第44話 さようならフットサル



 結局俺は山下さんに耐えられなかった。


 あの人は、俺がいつまでもぎこちない態度でいることが許せないのか、ただ好いてもらいたいのか、ますます俺に絡んできた。

 いつも近くに居て、絶えず話題を振ってくる。フットサルのことや学校のこと、若者の間で流行っていることなんかを興味深げに。

 周りの人だって会話に入るし、傍から見れば何の問題も無い交流だ。でも俺は、あの強い眼差しを見ていることができず、早く会話が終わるよう、過不足がないように気を付けて淡々と答える。

 でもそれでは駄目だったんだろう。いや、それが駄目だった。

 もっと楽しそうでなければいけなかったんだと思う。

 目を見て、興味を持って、この人を好意的に思っていると納得させなければいけなかった。

 でも俺にはそんな風に振舞う余裕は無かったし、そんな気も無かった。

 そばに寄られるたび、言葉を交わすたびに自分の性欲が作り出した夢の中の性交を現実の山下さんが補完していく。

 吐息や、声や、腕の重み。高い体温と体毛の濃い太腿や、俺を見る強い眼差し。

 何度も逃げ出したくなった。でも身動きが取れなかった。早く試合が始まって欲しかったし、休憩時間は息苦しかった。

 家に帰っても、夜眠るのが怖かった。

 ついにフットサルに行くのも気が重くなって、気が付くともう二週間、体調不良や嘘の用事を言い訳に休み続けた。


 そしてまた火曜日。

 修学旅行が来週に迫っていた。今日なんとか休めれば、準備があると言って終末は行かない言い訳が立つだろう。

 そんなことを考えていたら、小塚先輩がいつかのようにクラスに来て俺を手招きした。

 瞬間、心が重くなったけど、懐かしい気持ちも思い出して、一緒に廊下の突き当りまで歩いた。

 歩きながら、フットサルでの楽しかったことを回想していた。でもそれはどれもあの人が居ない時のことだ。今はもう、なんとか行かないで済む理由を考えている。


 修学旅行が終わったらどうしよう。


「先輩、俺もうフットサル行けません」


 気が付くとそう口にしていた。

「え、なんで?」

 小塚先輩は心底驚いた顔で俺を見た。きっと休んでる俺を心配してきてくれたんだろう。

 床を見ながらいくつか口で呼吸して、足先から震えてくる身体に力を入れた。

「俺、男の人が無理なんです」

 え、と小さく音がして、小塚先輩が声を潜める。

「チームでなにかあった? 暴力とか?」

「いえ、そうじゃなくて」

 喉が渇いている。身体も震えてきた。自然と田所先生にサッカーを辞めると話した日のことが思い出された。

「高瀬? なにかあったの?」

 顔を上げて、心配そうな小塚先輩と向かい合った。

 嘘は、思いつかなかった。


「俺、ゲイなんです」


 言ってしまった。先生以外の人に。

 顔は上げていられなかった。

 足元がとても遠く感じて、右手の指で左手の親指をきつく握った。

「そういう自分にまだ慣れてなくて、男の人が近くにいるのが怖いんです」

「そう、だったんだ……」

 小塚先輩の声は囁くようだった。

「皆さんは大好きです。優しいし、フットサルも楽しかった。今までは何も……俺には、何も問題なかった。でも、山下さんはちょっと」

「あぁ」

 先輩が嘆くような音を出した。

「俺には凄く怖いんです。もう触らないで欲しいし、近くにも居たくない」

 大きな波のように強引に俺を攫っていく。後ずさっても満ちてきて、逃げられない。

「あの人のせいじゃないんです。俺が、無理なだけですから」

「……」

 沈黙は当然だ。

 もう取り消せない。

 やってしまったという気持ちもあるなか、どこかホッとしてもいる。

 楽しかったフットサルが息苦しい時間に変わってしまって、サッカーの終わりと重なって、もうずっと悲しかった。

 先輩は、どう思ったかな。

 水際の砂に埋もれていくように、今にも足先から不安に飲まれていきそうだ。


「……分かるよ、分かってた」

 力のない声が、俯いた俺の顔を引き上げた。


「気が付いてたんだ。高瀬が居心地悪そうにしてるって。前に、俺もあの人にああいう風に絡まれてキレたことがあるんだ」

「……先輩が?」

 小塚先輩は困ったように笑った。

「あの人はびっくりしてたけど、全然堪えないんだ。でも、それからはもうやたらと絡んで来なくなった。だから、高瀬もそのうちキレたらいいと思ってたんだ」

 想像もしていなかった言葉に、身体も思考も固まってしまった。

「鈴木さんといつ高瀬がキレるかななんて話してた。嫌なら嫌だって言うと思ってたんだ」

 先輩の目と俺の目は合っていたけれど、分厚いガラスで隔てられているみたいだった。

「ごめんあの人を放置して。そんな風に思いつめてるとは考えもしなくて」

 耐えられない圧が、俺を押し潰しそうになっている。

 分かってる、いつもおかしいのは俺だ。

「いえ、急にこんなこと言ってすみません」

「いいんだよ全然。あぁ本当になんて言っていいか。本当にごめん」

 俺は水中にいるようにゆらゆらと首を振る。

「ごめんなさい……ずっと休んで」


 本当は少し期待していた、山下さんの仕事がまた忙しくなって、来なくなるのを。

 それくらいには、あそこは俺の居場所になっていた。でももう、言ってしまった。

「いいんだよ、誰にも言ったりしないから大丈夫」

 俯いた視界に、先輩の手が俺に触れようとして、ためらって止めたのが映った。

「みんなには上手く言っておくから、高瀬は何も言わなくていい。何も心配しなくていいよ」

「すみません」

 俯いたまま何度も頭を下げた。

「気にしないで」



 そうして俺はフットサルを辞めた。

 終わってみると、たったの三か月だった。

 ゴールを決めるのは楽しくて、アシストをするのはもっとわくわくした。でも俺は、またあれが原因で続けることができなかった。

 性欲と理性は別物だって。でもまだ俺には納得できない。俺はあの人が苦手だし、そんな人に反応する自分への嫌悪感に耐えられない。


 嫌なら嫌だって、言うと思ってた。


 小塚先輩の言葉が耳に残っていた。

 鈴木さんは、俺から言おうかと言ってくれていた。でも俺はそれを断った。耐えられると思ったから。

 俺はあの人に興味があったのかもしれない。強引に詰められる距離に何かが引っかかっていた。単純にそうされるのが嬉しかったのか、性格はともかく、たくましさが好みだったのかな。

「気持ち悪い」

 首をたくさん振って、涙が出てこないように目をしかめた。

 俺はどんな人が好みなんだろう。

 ずっと考えないようにしていた。でも、もうそろそろそれを詳しく考えなくてはいけない。間違えたくない。体が呼ばれる方に任せて嫌悪感にまみれたくない。それに俺は、先生に勧められたほぼ毎日の自慰行為すら、結局できていなかった。



 フットサルを辞めたことも寂しかったけれど、それ以上に小塚先輩から丁寧に距離を置かれたことに酷く傷ついてしまった。

 一日おきには来ていた下らないやり取りが無くなって、学校で会っても前みたいに、「よおー!」なんて言って来てくれなくなった。ただ手を上げて優しく笑ってくれるだけ。

 何をわがままを言ってるんだろう。無視されているわけじゃない、プライバシーも気遣ってくれたじゃないか。

 でもやっぱり自分がゲイだからかもと思うと、胸が締め付けられた。

 問題がなかったのは俺だけで、そうだと分かったら俺に触れられるのが嫌な人だっているのは分かっている。

 考えないようにしていたことが大きく膨らんで、俺はまた菊池たちとも少し距離を取ってしまった。

 先輩がどう言ったのか、鈴木さんや、うるさそうな萩原さんでさえ理由を聞いてこなかった。もちろん引き留めて欲しかったわけじゃないけど。

 チャットグループを抜ける時には、何か一言くらい言うべきなのかもと迷った。でも何も言わずに抜けた。

 居場所が欲しかったのに、ひとつ無くしてしまった。



 放課後、寄るところがあると言ってみんなとは違う方へ歩いた。別に何もなかった。ただ一人になりたかった。

 この方向へ十五分も歩けば図書館がある。久しぶりに行ってみようと決めて歩いた。


 図書館は混雑していた。自習室は学生でいっぱいで、点在するテーブルも中高生で埋まっている。受験生かな。うちの制服も見つけたけど、同じ学年ではなかった。


 新書から適当にタイトルで決めた二冊を手に取った。

 そう言えば、トルコ料理が食べたいと母さんが言っていたっけ。

 

 料理本は想像よりもはるかに多かった。

 色々な国のレシピはもちろん、郷土料理から懐石料理、人気のカフェや居酒屋レシピなんていうのもあって、どこを開いてもパッと目を引くほどおしゃれに盛り付けされている。

 料理におしゃれと感じる感性を俺はどこで身に着けたんだろうと考えながら、ゆっくり背見出しを眺め、ようやくトルコ料理の本を手に取った。

 近くの腰掛が空いているのに気が付いて、そこに座って三冊あったトルコ料理の本を順番にパラパラと捲った。

 トルコ料理が世界三大料理だと言われているのを知っているけど、この料理本はどれも状態がいい。トルコ料理は難しいのか、材料が手に入りにくいのかなと思いながら、あまりよく読まずに発行日の新しい一冊を借りてみることにした。


 決めた本とリュックを置いて椅子をキープしながら、もう一度眺めていると、幾つかの背見出しがいっぺんに目に飛び込んできた。

『おひとりさまの節約レシピ』

『男一人暮らし、一か月作り置き』

『どんぶりひとつで完結・怒涛の一人前料理』

 単身者の気を引く本のタイトルが、トルコ料理なんかよりもずっとたくさん並んでいる。

 世の中には色んな理由で一人で生きている人がいる。俺もいずれ一人で生きていくんだし、料理くらいはできないといけないんじゃないかな。

 洗濯機は使えるし、掃除も割と好きな方だ。そうだ料理をしよう!

 思い立った勢いで、家庭料理の本を幾つか手に取り、初心者向けらしいのを二冊ほど選んだ。これ以上は重たくなるなと切り上げて、興味本位で手に取ったイタリア在住の女性のエッセイが面白くて読みふけっていると、二冊読み終えた頃にはすっかり外が暗くなっていた。もう六時を五分ほど過ぎている。

 急いで母さんに、『図書館にいる。今から帰る』とメールを送った。

 貸出カウンターはもう閉じていて、セルフの貸出機で本を借りて外に出た。

 重いリュックを揺らして来た道を戻る。

 歩きながらバス時刻をチェックすると、乗れるか乗れないかぎりぎりの時間だった。

 少し迷って、走ることにした。


 何とかバスに間に合って、ホッとして吊革に掴まった。心拍はすぐに落ち着いて、呼吸も穏やかに戻っていく。

 随分体力が戻っていたのに、また運動不足になっちゃうな。


 早く先生と話したい。


 もうすっかり電話するつもりでいた。頼りすぎているかな。でも今日は先生の声が聞きたい。フットサルを辞めたことはまだ言えていなかった。


 停留所に近付くと、別の経路からのバスが先に停まっていた。

 降車する人の列に並んでぼんやりと待っていると、前のバスから先生が降りてきた。

「えっ」

 前に立っていた人が少しだけ俺を振り返った。

 背の高い先生を見間違うことはない。俺は前のバスが動くのをじりじりとした気持ちで待ちながら、先生がすぐそこのコンビニに入っていくのを見届けて、動いたバスを急く気持ちでさらにじっと待った。


 コンビニに入ると、すぐに棚の上から頭が飛び出ているのを見つけて笑ってしまった。

「先生!」

 こっちを向いた先生が俺を見て、あっという顔をした。

「高瀬か」

「なんで?」

 乱暴に疑問だけを投げると、先生は変なことを言われたという顔をして、「近所だから」と言った。

「俺もあのバス停が最寄なんだけど」

「いつもはひとつ前なんだ。でもここからでも十分かからないくらいかな」

 俺は少しだけがっかりして、でもここから十分なら、うちからもそう遠くないんだと気が付いて嬉しくなった。

 そうだ。あの公園で会ったんだから、そんなに遠いはずがなかったんだ。

「どうして今日はここで降りたの?」

 尋ねながら、洗濯用洗剤を持つ先生の左手に指輪が無いことに気が付いた。

「洗剤が切れたんだ」

 持っている商品の通りの答えが返ってくる。

「……頼まれたの?」

 指輪のことが気になりながら、さらにそう尋ねる。

 先生は、「俺が使い切ったから」と言った。

 その答えはとても全うな気がしたのに、なぜかしっくりとは来なかった。


 入店した手前、何か買おうかと思ったけど、いるものも無くて、なんとなく先生と一緒に並んだ。

「買うものってそれだけ?」

「そうだよ。高瀬は?」

「先生のこと追いかけて入っただけ」

「じゃあ俺の連れということで」

「うん」

 二人で並びながら、俺はまだ指輪の事が気になっていた。

「先生、痩せた?」

 チラっと窺うと、先生は前を見たまま、「そうだね、少し」と答えた。

 そう言えば中学の時に、痩せて指輪を無くしたって言ってたっけ。ちょっと安いのを買って誤魔化したって。

 また無くさないように外しているのかもな。うん、しっくりきた。


 レジは混んでいるのにひとつしか開いていなくて、短い列ができていた。

 前の男性がイラついたように身体を揺らし始めて、なんとなく少し後ずさった。

 と、背中にポンと何かが当たって、先生の手が俺の背中を優しく摩った。

 大丈夫だよって声が聞こえた気がして、小さく深呼吸を繰り返した。

 随分臆病になっている。田中たちも不思議そうな目で見る。俺が一人で行動するから。

 移動教室を先に行ってもらったり、昼ご飯を食べた後はトイレに立って、そのままふらふらと人気のないところを見つけてはじっとした。

 学校で一人になるのは意外と難しい。トイレの個室ですら落ち着くことはできない。一年の時に一時期使っていたレクリエーションルームは三年生のたまり場になっていた。


 列が進んで、ドアが開く聞きなれたメロディが鳴った。

「俺、フットサル辞めたんだ」

 軽快な電子音に紛れるように報告した。

「え?」

「やっぱり、怖かった」

 先生は何も言わず、また俺の背中に触れた。今度はなんて言ってくれてるのかな。頑張ったね、かな。

 あのとき、俺に手を伸ばそうとして止めた小塚先輩に悲しい気持ちになったけど、きっと先輩の手がこんな風に俺を落ち着かせてくれることはなかった。

 先生に怖かったと言った瞬間、先輩から言われた、「嫌なら言うと思った」という言葉が浄化された。

 俺は嫌だと言えなかった。あの人に惹かれたからじゃない。俺はあの人が嫌いだった。夢に見て吐くくらい嫌いだった。

 だから、俺が怖かったのは、触れられて嫌がる自分を見られることだ。

 どんな風にやり過ごせばいいのか分からなかった。

 意固地になったように俺を懐柔しようとする山下さんが向こうから離れてくれるのをただじっと待っているしかなかった。

 嫌なら嫌だと言っていい。それはどんな時もそうなんだろう。でも俺が嫌だと感じる理由は小塚先輩とは違う。それに気付かれるくらいなら、気の弱い人間だと思われている方がよかった。

 レジが前の人の番になって、後ろにも人が並んだ。

「外で待ってていい?」

 先生が頷くのを見て、コンビニの外に出た。


 ガラスの向こうで微笑む先生を見る。

 どうして先生といると、絡まってた感情が解けていくんだろう。

 フットサルを辞めて小塚先輩との関係が変わってから、じっとしていられずに校内をうろうろと彷徨い歩いている。

 動揺している自分を誰の目にも留めて欲しくなかった。視界から消えるから居ないものだと思って欲しい。

 でも先生の前ではそうならない。ホッと息を吐いて、自分の主体性が戻ってくる気がする。触れられてもちっとも動揺しないし、自分を見つめてやる余裕ができる。

 この安心感は先生が先生だからなのか、大人だからなのか、それとも愛する人がいる人だからなのかは分からない。全部なのかな。


 出てきた先生は俺に板チョコをくれた。俺は喜んで久しぶりのそれを齧りながら、小塚先輩にゲイだと告白したことも話した。

 先生は驚いた顔をしたけど、「プライバシーは守ってくれてるよ」と言うと、ホッとしたように頷いた。


「俺、わがままなんだ」

「わがまま?」

「先輩は誰にも言わないでいてくれてるし、見かけたら手をあげてくれる。でも、前みたいに何でもない会話とか、面白かった話を聞かせてはくれない。朝からしょうもない画像送りつけて来たり、そういうのは……もうないんだなって」

「まだ距離感が分からないんじゃない?」

「そうだよね、俺だって分かんないから辞めたんだし」

 ぽりぽりと砕けて溶けていくチョコレートを舌と上顎で押し舐めながら、すっかり暮れた空を見上げると、星が幾つか瞬いている。

 こうして落ち着いてみると、もう少しなんとかできたんじゃないか、なんて思ってしまう。

 限界になる前に小塚先輩に話したらよかったのかもしれない。でも今の距離感を考えると、ゲイだと伝えてフットサルを続けることができたのかは疑問だし、伝えずに人の手を借りて山下さんを遠ざけるのは酷く子どもじみている気がした。

 結局無理だったんだ。俺には無理だった。サッカーもフットサルも。そう思うしかない。

「しょーがない、しょーがなーい」

 夜空に向かって放った『しょうがない』が顔に降り注いでくる。甘いチョコの香りがして、鼻がつんと沁みた。

「なんで涙出てくんだろ」

「高瀬」

 俺を呼ぶ先生の声は電話で聞くよりも低くて、からっぽな胸によく響いた。

「しょーがないって言ってんじゃんね」

 涙は三粒ほど零れて止まった。チョコを絶えず齧っていたら、そこまで気分は落ち込まずに済んだ。


 先生と家への道を歩いた。一緒だったのはほんのちょっとで、すぐに分かれ道になった。

「家まで送ろうか?」

「いいよ、先生の帰りが遅くなっちゃうし」

「そんなの気にしなくていい」

 先生の目を見ながら、簡単にそう言える先生と奥さんの関係を思った。

 お互いに信頼し合っているんだろうな。この人に信頼されるってどんな気持ちなんだろう。奥さんはどんな人なんだろうな。

 先生の私生活を想像しようとすると、いつも脳がそれをよく思わない。上手く想像力が働かなくて、直感も熟考も進まない。今も結局そうなって考えるのを諦めた。

 今日は先生に会えたから、夜に奥さんとの時間を奪わずに済む。それを当たり前にしなきゃ。


「俺、バイトしようかな」

「え?」

 驚く先生に笑って見せて、自分でも今日の自分が場当たり的なのを感じる。

 どうにもジッとしていられない。寄り道がしたくなって、料理を始めたくなった。それでさっき、バイトもいいなと思ってしまった。

 そわそわした情緒に揺らされて、行動が短絡的になっている。でも何かしなきゃいけない気がして落ち着かない。落ち着いたらまた凄く落ち込んで、先生が必要になってしまう気がする。

「さっきのコンビニ、バイト募集してた。急募! って」

 先生を待っている時に目に入っただけだったけど、ついそう言っていた。

「本気で言ってるの?」

「うん、先生もたまに寄ってくれそうだし、社会勉強に?」

 笑顔で口にしてみると、なんだか本当にやってみたい気になった。

「親に相談してみよ!」

 まだ少し困惑顔の先生に手を振って、「またね!」と家に向かって走った。走ってからリュックの重たさに体がぶれた。

 肩紐を握って、真っすぐ走った。

 料理を覚えよう。バイトをして自分でお金を稼いで、どうなるか分からない将来の準備をしよう。まだ先生という居場所があるうちに。居場所は簡単に無くなってしまうって分かったから。









 走っていく高瀬を見送って、自宅への道を歩いた。

 せっかくの居場所だった。諦めたサッカーの代わりに得意なことができる場所が見つかって、馴染み始めたところだった。

 胸が少し苦しい感じがする。

 袋を持ち直して、高瀬のように夜空を見上げた。

 

 ボールを蹴る高瀬は楽しそうだったな。

 どうして誰も高瀬が困っていることに気が付いてくれなかったんだろう。

 声を上げることもできずに、一人で我慢してたんだろうな。

 どうしたらいいか分からなくて、じっと時が過ぎるのを待って、それでも耐えられなくて、行けなくなったんだろう。

 休む時にも嘘もついたんだろうし、それもきっと悲しかっただろう。

 ゲイだとどんな風にその先輩に伝えたんだろう。

 思い切ったんだろうか、辞めるために仕方なく言ったんだろうか。言う前か後か、もしかしたら今だって、やっぱり凄く怖かったはずだ。

 先輩は精一杯普通にしてくれているのかもしれない。戸惑っている可能性はある。でも、しょうがないと言った高瀬は傷付いていた。たった数粒の涙が余計に俺の心を切なくさせた。

 どうして高瀬はもう二週間も行けずにいたことを話してくれなかったんだろう。

 また見逃してしまった。

 溜め息が出て、暗い道に視線を落とした。

 

 結局俺は何の意味もないただの嘘つきだ。今だって誰もいない家に向かっている。

 気を遣って走って行ってしまった高瀬が傷付いていると分かっているのに、俺は嘘のせいで追いかけられない。

 しょうがないと言って泣いた高瀬に触れられなかった。触れたら抱きしめてしまいたくなる気がした。

 どうして抱き締めたらいけないんだっけ。

 俺が教師だから? 大人だからかな。友達なら多分いいはずだ。高瀬が女の子なら駄目だ。でも高瀬は男の子だけどゲイだから、やっぱり抱き締めて慰めるのはいけないのかもしれない。

 馬鹿みたいなことを考えながら、自分の靴音がアスファルトを鳴らす音を聞いて歩く。

 もうすぐ家に着く。誰もいない家に。

 分かっている。抱き締めたいと思うのは無力だからだ。

「アルバイトか」

 ちゃんと新しい事に目を向ける高瀬に、俺はもう必要ないのかもしれない。

 まだ足踏みさえ始められないような俺は。

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