第45話 修学旅行



 帰宅してすぐに母さんにもバイト宣言をした。すると、「いいんじゃない」と簡単に許可が出た。


「裏の今西さんもあそこで働いてるし、店長さんもいい人だって言ってた。うん、いいじゃない! 家からも近いし!」

 最寄りのコンビニで息子が働くイメージが膨らんだのか、最終的には母さんの方がずっと盛り上がってしまった。

 そしてたった一晩で話はさらに大きく進展した。


「今西さんが店長に聞いたら、いつからでも来て欲しいだって」

 朝食に手を合わせたのと同時に言われ、一瞬理解できなかった。

「え……えっ?! いつ聞いたの?」

「昨日すぐ」

「いつからでもって、まだ学校の許可も貰ってないのに」

「来週修学旅行があるから、それ以降でとは言っといたんだけど」

 いや待ってよ、とんとん拍子にもほどがある。

 呆れて言葉を続けられずにいると、母さんも肩を竦めて言い訳めいた口調になった。

「私もね、ちょっとどんな職場か聞いてみただけのつもりだったんだけど、今西さんがすぐ店長に聞いてくれて、人手も不足してるみたいで……」

 尻すぼみになって唇を摘まんだ母さんに釣られて、自分も唇をむにっと摘まんでいた。

「今日、先生に聞いてみる」


 

 予想外のスピードで進んだバイト話だったけど、溝口先生は簡単に用紙をくれた。

「短期じゃないんだよね?」

「はい」

「なにか欲しいものでもあるのかい?」

「いえ、ちょっと社会勉強に」

「そうか、頑張って!」


 あれから例の大学に希望を出した俺に、溝口先生はもっと偏差値の高い大学も紹介してくれたけど、「家から通えるので」と言うと、それ以上は何も言わなかった。

 色々と思う事はあるんだろうけど、きっと俺がどんな道を選んでも、溝口先生は笑って頑張ってと言ってくれるだろうと思う。

 中学時代といい、今といい、俺は担任の運がいいのかもしれない。変な運だけど、結構重要な気もする。



 バイト話を進めつつ、思い付きに従って料理にも取り組むことにした。

 料理を覚えたいと言うと母さんは嬉しそうにして、俺が借りてきた本から幾つかのレシピを手解きしてくれた。

 自作の料理が並ぶ食卓には中々の達成感があったけど、食べてしまえば跡形も残らないんだと気が付いて、何かに残しておきたくなった。

 そこで俺は、生まれて初めてSNSに写真をアップロードした。友人限定で。

 投稿を見た田中たちや鶴見たち、孝一や真結ちゃんからもコメントが付いて、それは想定内だったけど、甲田から『いいね』が付いて、スマホを落としそうなほど驚いた。

 結局それ以降付くことはなかったし、甲田はSNSを更新していないから、俺が『いいね』を返すかどうかで悩む必要はなかった。

 間違ったのか、からかったのかもしれない。




 修学旅行前日の月曜日、菊池たちにフットサルを辞めたことを告げた。

 当然理由を訊ねられ、合わない人が居たことと、小塚先輩が角が立たないように抜けさせてくれたことを報告し、「だからアルバイトを始めることにした」と言うと、一気に話題はそっちに移った。


「あそこのコンビニか! ローカルチェーンだけど最近増えてるよな。弁当美味しいから結構行くよ」

 珍しくテンションを上げた田中に、「散財して」と冗談を言うと、「兄貴にさせるわ」と、真面目な顔をした。

「俺まだ行ったことないや、弁当美味しいんだ」

 熊田がスマホで検索している。家の近くには無いらしい。

「美味しそうな新商品出たら教えてくれー!」

 菊池がわくわくした顔を向けてきて、林さんにも同じことを言われたなと思った。


 学校帰り、今西さんに言われた時間にコンビニに行くと、お客さんだと思っていた優しそうなおじさんが俺を裏に連れて行った。


「えーと、高瀬君だったよね?」

「はい、高瀬祐希です」

「私は店長の沢井裕一です」

 頭を下げ合い、俺は気持ち沢井さんよりも深いところまで頭を下げた。

「履歴書を書いてきました」

「あーはいはい、ありがとう」

 沢井さんは履歴書を文字通りサッと見て、「修学旅行なんだって?」と机に置いた。

「はい、明日から!」

 初めての履歴書が流し見で置かれたことに驚きつつ、勧められて椅子に座った。

「じゃあ帰ってきてからだね、来月頭からはどうかな?」

「え、採用して頂けるんですか?!」

「うん。断る理由も無いしね」

 沢井さんまで驚いたような顔をして、それから目に皺を寄せて笑った。

「今西さんがいい子だって言ってたし、勉強もできるんだろう? 力仕事も任せられそうだ」

「はあ……」

「やっぱり別のとこにしようって言われる前に、即採用!」

 沢井さんは優しそうな笑顔で立ち上がり、「ユニフォームの大きいのあったかなあ」と言いながら、奥のロッカーを開けた。

 アルバイトってこんなにあっさりと決まるものなのか。

 拍子抜けして、夕べ母さんと父さんと一緒に三枚も書き直した履歴書を見たら笑えてきた。

「シフトの希望はあるー?」

 ロッカーを漁る後ろ姿に、平日に入れる時間と、休日も大丈夫ですと答えた。

「本当かい?!」

 ビニールの掛けられたユニフォームの中から驚いたような声が上がる。

「あったあった、Lでいいかな?」

「はい」

 緑の鳥のロゴの入ったユニフォームを受け取ると、ちょっとだけ実感が湧いてきた。

「本当に土日もいいの?」

「大丈夫です」

「そうかー」

 嬉しそうにした沢井さんは、付箋にメモを取ると履歴書に貼り付けた。

「じゃあシフトは後日メールで送るから、予定を思い出したら連絡してね」

「はい」

 本当にここで働けるんだと思ってみても、さっきちょこっと湧いた実感はふわっとしたままで、なんとか『働く』という心持ちになろうとしたが、働いたことがない俺には難しかった。

「覚える事がいっぱいあるけど、分からなくなったら都度聞いてくれたらいいから」

「はい!」

「みんな面倒見いい人ばっかりだから大丈夫だよ」

 大丈夫、大丈夫。久しぶりに心の中で繰り返す。

「よろしくお願いします!」

「あーいいねえ、元気に挨拶できるってだけで優勝!」

 ガッツポーズをした沢井さんに笑ってしまった。

「ちなみに修学旅行はどこに行くの?」

「ええと──」




 そうして人生初のアルバイトが決まった俺は、翌日機上の人となった。


「おわーあったけー!」

 福岡空港を出た瞬間から空気の種類が違った。

 季節を戻ったような湿度と温かさが身体を包んで、どこか南国の気配を感じた。南国に行ったことないけど。

 初めての九州上陸。



 夕べ、バイトが決まった勢いもあって、思い切って小塚先輩にシューズのことで連絡を入れた。


『シューズ代はいらないからさ、受験生の俺に御守り買ってきてよ』


 返信と一緒に奈良の大仏の前で大仏ポーズをしている小塚先輩の写真が貼られて、胸がギュッとなるほど嬉しかった。距離感が分からないっていう先生の言葉を信じてみようと思えた。


 初日に訪れた太宰府天満宮で、先輩のと自分のと、高校受験のある真結ちゃんの分も入れて学業御守りを三つ買った。

 孝一には、『夢守』と書かれたミサンガみたいなのを買った。

 それから菊池たちと梅ヶ枝餅を食べた。

 焼き立てがあまりにも美味しくて、すぐにふたつ目を買って、四人で齧り付く写真を母さんと先生と小塚先輩に送った。

 あれから先生には連絡を控えている。

 心配させないように日中にメールを入れて、夜は止めた。

 バイトが決まったと連絡すると、『降りる駅をひとつ伸ばそうかな』と言ってくれて、すごく嬉しかったけど、『帰りが遅くなっちゃうよ』と返すと返事はなかった。


 歴史的な名所や自然豊かな場所を巡って、落ち着く暇がないほど移動時間もたくさん遊んだ。

 母さんに写真を送ると、『あれある? これある?』と移動する度に聞かれて、二日で荷物が満杯になってしまった。

「フロントで発送してくれるって女子が言ってたぞ」と菊池が教えてくれて、その手があるのかとホッとした。



「いいよなー、どこも歴史があってさ」

 二日目の夕方に、ハウステンボスの煌びやかなイルミネーションを見渡して熊田が言った。

「ここでそれを思ったのか?」

 田中が怪訝そうに振り返って、「違うけど」笑う。

「戦争の跡とかもあるけど、街並みも文化も、昔との繋がりを感じて羨ましいなってさ」

「北海道にはない?」

 菊池が聞くと、「自然しかないよ」と熊田は言い切った。


 菊池と田中の背中を見ながら熊田と並んで歩いていると、また熊田がぽつっと話し始めた。

「北海道以外の冬を知らないけどさ、昔の人はよくあんなとこで冬を過ごしたなと思うんだよ」

 大きな木靴に入る熊田を写真に納め、「寒いもんね」と相槌を打ちつつ、少し距離の空いた田中たちを目指してまた歩き出す。

「雪も降るし凍るし寒いし、なんでこんなとこに俺の祖先は居を構えたんだろうってずっと思ってたんだけどさ」

「うん」

「普通に父さんのじいちゃんが仕事で北海道に来たのがきっかけで、俺の親族は最近住み始めたばっかだったんだよね」

 俺は笑ってしまった。

「お母さんは?」

「出身は仙台」

 笑いが止まらなくなって、笑いすぎだと腕をどつかれた。

「でも最近さ、ちょっと北海道が恋しいんだ」

「そうなの?」

「道東は遠すぎるんだけど、でも北海道の大学もいいかなってちょっと思ってる。今の土地が嫌いなわけじゃないけどね」

「ふうん」

 熊田が進路の話をしたのは初めてだった。いつも考え中と言っていた理由はこれだったのか。

「今年からは雪かきしなくてすむわねーとか、タイヤ変えなくていいなんてラッキーとか母さんは言うけど、やっぱり少し寂しいっていうか。生まれた時から沁みついた慣習が北海道の冬にはたくさんあったからさ」

「そっか」

「寒いの嫌いだったのになー」

 二人で上に架かるイルミネーションを見上げながら歩く。

「ま、今年あそこで楽な冬を過ごしたらまた考えは変わるかもしれないけどな」

 熊田の笑い声を聞きながら、雪深い北海道の冬を想像した。いつか雪原というものを目の当たりにしてみたい。

「こんなんで大学決めるもんじゃないかな」

 熊田に聞かれて、自分の意志薄弱な進路決定に苦笑いするしかない。

「そんなことないよ、大学は四年もあるし、もしかしたらそれ以上行くかもしれない。場所も重要だよ。俺もとりあえず近くの大学に決めたけど、学びたいことはまだ思いつかないし」

 肩を竦めて見せると、熊田はホッとしたように笑った。


「おーいお前ら前見て歩けよー」

 顔を向けると田中と菊池がすぐ先で待っていてくれた。

「なんの話?」

 菊池に聞かれて、熊田と顔を見合わせ、「進路」と声が揃った。

「田中は警察だろ?」

 柔道をやっていると、同じく柔道をやっている警察の人と関わることがあるらしい。

「みんな凄く優しくていい人だからさ。菊池は空港で働きたいって言ってたもんな」

「そう、俺の特技英語だけだから」

 菊池は笑ったが、立派だよと三人で褒めた。

「俺たちは何しようかねえ」

「そうだねえ」



 ホテルに戻って夕食を食べながら、俺は引き続き将来について考えていた。

 中屋先生に一度言われてから、教師という道は少し気になっている。

 子どもを持つことのない俺が教師になんてなれるんだろうか。いや一生独身の教師くらいいくらでもいるんだろうけど。

 でも先生は、なんとなくなる職業ではないとも言ってた。

 たくさんの生徒を預かるんだからそりゃそうだよな。先生なんか卒業した俺のことまで気にかけてくれている。そんな俺が教師になりたいなんて言って、先生は喜んでくれるかな。いや、先生を喜ばせるために目指すわけじゃないけど。

「食欲無いの?」

 横から新田さんに話しかけられて我に返った。

「ちょっと考え事してた」

「またなんか悩み事?」

 新田さんはもうフルーツを残すのみとなっていて、俺は慌てて料理を口に詰め込んだ。

「進路が決まらなくて」

 もごもごと口を押さえながら言うと、新田さんは呆れたように笑った。

「修学旅行中は忘れなよ、楽しめないじゃん」

「そうだね」

「ちなみに私は看護師」

「そうなんだ、意外だね」

「そう? なんで?」

 新田さんがパインを頬張りながら眉を上げる。

「なんでと言われるとあれだけど、もっとこう、情報収集能力の発揮される職業かと」

「例えばなによ、探偵とか?」

「まあ、記者とか弁護士とか、警察もいいかも」

 警察ねえと新田さんが笑った。

「私ね人と話すのが好きなの。相手を知るのも好きだし。だから人と関わる職業が良くて、看護師なら給料もいいからいいなって。母さんが看護師なのもあるし、母子家庭だったけど、バリバリ稼いでくれたからお金に苦労しなかったっていうのもある」

 すらすらと志望動機が出てきて、俺はぽかんとなった。

「将来はどうなるかわからないからね、手に職付けなきゃ」

 口の中のものを飲み込んで、深く頷いた。

 そうか、将来どうなるか分からないって考えるのは俺だけじゃないよな。確かに医療関係は就職先も多いし、無くなる分野でもない。

 医療となるとあそこの大学じゃないか。いやいや、俺はあんまり血が得意じゃないんだった。医療は無理、と。

「考えてみると、医療も情報収集力は重要そうだね、症状から結論を導いて治療するわけだし」

「確かにそうね!」と二人で新田さんの職業選択に納得した。

「高瀬君はやりたい事がないのね?」

「そう」

「じゃあいい大学行っとけばいいのよ」

「そうだね」

 ようやくデザートにたどりついて、ブドウを噛みつぶした。


 最近、本格的な受験勉強が始まる前に親にカミングアウトした方がいいのかもと考える。そっちの方が自分の気持ち的には進学を素直にありがたがることができるし、もし拗れてしまったら就職に切り替えることもできる。

 こう考えるようになった理由は幾つかあるけど、もし親に受け入れてもらえたら、その居場所は永遠になくならないんだと思ったからだ。でも同時に永遠に失われる可能性も見えてしまって踏ん切りは付いていない。



 俺にとって、修学旅行での最大の気掛かりは入浴だった。

 中学の修学旅行は、みんなが体の変化に敏感で、部屋のお風呂を使う人が多かったから紛れられた。

 今回はどうしようと思ったが、なんと大浴場の利用は許可されていなかった。

 一般のお客さんの迷惑になるからか、過去にどこかの学校がやらかしたからか、時代の流れかは分からない。部屋風呂のみの利用。俺は心底ホッとした。

 ただ今日のホテルだけは大浴場が利用できるらしく、それなのに部屋のお風呂も立派で、どっちに入るかとみんなわいわいとしていた。

 熊田は大浴場に行きたいと言ったが、俺と菊池は疲れたと断ったので、田中と二人で出かけて行った。


「疲れたー」

 菊池がベッドにうつぶせて、気の抜けた声を出した。

「結構歩いたもんね」

 荷物を分けながら共感すると、「なー」と菊池が鳴いた。

「なあ俺さ、大浴場無理なんだけど」

「え?」

 ドキッとして菊池を見ると、眉をぎゅっと寄せて深刻そうにしている。

「普段はいいよ? 周りは知らねー人だし、でも学年中の奴らの裸を見るのも見られるのも絶対に嫌!」

 はっきりと言い放った菊池に笑って、「俺も嫌だよ」と白状した。

「マジ? 良かった俺だけじゃなかったー!」

 菊池はボフッとまたベッドにうつ伏せた。

 微妙に動機が違うことに罪悪感は感じたけど、俺もホッとした。

 のろのろとTシャツとジャージになった菊池が、「ちょっとだけ寝る」と布団に入って、俺はバスルームに向かった。

 立派なバスタブに浸かりたい気もしたけど、確かに少し疲れている気がしてシャワーだけにした。


 さっそく寝息を立てている菊池から距離を取り、髪を拭きながら今日撮った写真を眺め、幾つかをSNSへ、幾つかを母さんへ送り、うっかり一枚を先生に送った。

 ゆったりしたカウチにもたれていると通知が来て、先生からメッセージが届いた。


『今何してるの?』


 さっき夜に送ってしまったと後悔したが、カウチに胡坐を掻いて返事を打つ。

『田中と熊田はお風呂に行って、菊池は疲れて寝てて、俺は部屋でシャワー浴びて髪乾かしてる』

『修学旅行は楽しい?』

『うん。こっちはまだ少し暑い』

『こっちは肌寒かったよ』

『寒いところに帰るの嫌だな』

『でも帰ってこないとね』

 なんでもないやり取り。再会した頃みたいだ。

『お土産何がいい?』

『何もいらないよ』

『こんな機会じゃないとお礼も言葉ばっかりだし』

『それでいいんだよ』

『そうかな』

『いつもありがとうって言ってくれるから十分』

 まるで小学生扱いだなと思って、適当に買ってしまおうと決めた。

 楽し気な声がドアの向こうを通り過ぎる。


『高瀬の声が聞きたい』


 ぽっとそんなメッセージが届いた。

「え」

 びっくりして声が出てしまった。

 きょろきょろと見回して、菊池が寝ている部屋とカウチとの仕切り戸を閉め、先生に繋がる通話ボタンを押した。


「もしもし」

「俺が掛けたのに」

「別にいいよ無料通話だし」

「そうか、ありがとう」

 旅先の、しかも隣で菊池が眠っているところで聞く先生の笑い声は、ちょっと特別な音に聞こえる。

「どうかしたの?」

 声が聞きたいなんて、ちょっとくすぐったい。

「いや、本当に声が聞きたかっただけだよ。最近夜には連絡をくれないしね」

 責められているような気持ちになって、なんて言っていいか分からない。

「ごめん、いいんだ。楽しいならそれでいい」

「うん」

 頷いて、なぜだか漠然と今年一年を思い返した。


 今はまだ少しだけ落ち込んでいるような場所にいるけど、それでも悪くない一年だった。

 先生、俺は楽しく修学旅行してるよ。あとさ、写真を初めてSNSに上げたんだ。友達に限定して公開した写真にみんながいいねしてくれて、凄く嬉しかった。

 ずっと思ってたんだ、これからの学校生活が独りぼっちだったらどうしようって。修学旅行もあるのにって。あの日、先生に会うまでは。


「凄く楽しいからね」

「え?」

「こうやって楽しく学校生活が送れるって一年の終わりには思ってなかった」

 小さい声で告白する。こんな気持ちを言葉に出来るのは、今も昔も先生だけだ。

「そばにいてくれてありがとう」

「話を聞いてただけだよ」

「だけって……」

 それがどんなにありがたかったか、分かってないのかなこの人。

「これからもたくさん楽しいことがあるよ」

「本当?」

「俺を信じて」

「分かった」

 窓の外に見える暖かい光の並びに視線を伸ばす。相変わらず先生が言うとなんだって信じられる気がする。

「お土産勝手に買うから」

「いいのに」

「奥さんにあげて」

 少し黙った先生は、「喜ぶよ」と、応えてくれた。

 ドアが開く音がする。

「あ、帰ってきた」

「じゃあ切るよ」

「おやすみなさい」

「おやすみ」










 高瀬との電話を切って、酷く寒い気がしてバスタブにお湯を張って浸かった。

 一体何時ぶりだろう、お湯に体を沈めるのは。

 絵美は温泉や銭湯が好きだったから、寒い時期には度々入りに行った。始めはよく待たされて、俺も段々長風呂になっていった。

 同時に出たりすると大げさに喜んでいたっけ。

 するするとそんなことを思い出した。

 そうだった、そんなことがあった。

 宝物を見つけたような喜びが湧いたのも束の間、やっぱり頭の中は取り留めない。

 記憶の引き出しを色々と開けてみても、どこの温泉だったか、秋口だったのか、春先だったのか、何を食べたんだったか……。

 断片的な映像は、どれひとつちゃんとした一日を作り出すことはなくて、結局考えるのを止めるしかなかった。

 役に立たない頭が重たく感じて、バスタブの縁に頬を預ける。

 お湯に浮いた髪の毛を流しながら、知らずため息を吐く。


「そばにいてくれてありがとう」


 ハッキリと高瀬の声が耳の奥に響いて、記憶を手繰るのを止めてしまった自分を慰めてくれているような気がして、感傷的な気持ちが唇を震わせた。

 俺の方こそ、そばに居てくれてありがとうと言いたかった。

 いつも感謝を伝えられてばかりで、どんどん胸が苦しくなる。お礼を言うどころか嘘ばかり増えていく。

 苦しくて、もう痛いくらいだ。

 信じてと言って励ましたすぐ後に嘘を吐く俺をこれ以上支えにしてはいけない。気を遣って距離を取っている高瀬に合わせて、離れてやらなきゃいけない。

 楽しい高校生活を送れている。帰ってきたらアルバイトも始まる。もう大丈夫だ。


 どうしたらいい? どうやって俺は高瀬から離れたらいいんだろう。

 何もない部屋で、一体何を待って生きればいい?


 お湯を掬って顔を洗った。涙が滲みそうだった。


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