第48話 先生の学校2
約一時間の公演はシンプルに演奏だけで構成されていた。
次第に盛り上がっていく選曲で、合間にピリッとしたソロパートがある。
無駄に共感性の高い俺は、知り合いでも何でもないのにソロを聞くと緊張する。
でも今日の自信に満ちた奏者は俺をちっとも緊張させなかった。
アンコールが終わって場内が明るくなり、アナウンスが午後の高校生の部の案内を始めた。
「凄く上手だった」
真結ちゃんたちも上手だと思ったけど、無知な俺でもさらにレベルが高いと感じた。
人数が多くて音に厚みもあったし、ホールの環境もあるのか、音楽に包み込まれるようだった。
「聞き応えがあったね」
「高校生も上手?」
「うん、また一段と人数も増えるしね」
立ち上がった人たちが出口に向かう。隣で先生が「うーん」と身体を伸ばした。
「高校生は見ないの?」
「高校生は観客がもっと増えるからね、俺の席がもったいない。全席指定でお金も取られるしね」
先生が小さな声で付け足した。
「教え子もいないしね」
「そうだね」
ほとんどの人が捌けて、「行こうか」と先生が立ち上がった。
先に階段を下っていくと、まばらに残っているうちの五、六人の生徒が立ち上がってこっちを見ている。
男子生徒のブレザーが大きくてなんだか初々しい。先生のクラスなのかななんて思っていると、体格のいい一人の男子生徒が、「中屋先生」と声を掛けてきて、俺は少し進んだ先で先生を待った。
「阿部君こんにちは」
先生が挨拶をすると、阿部と呼ばれた生徒も挨拶を返した。
「先生の友達って、高瀬って人?」
え。
「え、そうだけど」
先生と一緒に驚いて、そのあと彼の口から続けられた言葉に俺の思考は停止した。
「やっぱり! 女子を喧嘩させた人でしょ?」
息が止まった。
彼と、その場にいる生徒たちの視線が俺を突き刺し、バチッと眼前で火花が散った。
記憶を隠すように覆っていた被膜が、燃え抜けるようにじわじわと破れて、過去が姿を現す。
囁き合う声でできたざわめきが耳の奥で響く。
無数の指に突かれているような皮膚感覚、四方八方から聞こえるシャッター音、録画が開始されるクリアな電子音に、血の気が引いていく冷ややかさ。
連続した感覚的記憶の後、真夜中の住宅街を歩く、心もとない自分が降りてきた。
もう記憶は薄れたんだと思っていたのに、全てがまざまざと全身を通り抜けていった。
まさかこんな所であの気持ちを思い出させられるなんて。
さっき伝播していたのは、俺が先生の友達とかそんな話じゃなくて、あの事の当事者かどうかを確認していたんだ。
ふらつく視線が先生を頼る。先生の視線は彼らに向けられていて、苦しそうに眉が寄せられている。
目を伏せてそこにある床を見た。
心臓が嫌な感じで鳴っている。呼吸も怪しい。
どうしよう、先生の元教え子が、友達が、女子を喧嘩させた人だなんて噂になったら。
「高瀬は」
はっとして、全ての視線が先生に向かった。
先生はもう苦しいような顔をしていなかった。代わりに悲しい顔をして、みんなを見回す。
「高瀬は、そんなことはさせていないよ」
「じゃあなんで先生と友達なの?」
「どういう意味?」
「やらかして友達がいないからじゃないの?」
先生は男子生徒を驚いたように見て、「君にはそんな風に見えるんだね」と口を閉じた。
階段を下りてきた先生は、俺を隠すように立った。
「君たちが何を信じるかは自由だけど、今君たちは、俺と俺の友達を傷付けたんだってことは覚えておいて」
「私は何も言ってません!」
「でも気になるからここに残ったんだろ? 阿部君の質問で、俺や高瀬がどう反応するのか」
その子は黙ってしまったようだった。
「さようなら、また月曜日」
「行こう」
促されてホールを出た。
「ごめんね」
人気のない職員玄関まで来ると、向かい合った先生が悲しそうな顔をした。
「みんな、たくさん動画撮ってたから」
拡散されていると分かっていたけど、随分時間がたった気がして、すっかりなんの防御もしてなかった。
「うちの学校以外でもバズってたんだね」
明るく言ってみたが、先生からは小さなため息が聞こえた。その瞬間、俺のささやかな自虐は塵になって消えた。
「あんなの中学生が見たなんて教育に良くないよね、ごめんなさい」
「高瀬が謝ることじゃないって分かってるよね?」
「分かってるけど、俺は気にしちゃうからさ」
「……そうだよね」
先生の静かな声に、段々取り返しのつかないことが起こってしまったような気がした。
胸の底から立ち込めてくる瘴気のような悪い予感が、起こりうる未来をイメージさせる。
「先生の悪い噂にならないといいな」
「そんなことにはならないよ」
温かい手が肩を摩ってくれるけど、芽生えた不安は収まってくれない。
大事な生徒とあんな空気にしてしまった。
どうしよう、あのときみたいな視線に先生が晒されることになったら。
「月曜日に、ちゃんと言って」
「え?」
困惑した先生の表情が胸を押す。
「友達じゃないって、ただの元教え子だって」
「そんなこと言わないよ」
「言った方がいいよ、公園で見つけたんだって。一人ぼっちで寂しそうだったから、先生が助けてあげたんだよって」
「そんなこと言ったりしない」
「でも……」
喉から変な声が漏れて、涙が床で弾けた。
俺はまた居た堪れない存在になっている。先生の前で。
しゃがんで床に落ちた涙を手で拭った。
「ごめんなさい、迷惑ばっかり掛けて」
「迷惑なんて掛かってない」
屈んで俺の手を止めた先生の両手が、俺の顔を掴んで視線が重なる。
「高瀬、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないんだよ先生。大丈夫じゃなかった。嘘も本当も勝手に広まるんだ、自分じゃ止められないんだよ」
涙が溢れて先生の手を濡らしてしまった。それすらも申し訳ない。
「だからさ、俺はただの手のかかる元教え子だって言って。友達じゃないって」
「言わない、そんな風に思ったこともない!」
初めて見る怒ったような表情の先生に、言葉が出なくなった。
先生は俺を立たせると、取り出したハンカチで頬を拭ってくれ、それを俺に持たせた。そして無言のまま俺を引っ張って、ロッカーからスニーカーを取り出し、施錠を解いて外に出た。
俺はハンカチで目を拭ってポケットに入れ、足早に歩き出した先生に遅れないよう右足を踏み出した。
門を出た先生は、帰りのバス停を無視して歩き続けた。
一瞬置いて行かれて、慌てて脚を速めて付いて行く。
「どこに行くの」と聞こうと思うものの、立ち止まりたくなくて黙って歩き続けた。
十分くらい行くと、交通量の多い道路まで出てきた。そこでようやく先生が足を止めた。
「お昼は何が食べたい?」
「え?」
先生が腕時計を見せてくれ、時刻は正午が過ぎていた。
歩いたことで気持ちも落ち着いて、言われてみるとお腹が減っていた。でも特別これと言えるものは思いつかない。
「先生が食べたいものでいいよ」
「うーん、俺もなんでも食べられそうだな」
先生が通りを見渡す。
「あそこにラーメン屋と回転寿司がある。道路を渡ったらハンバーガーのチェーン店と、お蕎麦屋さん。後は、焼き肉店にファミレス、カフェもある」
「なんでもあるね」
「迷うね。じゃあ幾つか質問するから選んでね」
「え? うん」
ゆっくり歩き出した先生に並んで質問を待った。
「今の気分は濃いめ? 普通? さっぱり目?」
ああそういう事かと思って、「普通かさっぱり目」と答える。
「じゃあ、ラーメンと焼き肉は無し」
「うん」
「デザートは欲しい?」
泣いて歩いた後は甘いものが食べたい気がする。
「うん」
「じゃあお蕎麦屋さんもなし。デザートあるかもしれないけど」
俺はなんだかくすぐったい気持ちになってきて、唇を摘んだ。
「どこが残ってるんだっけ?」
先生が俺を覗き込むように見てきて、俺はサッと澄ました顔をして、「回転寿司とハンバーガーとファミレスとカフェ」と答える。
「よく覚えてるね」
先生がわざとらしく感心して言う。
「じゃあ、俺からも質問していい?」
「もちろん」
「先生のおごり?」
「そうだよ」
「じゃあ回転寿司!」
先生は「うわっ!」と、びっくりした声をあげて、俺を恐ろしいもののように見てきた。俺は声を上げて笑った。
「うそだよ、お寿司って気分じゃない」
先生はわざとらしくホッとした顔をしておいて、「全然いいのに」と肩を竦めた。
「じゃあなんで驚いたの?」
「高瀬こそ、気分じゃないのに何で聞いたの?」
「先生をからかうためだよ」
「悪い奴だな」と眉を寄せた先生を再び笑った瞬間、あれ、と気が付いた。
「俺、あのカフェ行ったことがある」
「そうなの?」
「うん。家族と寄って、エビドリアと小さいパフェを食べた気がする」
「へえ、美味しかった?」
「うん」
「じゃああそこのカフェにしようか」
「いいよ」
やっぱりいつも通りだ。いつも通り俺を引っ張り上げてくれる。
俺を諭したりも慰めたりもしない。きっとさっきの生徒たちにだって何も言わないんだろう。
先生との関係は変わらないし、俺はそれに心底ホッとする。
「俺もね」
信号待ちで先生が口を開いた。
「高瀬に話したいことがあるんだ」
「え? そうなの?」
前を見たままの顔がゆっくり頷く。
先生が俺に話したいこと? なんだろう。
横顔を隅々まで眺めるけど、表情からはどんな類の話なのか想像もつかない。
「今度ゆっくり話すから聞いてくれる?」
「うん、俺でいいなら」
先生は俺を振り向いてそっと微笑んだ。
「じゃあ友達で居てくれる?」
あ、と思ってから、しょうがなく「わかった」と了承した。
信号が青に変わった。
先生はずるい。ずるくて、優しい。
小塚先輩もそういうところがあったけど、ダントツで先生が一位だ。
話したい事なんて本当にあるのかなと思いながらカフェに入ると、前に来た時とは店内の雰囲気が違った。レイアウトも違う。
案内してくれた店員さんに訊ねてみると、前の店は閉店して、別のオーナーのカフェが今年の春からオープンしたらしい。
「初めて来る店だった」
笑いだした先生はしばらく肩を震わせたあと、「高瀬といると楽しいよ」とメニューをくれた。
もちろんエビドリアも無くて、ランチメニューのエビのクリームパスタセットを頼み、先生はもうひとつのオムライスのセットを頼んで、店員さんに大盛を勧められたけど、二人で、「普通で大丈夫です」と断った。
向かい合っても先生はさっきのことを話さない。
今日のバイトのことを聞かれて、バイト先に来てくれたのが先生だけじゃなくて、母さんと田中も来たんだと言うと、「初日から売り上げに貢献してるね」と感心したように頷いた。
俺もちゃんと気分を戻して、学校の設備の豪華さや、吹奏楽の良し悪しは正直よく分からないものの、それでも凄く感動したことを伝えた。
それからあの立派なホールを使うのが吹奏楽部だけじゃなくて、演劇部や合唱部もあることを教えてもらった。
「共学になって、スポーツジムもできたんだよ」と言うので驚いた。私立って凄い。
料理も美味しかった。結局普通でもさっぱり目でもないメニューだったなと思いながら、クリームパスタを巻いていく。
先生が食べる姿を見るのは初めてな気がしたけど、「担任だった時はいつもクラスで食べてたよ」と言われて、全く記憶に無くてまた驚いた。
「教師なんてそんなものだよ、高瀬が言う男子に人気があったってのも疑わしい」
「あったと思うんだけど、もしかしたら俺だけに人気があったのかもね」
先生は、「じゃあいいか」と笑った。
さっきは友達じゃないって言ったのに、今はずっとこのままがいいと思う。
先生がいれば何とでもなってしまう実績が積み重なっている。
先生がこの先も友達としてずっと居てくれたら、もしかしたら孤独な人生を歩まなくても済むのかな。
想像もできないような何かがあっても直ぐに笑顔にさせられて、漂流船でも北極星を頼りになんとか海を渡っていけるのかもしれない。
でも、教師が一度生徒として認識した人間を友達だと感じることはあるんだろうか。
立派な社会人にでもなったならともかく、俺は悩んでばかりの高校生だ、そんな風に思えるとは考えにくい。
やっぱり優しさだよな。
先生は、俺が傷付いた自分を誤魔化すためにバイトを始めたのも分かってる。じっとしていたら落ち込んでいきそうで、料理まで始めて。
「そう言えばこのあいだロールキャベツ作ったよ」
思い出して報告すると、先生はスプーンを持つ手を止めた。
「凄いな、大変だっただろ」
「うん、びっくりするくらい手間だった。でも美味しくできたよ」
父さんも母さんも褒めてくれた。月に一回は食べたいと言われて面倒くさいと思ったけど、喜んでもらうのは嬉しい。
「俺も作ったことがあるけど、かなりのやる気が必要だよね」
「作った事あったんだ、適当に言ったんだと思ってた。じゃあ本当に面倒だって分かってて作らせたんだね」
俺が言うと先生は深く頷いて、「挑戦してくれてありがとう」と悪びれなく笑った。
食後のコーヒーを飲む先生を眺めながら、今頃先生の奥さんは何をしているんだろうと考えた。
今日は仕事なのかとか、どんな仕事をしているのかとか、性格とか見た目だとか、そういうことも一度も聞いたことはない。
先生の時間を奪っている罪悪感から、時々奥さんのことを持ち出して謝ってみたりするくせに、なんとなく踏み込んではいけないような気がして聞く気になれない。
友達だっていうならそんな話もするんだろう。でもやっぱりこれは先生の優しさから成り立ってる関係だと思うから、そこに立ち入る勇気は出ない。
さっき俺に話したいことがあるって言ってたけど、もしも本当にそれがあったら、友達だって思えたらいいな。
帰りのバスで眠ってしまった。
いつものバス停で起こされて、うとうとしながらバスから降りた。
「大丈夫?」
「うん、自転車……」
目を擦りながらコンビニの裏に止めた自転車を押して歩いた。
「家まで送るよ」
「いいよ、バス停も付き合わせちゃったし」
そう言ったものの、なんだかとても眠かった。
先生は俺のあんまり開いていない目を笑って、「朝早かったのに長い時間付き合わせてごめんね」と、家まで付いてきてくれた。
家に着いてお礼を言おうと思った瞬間、急に記憶の引き出しが開いて、修学旅行のお土産があるのを思い出した。
「先生ちょっと待って」
「え」
先生に自転車を預けて家に入ると、玄関のカウンターに置いておいた紙袋を取った。
「これお土産」
「本当に買ってきてくれたのか、どうもありがとう」
渡せてよかったとホッとしたら、大きな欠伸が出た。
「よく眠って」
笑う先生を「おやすみなさい」と見送った。
そのままふらふらとベッドに行った。
悲しいことがあった気がするけど、それはもう先生との時間で忘れてしまった。
とても心地よかった。ずっと先生がそばに居るような気がして、安心して深く深く眠った。
家に帰ると、ハッキリと気分が落ち込んだ。
上着も脱がずにソファーに横になってテーブルの縁を眺めた。
子どもたちは時々驚くような悪意をまるで正義みたいに振るってくる。そんなのは珍しいわけではないから、いつもは驚かないけれど、今日はさすがに動揺した。
目の前であんな風に高瀬を傷付けられるなんて思っていなかった。
俺のせいだろうか。
俺が友達だと言ったから高瀬が孤独な青年に見えて、あの事件がそれを自業自得だと思わせたんだろうか。
あんなことを起こした人間は傷付けても構わないと思ったんだろうか。興味が勝って止められなかったんだろうか。
高瀬は俺たちが友達なのは違和感があると言った。その違和感が生徒たちに間違った答えを導かせたのかもしれない。高瀬にもっと頼らせたくて友達を持ち出したのに、結局それがあんな事態を導いたのかもしれない。
――ただの手のかかる元教え子だって言って。
そんな風に思っているように見えていたんだろうか。俺が寂しさのせいで高瀬を必要以上に構いすぎるからだろうか。
俺のせいかもしれない。
重たい身体を起こして立ち上がり、冷蔵庫に向かおうとした俺を高瀬に渡された紙袋が引き留めた。
ずっしりとしていた袋の中にはたくさんのお土産が入っていた。
博多の銘菓のとおりもん、日向夏ゼリー、高菜漬けに知覧茶、湯布院と書かれた入浴剤のおまけもついている。
「こんなにたくさん」
回転寿司を奢ればよかったと思っていると、ふわっと何かが香った。
袋の底に白い小さな箱がある。
「お香か」
手に取ったそれを鼻に寄せると、覚えのある香りがする。
キッチンに行って下の扉を開けると、以前線香を焚いた皿に手を伸ばした。
灰とライターが乗ったままのそれをテーブルに置き、椅子に着いて封を開けた。
華奢な木箱の蓋を開き、付属の円盤状の香立てを皿に置く。
細い茶褐色の線香を摘まんで取り出すと、何処で手に入れたのかも思い出せない黒いライターで火をつけた。
灯った火を振って消し、香立てに刺した。
すうっと立ち昇る白い線が、リボンのように揺らぐのを眺めると、すぐにとろっとした心地になった。
香りが辺りを静謐さで包んでいく。
名前は同じだが、前に貰った高級な線香よりもずっと柔らかな香りだ。なにか果物の香りも混ざっている気がする。
前の物は凛としていて悲しみによく効いたが、これは落ち込んだ心によく効きそうだ。
どうして俺に必要なものが分かったんだろう。
香りを残して燃えてゆくさまを眺めながら、胸にある後悔を吐き出す。
学校を出て歩きながら自分に腹が立って仕方なかった。早く高瀬を元気にしてやりたいのに気持ちが上ずって直らず、ただ黙って歩いた。
十分かかってようやく話しかけると、直ぐに笑顔を見せてくれた。
バスの中で眠ってしまった横顔を眺めていると、どんどんやるせなさが溢れてきて、太腿で揺れる脱力した手に触れたいと思った。
大人として、教師として、男としても、超えるにはあまりにも高いハードルがあったはずなのに、とても簡単そうに感じた。
その衝動がどういった動機から湧いてくるのか、色々と浮かんでは消えて判然としなかった。
燃えゆく香に眠気を誘われて、テーブルにうつ伏せた。
信号待ちをしていたあの一瞬、絵美のことを話そうと思った。
でも結局そうすることはできなくて、お土産を貰って帰ってきてしまった。
与えられてばかりだ。
息を吐ききり、白檀の香りに包まれて眠りに落ちた。
またあの夢だ。
名も知らぬ木の下で絵美を探した。でもどこにも見当たらなくて、一陣の風が草をちぎり、みるみるうちに雲行きが怪しくなった。
湖面にはいく筋もの矢のような波が立ち、服が帆のように風を受け、じっと立っていられない。
ダメ押しの強風でついに宙へと舞い上げられた。
生ぬるい湿った風が、俺を木の葉のように翻らせながらどこかへと運んだ。天地を見失いながら、嵐がくるんだろうと予想した。
ところが、気がつくと眼下に高瀬がいた。泣きながら自分の身体を抱きしめている。
山も湖も草原も失われて、俺を舞い上げた風さえ無かった。
俺はただ宙にいて、薄暗い部屋の小さなベッドの上で高瀬が肩を震わせているのを見ていた。
身体が羽毛のようにゆっくり落ち始め、泣いている高瀬に近付いていく。じれったいほどの速度に藻掻きながら、もう少しと高瀬に手を伸ばした途端、上昇気流に乗せられたように落ちる時よりも早い速度でまた上へと離れ始めた。
「高瀬!」
呼んでも高瀬はこちらを見ない。小さく自分を抱いてしくしくと震えている。
「ずっと一人なのかな」
「違う! 俺がいる!」
また木の葉のように縦になり横になる。
どんどん体は持ち上げられて、高瀬が小さくなっていく。
「誰か……」
声だけがまるで耳元で囁かれているみたいにすぐそこで響いた。
「俺がいるよ! 高瀬!」
ついに闇にのまれて見えなくなった。
「怖いよ……誰か」
「高瀬!」
俺は上も下も分からずに、ただ高瀬を呼んだ。
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