはあんまり得意じゃない」

「うちのお母さんみたい」

「絵美はお父さん似?」

「そう」

「じゃあ、相性は良いかもね」

 俺の言葉を絵美は喜んでくれた。



 それから卒業までの二年間をお互いに有意義に過ごした。

 絵美は自分を待つ俺のスタンスに満足したようで、俺も自分には見られない景色を教えてくれる絵美の帰りを楽しみに待った。

 恋人に強く必要とされることは、現状に満足している俺にはあまり必要が無かったのかもしれない。それでも絵美の帰ってくる場所であることは、思っていた以上に俺の存在意義を満たした。

 満たされた俺は、時々悩める人間の話を聞いた。

 ただそばにいて、毒にも薬にもならない言葉をあえて選んだ。あまり真面目な会話になりすぎないように気を付けて、相手は自分ではないと強く意識した。そしてその人が望まなくなるまで、無害な居場所であり続けた。


 

 結婚は絵美と絵美のお父さんから申し込まれた。


 絵美の家で就職祝いをやってくれるというので伺うと、いつも通りキッチン側に俺とお母さん、向かいに絵美とお父さんが座り、お母さんに渡されたワインを開けようとした俺をお父さんが制した。

 俺はてっきり、「就職おめでとう」というような言葉があるんだろうと待っていた。けれどお父さんはなかなか口を開かない。隣のお母さんを見ると、少し困った顔で微笑みながら二人の様子を窺っている。やっぱりなにかあるらしい。

 ところが向こう側の二人は初めて見る神妙な顔をただキープしていて、俺はだんだん笑いが込み上げてきて、それをなんとか耐えていた。


「ね、結婚しない?」


 唐突にきっぱりと絵美が言った。


「へ?」


 俺がとんまな声を上げると、隣でお母さんが噴き出した。

「櫂くん、俺からも頼む!」

「お父さんからもですか?」

 俺がさらに驚くと、お母さんはもう耐えられないというようにゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。


 正直結婚については就職して二、三年を目処に考えようと思っていたのだが、まあつまりしたいとは思っていたし、今思い留まらなければならない理由も無かったから、大笑いしているお母さんの横でひとつ深呼吸をして、「お受けします」と返事をした。



「何それ変わってる。変な人なの?」

 理来を重そうに抱きながら、姉さんが疑うように俺を見た。

「そういうことは思うだけで言うもんじゃないと思うよ」

 姉の夫の智和さんが注意した。

「いいじゃない、早く連れて来なさい」

 嬉しそうに言う母さんに、「へえ」と思った。働き始めて数年は待ちなさいと言われると思ったからだ。

 就職は決まったが仕事はまだ始まっていない。もちろんお金もなく、とりあえず両家で食事会をした。

 いつも余計なことを言う智和さんは理来に掛かり切りで、添え物のきのこに文句を言ったくらいで済んだ。

 酒が進み、絵美と姉は意外にもボルダリングの話題で気が合っていた。

「姉さんにそんな趣味があったんだ」

「まあね、ロッククライミングまではしようとは思わないけど」

「ロッククライミングも楽しいですよ! 難易度も細かくありますし、安全性も――」

「危ないですよ! 岩を登るのは!」

 智和さんの言葉でその話はそこで断ち消えたが、姉さんは帰宅後、「明るくてハキハキしてて良い子ね」と絵美を褒めた。母さんも、「ご両親と仲が良くて、櫂のことも気に入ってくれてるみたいで安心した」とほろ酔いで喜んだ。

「たくさん感謝して、幸せにね」

 母さんの口癖が出て、俺と姉は目を合わせたが、無事に会食が終わってひと息付いていたこともあって、うんざりした気持ちは飲みこんで、「わかったよ、ありがとう」と返事をした。



 就職は決まったものの、お金が無く式は挙げられなかったが、写真だけでもと両家の親が譲らなかった。

 そころがそれだけでは終わらず、田畑が企画してパーティーを開いてくれた。

 手ぶらで来いと言われて二人で行くと、ドレスとタキシードが用意されていた。

「アスマが借りてくれたらしいよ」

「わー! 写真撮った時のより豪華!」

 絵美は大喜びでドレスの周りをぐるぐると回った。

 アスマは予定があって来られなかったが、衣装のおかげでまるで披露宴のような写真が撮れて、俺はそれをお礼と共にアスマに送った。


『似合ってるよ、おめでとう』

『自分たちで選んだ時のより、ずっと素敵な衣装だよ』

『似合ってるのは二人のこと』




 お互いに社会人生活が始まって、日常は大きく変わった。

 絵美は大手のアウトドアメーカーに就職した。

 趣味と実益が噛み合って、絵美は溌剌と働き始めた。

 大変なのは俺だった。

 最近の子どもたちは昔よりもずっと賢く素直で、一見すると接しやすかった。

 表立った問題も殆ど起こさず、授業を妨害するような生徒も少なかったし、校内も綺麗だった。

 俺が育った地域がひどかったのかな、なんて思っていたら、ちゃんと突然家出をしたり、不登校になったりした。

 担当の先生曰く、学校生活で予兆が見つけられなかったらしい。

 親は勿論学校の責任について問うが、詳細がはっきりしてみると、問題は大抵SNSの中にあった。

 見知らぬ相手とやり取りをし、電車に乗って会いに行ったり、見知らぬ相手との言い合いがヒートアップして、脅迫めいた内容に恐怖して部屋から出られなくなったりしていた。

 もちろん学校内でも小競り合いは起こったが、それ以上の膨大なやり取りがネット上で行われていた。

 買い与えたのはもちろん親だ。持っているかどうかもアンケートに嘘を書かれれば分からないし、やり取りや内容についてもこちらはチェックすることはできない。

 学校は定期的に注意喚起のおふれを出してはいたが、結局のところチェックする親は言われずともするし、しない親はしない。

 俺は受け持った一年生の生徒達を注意深く観察した。まだ小学生の名残の強い彼らは、一見鬱々として見えても、話しかければちゃんと応答があった。

 舐められないように距離感には注意してくださいなんて言われたりもしたが、正直一度舐められてみないことにはその距離感も分からない気がした。


 生徒たちの胸の内も気掛かりだったが、なにより仕事が忙しかった。やることがあまりに多すぎた。

 俺だけでなく、子どもたちも日を重ねるごとに消耗しているように見えた。カリキュラムも明らかに俺の時代よりも多い。

 ゴールデンウィークが明けて一週間が経ったところで、生徒達に訊ねた。


「みんな疲れてない?」


 クラス中が何を聞かれたんだがよく分からない顔をしていたが、俺は続けた。


「俺は今年から先生になったから、毎日初めてのことばかりだし、やってることに100%の自信も無い。仕事もたくさんあって、慣れてないから覚えてこなすのが本当に大変なんだ。それでもうはや少し疲れてる」


 俺が完全な弱音を漏らすと、みんなも口々に、「部活で疲れて勉強できない」とか、「アルファベットが記号みたいで頭に入らない」とか、「制服が動きにくい」とか、なんやかやと言い出した。

 大人がそうなんだからきっと子どもだってそうだろうと、ただ自分が知りたいがためだけにそんな質問をして、みんなの返答にやっぱりそうかと頷いた。


「先生さあ」

 生徒の一人が声を上げた。

「うん」

「前、指輪してたよね?」

「あ、気が付いた?」

 俺は何もついていない左手をみんなに見せた。

「離婚したの?」

「捨てられたの?」

 口々に言われて俺は笑った。

「実は四月からちょっと痩せちゃったんだ。それで指輪が緩くなってるなあって思ってたら、いつの間にか無くなってた」

「えーなくしたの?」

「そう」

「ヤバいじゃん! 高いんでしょ?」

「芸能人じゃないんだから、高くはないけどね」

「奥さんに怒られた?」

「実はまだ気が付かれてない」

「えー?」

「奥さんは今仕事でヨーロッパに行ってるから、まだばれてないんだ。でももうすぐ帰ってくる」

「がっかりされるよ」

「するかな」

「今のうちに同じの買ってくればいいじゃん」

 実際それも考えはした。

「やっぱり数万円はするからね、勝手に家のお金をそんなに使えないよ。帰ってきたらちゃんと話すつもり」

 みんな、それがいいねと頷いた。

「怒られないといいね」

 生徒たちの言葉は、単純で優しかった。

「とにかく一年生は疲れるものだから、ちゃんとご飯を食べてよく眠って下さい。勉強が分からない時は、先生か教科担当の先生、お友達と見直しをしましょう。困ったことがあったら相談して。ちょっとしたことでもいいから話すんだよ。先生も奥さんに、指輪無くしましたすみませんっていうからさ」


 気まぐれにこんな会話をしたら、次の日から俺に相談に来る生徒がひっきりなしになった。

 言わないだけでみんな小さな不満や不安を抱えていたし、ルールだとはわかっていても、納得できないこともあるようだった。

 どう頑張っても仕事中にすべてを聞くことはできなかった。それで休日にも彼らの部活動を見に行くようになった。

 絵美も休日は飛び出して行ってしまうし、俺は気兼ねなく練習試合だの展示会だの発表会だのを見に行った。

 生徒達は喜んでくれたけれど、変に気も使ってくれて、「休日は休んだ方がいいよ」なんて言ってくれたりもした。

 俺はしょうがなく、「先生は絵画鑑賞が趣味だから」とか、「金属バットが球をかっ飛ばす音を聞くと幸せホルモンが出る体質だから」とか適当なことを言った。

 適当であればあるほど笑ってくれたから、俺は構わず大雑把に理由をでっち上げた。

 直ぐに担任ではないクラスの生徒も俺を認知してくれるようになって、顧問の先生方も、俺が新任だから頑張っているように見えたらしく、良くしてくれた。

 これが幸いしたのかは分からないけど、一年目を大きな問題も無く終えることができた。

 結局指輪は見つからなかったし、買いに行く暇も無いまま、体重は四キロ落ちた。





「絵美で苦労してないか?」

 お父さんが俺にそう聞いたのは結婚して一年目のお正月だった。

 正月らしいのんびりとした日和に、テレビでは新春ネタ番組が掛かっていて、絵美はそれを見ながらお母さんと賑やかに洗い物をしていた。

 俺は一瞬、聞かれた言葉の意味が理解できなかった。少し酔っていた。

「どうしてです?」

 ワンテンポ遅れて聞き返すと、「チョロ松だから」とお父さんは言い、俺は笑った。

「俺はそういうタチじゃないので、一緒にと言われたら無理だったかもしれません」

「うん」

「俺は絵美が人生を楽しんでるのが嬉しいです。俺には一生見ることのない景色や体験談を聞かせてくれて、いつもエネルギーに満ちてる。一日の終わりに、明日が待ち遠しいって言うんですよ」

 俺が笑うと、お父さんも覚えがあるのか、笑いながら頷いた。

「楽しそうにどこかへ行く度に、帰ってくるのが待ち遠しいです。だから苦労なんかしてませんよ」

「そうか」

 お父さんはお酒のせいか少し泣いて、「これからも絵美をよろしく」と言った。

 

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