第49話 男子高校生の美意識
時折友人にアルコールに手を出していないか聞かれることがある。
アルコールが落ち込んだ人間の陥りやすい物のひとつであるのは分かっていたが、今までお酒で失敗をしたことはない。
飲めば多少は気分が良くなるが、悪酔いすることはないし、毎日晩酌をするような習慣もなかった。
ただ最近は殆ど毎日口にしている。
週に一日か二日は飲まない日はあるが、高瀬の連絡を待ちながら、飲んで気を紛らわせることはあったし、タイミングがずれると飲みながら電話をすることもあった。
飲んでも一、二缶で、飲まない日もある。これがどの程度の依存度なのかは考えたことがなかった。
一応調べてみると、今のところ問題は無いようだった。
チェック項目を覚えておく必要があるかと思ったが、手が震えたり、酩酊して自分をコントロールできないとなれば、さすがに自覚できるだろう。
あからさまな症状ばかりの項目に、そうなってまで忘れたい辛い事があるんだろう依存者に同情する気持ちになる。
俺の辛い事は、今もぼんやりとしている。
自己防衛機能は一年半が経過した現在もきちんと機能していて、つまり心の傷は癒えてはいないということになる。
どちらがマシなのかは判断がつかない。ただ、現状は高瀬を巻き込んで維持されている。
チェック項目の最後に、酒に強い人ほど飲み過ぎやすく依存症になりやすいとあった。
もし高瀬がいなかったらどうだったろう。考えると楽しい気持ちにはなれそうになかった。
依存というには量も頻度も低い。でも少し、轍を踏むような嫌な感触がした。
十一月が半分過ぎて、冷たい風がよく吹くようになった。
クラスの子どもたちはすっかり中学生らしくなって、ちょっと生意気で、でもまだ構ってもらいたがりだ。
高瀬について知りたがった六人のうち三人は、翌週直ぐに謝罪に来た。
阿部君と三笠君は少しすねたような態度で、俺のことをあまり見なくなった。
自分は言ってないと声を上げた九重さんは、月曜日は休んでしまったけれど、火曜日から登校して、前と変わりないように見える。
思い出すと未だに悲しい気持ちになる。
目の前で高瀬を傷付けられて、久しぶりにあれほど心を乱された。母さんにあれを言われて以来だと思う。
強い憤り。でもそれは誰かにぶつけて報われるような感情ではない。想像力の欠けた言動は単純に悲しかったが、気持ちのままをぶつけても、みんなが傷つくだけだ。
「先生?」
ハッと顔を上げた途端、職員室のざわめきが一気に聴覚を制圧した。
遅れて声のした方を向くと、少し不安そうな顔の九重さんが立っていて、無視をしていたようになったかと心臓が鳴った。
「ごめん、集中してた!」
両手を合わせて謝ると、九重さんはホッとしたように笑って、「この間はすみませんでした」と頭を下げた。
今ごろになってどうしてだろうと思いつつ、急いで首を振る。
「あれはあの場で済ませたつもりだから」
顔を上げた九重さんは微妙な表情で両手を前で握っている。
「なにかあった?」
「……あの、言い訳に聞こえないといいんですけど、私が気になったのは、あの人がしたことじゃないんです」
「え?」
九重さんはさらに手を握りしめて、言いにくそうに首を傾げた。
「先生の友達には、どうやったらなれるのかなって思って」
予想もしていなかったことを言われて、返答に詰まった。
「友達になりたいの?」
「はい」
「それは……そうか、びっくりした」
瞬きを何度か繰り返していると、くすっと空気が鳴った。
「凄く楽しそうに話してました」
「え、ああ高瀬と?」
「はい! あんな先生初めて見たから驚きました」
「そうか、どんな風だった?」
高瀬といるところを知り合いに見られる機会はなかったから、つい興味が湧いた。
「ゲラゲラ笑ってました! お腹抱えて」
「そっか、そうだね、楽しいんだよ高瀬といると」
脚の長さを見比べて、「腹立たしい」と言われたことを思い出す。気楽な服装のあの頃への言及も。
「先生は友人に面白さを求めるタイプですか?」
「うーん、どうかな。まあ一緒に居て楽しいに越したことはないんじゃないかな」
「なるほど」
参考になりました! と頭を下げた九重さんは、髪を揺らして行ってしまった。
参考? 参考か。
高瀬は違和感があると言ったけど、九重さんには俺たちが友人に見えたらしい。
「あれは好かれてますね」
向かいの席の松沢先生がファイルの上から顔を出した。
「え?」
「先生、恋されてます」
くすくすとからかうような笑い声が聞こえてくる。
「友達って言ってましたけど」
「そりゃあ、いきなり好きとは言ってこないでしょう」
「はあ」
曖昧に返して、面白がっている松沢先生の口振りから逃れるように手元に視線を落とした。
それがどうであれ、答えは決まっているんだからどちらでも構わない。俺は生徒と教師以外の関係になることは望んでない。
「……」
高瀬、意外は。
「高瀬、フットサル辞めたのに前より忙しくなったな」
タッパーを覗いた菊池が、唐揚げをひょいと摘まんで口に入れた。
「そうだね」
「働きすぎじゃない?」
熊田が言って唐揚げを頬張る。
「そうかな」
「料理まで始めちゃってさ」
菊池がもうひとつぱくつく。
「ばくばく食いながら何が言いたいんだよ!」
田中がタッパーを取り上げた。
「だって遊べないじゃん!」
二人は不貞腐れたように油で光る唇を尖らせた。
「そんなに稼いで何奢ってくれるの?」
熊田に聞かれて、俺は少し気持ちに勢いをつけた。
「特に目的は無かったんだけど、今は髭を脱毛しようと思ってる」
「なんだって?!」
一番驚いたのは意外にも田中だった。
俺は頭髪が全部立ち上がるような気がしながら、平常心を保ってバイト代の使い道について語ってみた。
「修学旅行でみんなが毛を剃ってるとかそういう話をしてただろ?」
「あ? ああ」
「親とその話をしてて、俺も父さんも髭がまだらにしか生えないんだっていう話になったんだよ」
「えーそうなんだ、いいなあ楽で」
驚く菊池に俺は首を振った。
「それでも生えては来るんだよ。伸ばしても格好もつかないし」
「それで脱毛?」
「そう、永久脱毛」
「永久に?!」
菊池が恐ろしい顔をした。
「間違って髪にやられたらどうなっちゃうの?!」
恐ろしい顔のまま菊池は唐揚げを口に入れた。
「そんな心配はどうでもいいんだよ」
田中が呆れた顔で菊池を見たあと、「どこでやってんの?」と意外にも食いついてくる。
「母さんが、するなら医療脱毛がいいって。俺たちのバスが通るとこにある──」
「ああ、花岡?」
「そう」
さらに食い気味に答えてきた田中に驚いていると、「田中君も興味があるみたいですねえ」と熊田が妙な口調で突っ込んだ。
「いやあ、実は俺も脚の毛剃ってるんだ」
「え?」
今度は俺が驚く番だった。
「柔道って寝技とかあるから、結構擦れて抜けたりしてさ、畳に毛が落ちるから剃れっていうルールがうちにはあるんだよ」
「へー」
三人で声が揃った。
「それが結構めんどくさいからさ」
「なるほど」
意外な仲間を見つけて俄然嬉しくなった。
「行くことになったら話聞いとくね」
「マジ? ありがてえ」
正直に言えば髭以外の部分も気になってはいる。これで聞いてみる理由ができた、ありがとう田中。
「ねえ田島さん」
急に熊田が隣の田島さんを呼んだ。
「なに?」
「女子って男子の毛についてどう思ってるの?」
どうした熊田。
「えー? 人によると思うけど、私は濃いのはあんまり」
島田さんは申し訳なさそうな顔をした。
「なるほどありがとう」
「どうした熊田」
田中が言って、菊池が最後の唐揚げを食べた。
「あ、菊池またお前!」
文句を言う田中を「また作ってくるから!」となだめた。
「いや、一応気になってさ」
熊田は何でもないようにそう言ったけど、俺たちは見過ごさなかった。
「澤田来美ちゃんですね?」
菊池が無い眼鏡を押し上げて、学校祭で連絡先を交換した一年生の名前を出した。
熊田はあれから連絡を重ね、何度か放課後に遊びに行っていた。
「結局付き合うことになったの?」
「まだはっきりそういう話はしてないんだけど、クリスマスは会える? って言われて」
「うわーーーっ!!」
菊池が叫んで、そして絶命した。
「生きろ菊池」
田中が唱えると、菊池はしぶしぶ生き返った。
「おいお前、毛を綺麗にしてどうするつもりだ」
田中が厳しく追求してくれるので、俺はありがたい気持ちがする。
「いえ、今のところ明確な目的はありません。でも望まれる状態を準備するというのも大切だと思うのです」
熊田は何か悟ったような表情で背筋を伸ばし、隣で田島さんが失笑した。
「俺も脱毛に行く!」
菊池がわけが分からなくなって脱毛宣言をした。
「落ち着いて、取り合えず俺が行ってくるから」
結局全員が興味を持ったらしい脱毛を三人が本当にやるかどうかはともかく、この行為が自分の性的指向とは関係ない、時世の流れからくる衝動なのだと分かってホッとした。
「毛よりも俺はニキビを何とかしたい。これも皮膚科だよなー」
菊池が顎にあるニキビを突いた。
「触らない方がいいよ」
「お前たち何でないんだ?」
恨めしそうな眼差しが俺たちを見回す。
「俺は中学がピークだった。今もたまにできるぞ」
田中がフォローするが、「俺は顎に常駐されてんだよ!」と菊池がしくしくと手のひらで顎を包んだ。
「俺はこのビタミン剤飲んでるよ」
母さんに貰った市販のマルチビタミンを検索して紹介した。
「俺はあるけど隠してる」
「えっ?! どうやって?!」
熊田は鞄からリップクリームのようなスティック状のものを取り出して、「薬用のコンシーラー」と菊池に渡した。
「コン、シーラー」
菊池が初めての言語みたいに繰り返して、俺は思わず笑ってしまいながら、熊田が一番意識が高いのかもしれないと感心した。
「塗ってみていい?」
「うん、指で取って塗ってな」
受け取った菊池が田中にそれを渡した。
「え? 俺が塗るの?」
「だって自分じゃ見えないから」
「お前は鏡も持ってないのか」
田中がやれやれと自分のカバンを漁り始めて、俺はぎょっとした。
「田中、鏡持ってるの?」
「鏡くらい持ってるだろ」と熊田に言われて、脱毛を切り出したはずの俺の意識の高さは下から二番目に落ちた。
「こんないいもの何で俺にも教えてくれないの? 見えないの? 俺のニキビ!」
すっかり綺麗に隠された菊池の顔をみんなで観察しながら、菊池の嘆きが上から降ってくる。
「隠しながらケアできるとか! 学校で教えるレベルのアイテムだろ!」
「広告とかでよく出て来るけどな」
「えー? 俺のSNSの広告は食い物の紹介ばっかりしてくるけど?」
菊池がレコメンドされた自分の興味を無防備に晒した。
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