第46話 先生の役割



 高瀬からの連絡は意外とすぐに来た。

「それですね毛がなんだって?」

 聞くと、高瀬はうーんと唸って語り始めた。


「修学旅行でさ、熊田と田中が大浴場に行ってね、みんな結構毛を剃ってたって言ってたんだよ」

「毛」

「そう。俺、髭はあんまり生えないんだけどさ、すね毛は剃ってたんだ。元々濃いわけでも無かったんだけど……なんとなく」

「うん」

「それが、ちょっと自分でも微妙な心境だったんだ。ゲイだから気になるのかなって」

「なるほど」

「別に誰かの脚に毛が生えてたって何も思わないのに、なんで自分は嫌なんだろうって。そのうち化粧とかしたくなるのかなとか、口調が変わったりするのかなとか、なんかまた不安になってきて……」

「考えすぎちゃったんだね」

「うん、まあ。でも自分だけじゃなかったんだーって驚いたっていう話!」

 最後はなんだか投げやりに話しきった高瀬に、思わず笑ってしまった。

「そうしたいって、思うように生きるんだよ」

 俺が簡単に言ってしまうと、高瀬はまた唸った。

「そうかな、みんなそうなの? そんなに自分に素直に生きていける? 怖くならないの? 俺は怖いんだけど!」

 段々声が大きくなって、そんな自分にびっくりしたのか沈黙がやってきた。

 笑ったりして、いけなかった。

「変わるのが怖い?」

「……怖い」

「人は変わるものだよ」

「分かってる」

 そうだよね、それは分かってるよね、びっくりしたことがあるんだから。

 ため息が聞こえた。それから細い声が語る。

「身体も変わっていくんだ。輪郭がしっかりしてきたなって父さんに言われた。俺は少しそれが嫌な感じがするんだ。それで、そう思っちゃうのも嫌だから考えないようにしたいんだけど、でも結局変わるのは止められないんだろうなって思うと、やっぱり怖くなる」

「心細い?」

「……うん、そんな感じ」

「そうか」

 思春期の身体の変化は誰にでも起こる。そして思春期がゆえにあまり人に相談したくないもので、こうして俺に話すことで、いくらかは支えになれているのかもしれないが、高瀬の持つ不安を同じようには見つめてやれない。共感してやれない俺がいくらそのままでいいと言ったって、高瀬の不安は埋められない。

 本当に役に立たないな……。

「見た目はみんなと一緒に変わって行くのに、自分だけ別のところに向かってる気がする。そう感じることは俺にはよくあるから、いつも思い出すようにしてるんだ、先生が言ってくれたそのままでいいって言葉。でも時々弱い心がそれを不安で覆そうとする」

 高瀬の言葉が胸の内側を落ちていく。耳障りのいい言葉しか掛けてやれない自分の無意味さをひしひしと感じる。

 その不安はきっと、誰かにそのままの高瀬を愛してもらわないと埋まらないんだよ。もしくは自分で自分を認めてやるしかないんだ。

 でもそんなことを言ったらもっと落ち込んでしまうだろう。

「化粧はしてみたいの?」

「え?」

 俺ができるのは矛先を変えることだけだ。無力で孤独な嘘つきのできること。

「今のところはしたくない。ニキビは憎いけど」

「それはみんなもそうだろうね。そういえば高校のスポーツ科の選手は腋が綺麗な生徒がいたと思うな」

「そうなの?」

「芸能人は男でも脱毛するって女子生徒が言ってた。推しの青髭が気になってしょうがないって嘆いてる子もいたな」

「へえ、芸能人も大変だね」

 驚いた高瀬が同情するように言った。これを聞いていたクラスの男子も驚いて自分の口元を確認していた。

「後は、剃るのは肌にはよくないから永久脱毛がしたいとか」

「永久に?!」

 さらに驚いた声が聞き返してきた。

 変化が怖いって言ってるのに、永久というのは言葉が強すぎた。

 謝ると、高瀬はもごもごと何かを言いながら、「まあ、でも、髭とかはちょっと気になるかも」

 小声で告白する高瀬に、また笑ってしまいそうになるのを堪える。

「アルバイトも始まるし、目的があるのはいいんじゃない? あ、でも思い付きで言ってるから、ちゃんと調べてみないといけないよ。永久的な脱毛なんて成長期にはできないかもしれないし」

 高瀬はようやく「分かった」と笑った。

 何も解決はしてやれない、ただちょっと気分を変えてやるだけ。でももう高瀬もそれは分かっているだろう。俺ができることの範疇なんて。

「バイト、二日からなんだ」

「土曜日だね」

「そう、今月末からって言ってたんだけど。朝五時から十時」

「五時から? 早いね」

「時間帯によって色々やる事があるみたいで、平日は入れる時間が限られてるから、休日に勤務時間ずらしながら満遍なく覚えてって」

「なるほどね、緊張する?」

「ちょっと緊張するけど、少しワクワクする」

「新しい事を始めて、頼もしいね」

 俺は素直に感心した。こんなにも迷っているのに偉い子だ。

「俺ね、料理も始めたんだ」

「料理?」

「そう。ほら、将来の為に?」

 一瞬、一生一人だと言った高瀬の言葉を思い出したけれど、とても現実的で前向きなことだと考え直した。

 最近料理なんて手を抜いてばかりだ。テーブルに置かれたビールの缶を気まずい気持ちで眺めた。

「いいね、食べたいな高瀬の手料理」

「上手くなったらね」

 リクエストは? と聞いてくれた。

 目を閉じてキッチンに立つ高瀬をイメージする。

「和食がいいかな、サバの味噌煮とか」

「うわ、レベル高い要求してきた」

「洋食でもいいよ、ロールキャベツとか、ビーフストロガノフとか」

「難しそうな料理ばっかり言わないで!」

 文句を言い出した高瀬に、笑いが止まらなくなった。

 俺も前向きにならなくてはいけない。そうだ、せっかくいい見本がいるんだから。




 高瀬の前向きな取り組みを聞いて、自分もやる気を出そうと部屋を片づけていると、整理していなかった段ボールから遺族向けのマニュアルが見つかった。こんなものがあったのかとパラパラとページを捲る。

 お悔やみの文章と突然身近な人を失った人が辿る心の変遷、心身の状態を測るセルフチェック、関連の連絡先。

 確かに書かれている状態の幾つかには身に覚えがあった。これをあの状態の時に見ていたら何か変わっていただろうか。目に入ってもいなかったけれど。

 これは遺族を支えられる周りの人が読むべきものなのかもしれない。


 幸いにも俺の周りには優しい人たちがたくさんいて、今も折を見て連絡をくれる。

 元気であるかとか、時間があれば食事でもしようかとか、面白かったからと本を贈ってくれたり、旅先からの土産や、故郷の名産の果物を送ってくれたりする。

 俺は未だにその優しさに直ぐには反応できない。貰った土産をいつまでも開けなかったりするし、果物は幾つか腐らせてしまったこともある。本は読んだり読まなかったりして、気が向いたときに感想のメールを返す。

 みんなもきっと分かってくれているとは思うけれど、心の中では不義理に罪の意識が湧いていて、時々発作的にまとめて返事をしたりする。

 手紙をくれる人も居る。

 長々としたものではなくて、絵葉書に少しのメッセージが添えられているようなものだ。

 手に触れられる手紙は、確かに心に灯るものがある。

 俺のために選ばれた絵葉書。何度か推敲された文章は書き損じもできないし、絵葉書のどこに書き入れるかのセンスも問われる。別に誰も問うたりはしないんだけれど、絵葉書にメッセージを添えて出すような人間は気になってしまうものなのだ。

 絵葉書をくれたのは妻と共通の友人だ。妻もよく葉書を出す人だったから、彼女がそんな風に色々と考えながら書いていた姿を見ていた俺には、手紙というものの温もりがより深く伝わって来た。

 住所を調べ、バランスを見て宛名と共に縦に書き下ろす。字が汚くなったと言い訳をしながら切手を貼り、わざわざ赤いポストか郵便局を探して投函。消印が押され、それから日を跨いで郵便局員が届けてくれる。

 手紙には手間と、それを乗り越える気持ちがこもっている。

 思考と共にぼんやりと思い出された手紙を書く絵美の後姿にハッとして、マニュアルをテーブルに置いた。

 セルフチェックによると、俺は随分ショートカットして回復期にあるようだった。それは間違いなく高瀬のお陰だ。優しい周りの人間が踏み込んで来ないスペースに高瀬はいる。とても無防備に俺を慕って背中を預けてくる。

 孤独の共感。

 どうしたらいいかわからない戸惑いも、言葉にできない違和感や苦しみも、全て高瀬が発して、俺はその感情に心の中で共感し、安堵する。そして俺だけが享受する必要とされる喜び。

 自分を受け入れて信頼してくれる存在。高瀬が願ってやまないもの。俺だけがそれを手に入れて回復している。

 今も続く嘘の上で、俺は高瀬と寄り添っている。



 最近になって、時々新しい夢を見るようになった。絵美を抱いてる夢だ。

 そこは美しい草原で、暖かい風が耐えず吹いている。遠くの山々は美しく雪を纏い、先にある湖が水面をキラキラと輝かせて軽やかな水音を立てている。雲はいつまでも晴れ間と寄り添いあい、雲間から差し込む日の光が空間に濃淡を作り出す。

 俺は絵美と名も知らぬ木の下で寄り添い合い、柔らかいキスを繰り返す。相変わらず姿はぼんやりとしているが、絵美であることは分かっている。

 しばらく憂鬱な景色の夢ばかりを見ていたから、この夢が現れるととてもいい気持ちになれた。

 風が二人の髪をかき混ぜて、揺れる草や色とりどりの小さな花が俺たちの肌を撫でている。控えめな乳房を手のひらで包んで、細い腕が首に絡んできて、柔らかいお尻や太ももを撫でた。

 いつまでもこのままでいたい、いつまでも。

 そんな夢を見ては、目覚めて買い替えた一人用のベッドにいるのに気が付いて、虚しさに掴まって身動きが取れなくなる。


 今日も同じように夢から覚めて現実に沈み込んだ。

 起き上がるのが酷く億劫だが、一人でじっとしても寂しさが埋まるわけでもない。いい夢を見られたじゃないかと自分を励まして、むっくりと起き上がった。


 今日は十一月二日、高瀬のアルバイト初日だ。

 丁度吹奏楽部の定期演奏会があって、十時半から開場の中学生の部を見に行くために外出の準備をした。

 人数の多い吹奏楽部の生徒達にも随分顔が浸透した。顧問の先生も俺を覚えてくれて、ある時、「吹奏楽に興味があるなら是非顧問の一人になりませんか?」と誘われたが、それを聞いていた別の部の先生方が、「それならうちだって人手が欲しい」「いやうちだって」と次々に言われて、「先生、まさか全ての部を見に来てたんですか?」と驚愕の目を向けられた。

 「そうです」と答えると、何か別の志があると思われたのか、それ以上の勧誘はされずに済んだ。

 次咲には専属のスクールカウンセラーが常勤しているし、以前のように生徒たちがわざわざ俺に相談を持ち掛けてくることは無いが、受け持ちのクラスじゃない生徒に気軽に声を掛けていいんだと思ってもらえると、意外な時に物事がスムーズに運んだりする。

 志とするには大げさだけど、俺は俺なりのやり方で数多いる教師の個性を増やしていかなければならない。それが成長期の子どもたちの目に触れる大人の、役目のひとつだと思っているから。



 高瀬のバイト姿を見るために、九時半過ぎに家を出てコンビニに向かった。

 丁度いい秋晴れで、微かに温かさを感じられる。

 店の横を通って窓から中を覗くと、レジに高瀬と中年の女性が何やら話している。

 指導を受けているんだろうか。女性が小柄なので、はた目にはどっちが教えられているのかは判別できない。

 ドアを開けるといつもの入店音が鳴って、高瀬が俺を見つけて、あっという顔になった。

「いらっしゃいませ」と女性が微笑んでくれ、「いらっしゃいませ」と恥ずかしそうな声が続く。

「いいね、新鮮」

 俺が笑うと、「今西」と書かれた名札の女性が「あら、お知り合い?」と高瀬を見た。

「はい、中学の時の先生です」

「あらあら、時々いらっしゃるわよね?」

 感じのいいこの女性のことは俺も覚えている。とても上品で耳心地のいい声だ。

「ええ、近所なので」

「高瀬君、嬉しそうね」

 もじもじしている高瀬を今西さんが笑った。

「えっ? あ、はい!」

 高瀬はびっくりして背筋を伸ばすと、「先生が、いつもと違うから」とはにかんだ。

「そう?」

 確かにいつもの出勤時よりはカジュアルだ。

「いつも通りかっこいいじゃない!」

「はい、かっこいいです!」

 突然二人に褒められて、戸惑いつつお礼を述べた。


 十一月に入って、すっかり店内はクリスマスに向けた飾りつけに変わっている。

 クリスマスかと少し気持ちが俯いたが、「いらっしゃませ」と高瀬の声が聞こえると、落ち込みかけた心がふっと救われた。

 小さいサイズのペットボトルの緑茶を取ってレジに戻ると、高瀬だけがレジに立っていた。

「温めますか」と澄ました顔が言う。

「いいえ」

「有料のレジ袋はご利用ですか?」

「必要ありません」

「お支払方法をタッチパネルで選んでください」

 だんだん、いつも聞き流すお決まりの文句を高瀬が言っていることが面白くて堪らなくなった。

「笑わないでよ」

「ごめん」

 思えば教え子が働いている姿を見るのは初めてだ。もっと教師が長くなれば、こんなことも増えてくるんだろう。

 現金で支払ってお釣りを募金箱に入れると、高瀬は驚いた顔をして、「ありがとうございます」と頭を下げた。

「どうして驚いたの?」

「募金してくれる人って思ってたより多いんだよね、先生もか! って」

「そうか」

 時計を見るともう九時五十五分。

「もうすぐで終わるね」

「うん」

「お疲れ様」

「お気遣いありがとうございます」

 急に丁寧になった高瀬に笑って、「じゃあね」と店を後にした。

 外から振り返ると、次の時間の人だろうか、三十代くらいの女性が高瀬と何か話している。

「ちゃんと働いてる」

 呟いて頬が上がった。

 いや笑っている場合じゃない、バス停まで急がないと。


 

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