第47話 先生の学校1
先生が来てくれた。
ユニフォームを脱ぎながら、嬉しくなって下唇を噛んだ。
今日は七時に母さんが来て朝食を買って帰った。八時半くらいには田中がお兄さんとお弁当を買いに来た。俺が散財してって言ったせいかは分からないけど、お兄さんがお菓子をたくさん買ってくれて、レジ打ちが大変だろ! と田中が怒っていた。
親が来て友達が来て、少し恥ずかしかったけど嬉しかった。まさか先生まで来てくれるなんて思わなかった。
今日は土曜日だけど一人でどこに行くんだろう。
気になってスマホを開いた。
「さっきの先生って」
アプリを開く前に、同じく十時上がりの今西さんに声を掛けられた。
「背が高い人よねえ、私てっきりスポーツ選手だと思ってたのよ」
「そうなんですか?」
俺は初めから先生だったから今更そんな風には思わないけど、確かに俺の知り合いであそこまで大きいのは先生くらいだ。
「素敵な人よね、人気あったでしょう?」
鏡で顔のどこかをチェックしていた今西さんが、ニコッと可愛らしい笑顔で俺を見た。
「まあ、はい」
今ここに先生が居たら、気を遣わなくていいよって言われただろうな。
やる事が残ってないのをチェックして、髪型を直している今西さんに一日のお礼を言って先に出た。
早朝に湿っていた空気はすっかり乾いて、秋晴れの空になっていた。
清々しい気持ちで自転車を押して道に出ると、向こう側のバス停に先生が見えた。
「え、まさか……」
「もしもし」
「先生まさか乗り送れたの?」
「そう」
俺が笑うと、先生も俺に気が付いて笑ったのが見えた。
「どこに行くの?」
「学校だよ、吹奏楽部の定期演奏会で」
「間に合うの?」
「開演は十一時だからね」
なんだ、それなら充分間に合う。
「よかった」
「高瀬はどこに行くの?」
「家に帰るよ」
「疲れた?」
「ううん、無事に終わってホッとしたけど」
覚えることはたくさんあったけど、今西さんがしっかりしていて頼もしかった。私でもできるんだから大丈夫よ! と俺は何度も励まされた。
「高瀬も行く?」
とても簡単に言われて、一瞬何のことかわからなかった。
「どこに?」
「演奏会」
やっぱり簡単に言われて、向こう側の先生をまじまじと見てしまった。
「でも……」
「無理はしなくていいよ」
通りすぎる車の音が耳元から聞こえる。
先生と先生の学校に? そんなの行きたいに決まってる。
「行っていいの?」
一応遠慮する気持ちを見せつつ、行きたい気持ちがむくむくと膨らんでくる。
「良くなかったら誘わないよ。どうする? バスはあと四分で来るけど」
「え? ちょっ」
迷って見せる余裕を失って、慌てて自転車をまたコンビニの裏に止めると、残り時間の少なくなった横断歩道を走って渡って、「はやく!」と電話越しに急かす先生の所へ向かった。
人のまばらなバスの一番後ろの席に並んで座った。
「良かったね間に合って」
「うん」
さっきはあんなにワクワクしたのに、いざこうして向かってみると、ちょっと緊張する。
「本当によかったの? お金とかかかる?」
「かからないよ」
「よかった」
自分の恰好がかなりカジュアルなのが気になりつつ、普段は座らない一番後ろの席で先生と並んでいる妙を噛み締めた。
電話ではいくらでも話せるのに、今はなんでか喉が硬い。
人気あったでしょう?
今西さんの言葉が耳に残っていた。
先生が実際にどのくらい生徒に人気があったのかは分からない。俺の体感では人気があったとは思う。でも今思うと、この身長の割にあまり存在感を前面に出す人ではなかった。
大きな声やはっきりした物言いで生徒をまとめる先生が多い中、真面目な顔でふざけたことを言う癖に、黙っているときは生徒たちに自分を意識させなかった。
でも先生はきちんと大人で、触れられたくない事はそっとしておいてくれたし、頑張っているところは見ていてくれた。俺はそれに救われたし、きっと俺だけではなかったろう。
気安く絡まれがちだったけど、生徒になめられるようなこともなかった。それはまあ、この長身のお陰なのかもしれない。
いつも汚れてもいいような楽な服装で、どこにでもいる親しみやすいお兄さんみたいな雰囲気だった。今みたいにいつもネクタイを締めているような人ではなかった。
チラっと先生を盗み見る。
今日はネクタイはしてないけど、白いインナーが襟から覗く紺色のニットに、秋っぽいウール素材のチャコールグレーのジャケットで、髪型も昔とは違ってちゃんとセットされている。額を出すために分けられた前髪が目じりにかかって、正直けっこう格好いい。
きっと今も人気があると思うけど、俺の頃とは意味が違う気がする。
長い脚を辿って足元に目を落として、いつもは革靴だけど今日はスニーカーなんだと思いながら、また心もとない気持ちを指先を握って誤魔化す。
「そわそわしてるね、誘って悪かったかな」
「ちょっと緊張するってだけ」
「俺といれば大丈夫だよ」
先生といる事に緊張してるんだけど、と思いながらも沈黙した。
「立派な学校だね」
噂には聞いていたけど、実際に来たのは初めてだった。
俺の頃は女子校で、サッカーで交流することが無かったから、少し奥まったところにあるこの学校をきちんと見たことがなかった。
「こっちだよ」
呼ばれて付いて行く。
駐車場に車がたくさん止まっていて、校舎に続く人の流れに先生と混ざった。
きちんとした格好の人が多くて不安になったけど、時々同じくらい普段着な人もいてホッとする。
「先生おはようございます」
「おはよう」
久しぶりに先生が先生と呼ばれているのを聞いて笑ってしまいそうになる。
途中で別方向に伸びたレンガ敷きの道を歩いて職員玄関に着いた。
「俺もこっちでいいの?」
「大丈夫だよ」
玄関は施錠されていて、先生のIDが必要らしかった。生徒玄関は解放されているように見えたけど、まあそういう仕様なんだからしょうがないんだろう。
開錠音がして、中に入ると先生がスリッパを置いてくれた。
金字で学校名が入っているが、よくあるあの茶色いスリッパじゃなくて、黒くて底にしっかりと厚みがある。両足を入れてみると履き心地も違った。よくあるアレは脱げ易くて、すっぽ抜けて飛んでいきそうになるけど、これはそんな心配はなさそうだ。立派な学校はスリッパも違う。
「靴をくれる?」
スリッパに感動していると、先生に靴を指されて、「あ」と間抜けな声が出た。
慌ててスニーカーを渡した。
普段は気にならないけど、人に触れられると靴の汚れが気になる。
ここが先生の学校かー。
ひと気が無いのをいいことに、きょろきょろと辺りを見回した。
どこなのか分からない風景画や、大きなショーケースにはたくさんのトロフィーや写真が飾られている。
なんだかいい匂いもする。普通の学校では嗅ぐ事のない……あ、田中の家のような香りだ。アロマかな。
気が付くと先生がクスクス笑っていた。
「なんで笑ってんの?」
「物珍しそうにしてて面白いから」
「だって……公立の学校とは違うね、なんかいい匂いがするし」
「そうだね、俺はもう慣れちゃったけど」と先生もくんくんと空気を匂った。
「知らない学校に先生といるの、なんかちょっと変な感じ」
「そうだね。さ、あっちだよ」
また人の流れに合流して渡り廊下を歩いていくと、直ぐにホールの入り口に着いた。
廊下は真っすぐ向こうまで続いていて、向こうからもちらほら生徒が来る。
「この廊下の向こうが高校?」
「そうだよ」
中で繋がってるんだと思いながら、窓の向こうの高校の校舎を眺めた。
「凄い!」
ぱかっと口を開けてホール全体を見渡した。
うちの高校の体育館くらいの広さがある。
輝くライト、ステージを見下ろす深い赤の客席。いったい何人くらい収容できるんだろう。
「これってここの学生のためだけのホール?」
「解放することもあるけど、基本的にはうちの中高生のためのものだよ」
公立と私立ってこんなに違うんだ。
素直に感動しながら先生の後について階段を上がる。
客席の前の方に『保護者席』の案内があって、すでに随分と埋まっている。後ろ側は生徒席らしいが、休日にも関わらず座っている生徒は少なくはない。
「教員は一番後ろなんだ」
登って行くと、通路近くにいた女子生徒が二人、先生を引き留めた。
「また来てる」
「暇なの?」
からかわれている先生を少し離れた所で待つ。
「まあそこまで忙しくはないかな」
昔と同じ、のんびりとした口調が懐かしい。
普段俺と話してる時とは少し違う。これが先生の仕事モードなのかな。仕事の時の方がのんびりしてるなんてちょっと可笑しい。
「今度のうちらの試合も見に来てくれる?」
髪をふたつに縛った女の子が、座席に膝で乗り上がって先生を見上げる。
「今度は男子を見に行こうと思ってるんだ」
「えー男子?!」
「弱いんだから直ぐ負けちゃうよ!」
「頑張ってるって立川君は言ってたけどな」
「確かに立川は頑張ってる」
「でも立川だけだよ、中村たちはやる気ないから無理」
辛辣な女の子たちに、先生の背中が揺れた。
「でも俺は男子バスケも大好きだから、今回はそっちを見に行こうかな」
変わらない文句に思わず笑ってしまって、二人の視線が俺に向いた。
「先生の知り合い?」
「うん、俺の元教え子で、友達」
隣に立った先生は、俺を二人に紹介した。
教え子で友達だって、ハッキリ言われると照れくさい。
「え、教え子なのに友達なの?」
ジロジロ見てくる二人に加えて、話が聞こえたのか、近くにいた女子生徒もこちらを見た。
じわじわ緊張が増してくる。何か言った方がいいんだろうか。
「そうだよ、東高校の二年生」
「へー頭いいんだ」
一応、褒められて嬉しいみたいな顔をする。できてるかは分かんないけど。
我ながら無口な男子って感じで本当に恥ずかしい。相手は中学生なのに。
「じゃあまたね」
先生は俺をチラっと見て、また階段を登った。あれはからかっている目だ。
羞恥心をくすぐられて、大きい背中をちょいと突いた。くっくっと揺れている。
「じゃーねー」
二人の遠慮の無い視線を受けつつ、『友達』の印象が悪くならないように笑顔を作り、会釈をして通り過ぎた。多分笑って見えているはずだ。自信は無いけど。
通路を挟んでの最後のエリアには誰もいなかった。
担当でもない教員が休日に見に来るのはやっぱり珍しいのかな。この人はこの先もずっとこうしてマメな教師として生きていくんだろうか。
俺みたいな『友達』も増えていくかもな。
「ここでいいかな」
先生が通路前の席に座って、俺はハーッと溜まった息を吐いた。
「どうしたの?」
「めちゃくちゃ見られたから」
「ああ」
ジャンパーのジッパーを下して先生の隣に座る。
二人で下の座席が埋まっていくのを見ていると、また落ち着かない気持ちが湧いてくる。誤魔化そうと先生の脚を見て、膝の位置が違うのに気が付いた。
「先生の方が脚が長い」
「そりゃ身長差があるからね」
前に伸ばされた脚に自分のを並べると、靴分くらい差がある。
「先生って185?」
「188」
「えっ、そんなにあったの?」
孝一よりもさらに3センチ高い。確か孝一は185って言ってたはずだ。
「高瀬も180ある?」
「ううん、178」
「10センチ差か。じゃあこんなもんじゃないかな」
二人でもう一度脚を眺める。
「比率的に言ったら、やっぱりちょっと長い気がする。腹立たしい」
突然先生が声を上げて笑ってぎょっとなった。
「腹立たしいだって」
「ごめんなさい、つい」
「面白い」
残り笑いに肩を揺らす先生に身を縮める。
「俺のこと、教え子で友達って言ったね」
「対外的には教え子だって高瀬が言うから」
確かにそう言ったのは覚えてる。
「俺、先生の友達に見えるのかな」
「さあ、どう見えても関係ないんじゃない?」
「どう見えるかが俺は気になるから……」
ふと見ると、さっきの二人の女子生徒とさらに数人がこっちに顔を向けているのに気が付いた。
「さっきの子たちがこっち見てる」
「え? ああ本当だね」
数人が顔を寄せ合って、明らかに俺たちを話題にしている。
「あの人、先生の元生徒で友達なんだって、へー」
「アテレコしないで」
笑いつつ突っ込むが、こっちを向く生徒は徐々に増えている。
「視線が増えてるんだけど」
「本当だね」
隣り合う生徒が何かを囁き合ってこっちを見上げている。オセロをひっくり返すように、少しずつ肌色が広がっていく。
「伝播してる」
恐ろしい気持ちで言うと、先生も、「確かにそう見える」と感心したように頷いた。
「先生ってやっぱり人気あるの?」
視線に耐えられずに先生に目を戻すと、「やっぱりって?」と先生が訝しむ顔になった。
「先生って、俺が中学の時は女子人気ってよりは男子人気だったよね?」
先生はまた声を上げて笑った。
「そうだったの? 俺は知らないよ」
「服だってなんかもっと適当なスウェット着てたよね? 夏はポロシャツ、色はたいてい紺か黒でさ、チョークで汚れてたし、靴はサンダルだった」
先生はアハハと腹を抱えながら、「確かにそうだった」と頷いた。
「今はどう考えても女子人気だよね? いつもきちんとした格好してさ」
「校風に合わせただけだよ」
確かにこのホールを見てしまうと、昔の格好では許されない気はする。
「でも髪型とかもかっこよくなったし」
もごもごと言うと、先生の眉が上がった。
「高瀬には俺が格好よく見えるの?」
「いや俺がどう思うかはいいんだけど!」
先生は手で口を抑えながらもうずっと喉を鳴らし続けている。
ああ黙ってればよかった。
「高瀬に人気の先生になってねって言われたのは覚えてるよ」
「それは俺も覚えてるけど」
「高瀬は何を気にしてるの?」
「え? なにって……」
えーと、俺が気にしてるのはなんだろう。確かにさっきから変な気がしている。引っかかっているのは多分、『友達』だ。
「先生には、先生って呼ぶには気兼ねなく頼りすぎてる感じがして、それは友達ってことなら許されるような気もするんだけど、でもやっぱり先生でいる方がいい気がする」
「どうして?」
「なんとなく、違和感がある」
「違和感か、俺は高瀬と話してて楽しいんだけどね」
先生は前と同じことを言った。
友達と紹介されて嬉しかった。相変わらず話したいことはたくさんあるし、先生はそれで構わないって言ってくれる。
いったいなにが不満だっていうんだろう。
アナウンスが掛かかって、幕が引かれたステージに人が入る音が聞こえた。
「始まるよ」
ベルが鳴って照明が落ち、暗闇の中で先生の気配だけを感じた。
ステージが明るくなって、間を置かずに演奏が始まった。
疾走感のある、わくわくした気持ちを抱かせるオープニング曲に耳を傾けながら、先生の組まれた左手の薬指に視線をやった。
無くさないように外されているんだろう指輪をイメージする。
今まで一度も電話の最中に奥さんが先生を呼ぶことはなかった。気配さえ立てない。俺を優先してくれているんだと思うし、もしくは普通と違うことに敏感な俺を刺激しないようにしてくれているのかも。あれ、まさかそれで指輪も外してるのかな。結婚してるのはもう知ってるし、関係ないか。
俺は奥さんに遠慮しているのかな。いや、遠慮できてないから気にしてるのか。
強いパーカッションの音が胸に響いて、ようやくステージに心を向けた。けれども音楽は、胸の中にそっとしてある気持ちを震わせ続けた。
何度もこのままじゃいけないと思いながら、もう十一月になった。
もっと精神的に自立しなきゃって気持ちはあるけど、居心地のいい場所から立ち上がる気にはなかなかなれない。
遠慮する素振りを見せているだけの自分に嫌気がさしているし、それでもまだこの関係は自分に必要だとも思う。じゃあいつまで甘えるつもりだよって問い詰めるけど、そんなのはもちろん分からない。
もうすぐ来る十七歳の誕生日を目安にすればいいのか、例えば今予想できる、一人で超えるには厳しいだろう出来事第一位の、『孝一に彼女が出来る』をメドにすればいいのか。それとも先生が言うみたいに、自然と頼らなくなる日が来るのを待っていいのか。
成長を続けてきた体はもうそろそろ落ち着くはずだ。そしたら今とは違った視点が持てるようになるのかな。
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