第43話 フットサルの終わりの始まり


 学校祭が無事に(とは言い切れないけど)終わって、今度は来月の修学旅行に向けてみんなの心が浮足立ち始めた頃、フットサルで変化が起きた。



 その人は社会人の山下さんという人だった。

 仕事が立て込んでいたとかで、今まで一度も来ていなかった人だ。

 小塚先輩は、「元気な人だよ」と言っていた。

 へえそうなんだ、楽しみだななんて思っていた。その時は。

 


 体育館に着くと、初めて見る男の人がぐんぐん近付いてきた。

「君が高瀬君?」

 聞くのと同時に手を握られた瞬間、苦手なタイプだと思った。

 この人が山下さんだと分かったのは、良くない第一印象が付いた後だった。


 年齢は二十五歳、背は俺よりも少し小さいくらいでほぼ変わらない。

 身長はともかく体格が良くて、サッカーよりは野球選手に似た厚みがある。

 黒々とした頭髪はきちんと整えられ、声が大きくハキハキとしていて、営業マンと聞いてイメージする通りの雰囲気だった。

 真っ直ぐな眼差しと笑顔。曖昧さのない愛想の良い受け答え。一見すると好感しかないけれど、それら全てがこの人の強引さを相手に受け入れさせるための布石のような人だ。

 別に何か買わされるわけではないけど、こちらの戸惑いや遠慮など全てを無視して手を取られた瞬間、怖いと思ってしまった。

 自分が拒絶される可能性など一ミリも頭に無いようだった。


「初めまして」

 厚い手に包まれた自分の右手を憐れむ気持ちで見つめながら、なんとか挨拶を絞り出す。

「上手なんだって? 楽しみだな!」

「ヤマさん、高瀬を威圧しないで」

 小塚先輩が俺の腕を引いて離してくれた。

「あ、ごめん! また距離近かった?」

 謝って身を引くのかと思いきや、今度は好奇心の溢れる目でじっと見てくる。

 顔を隅々まで覚えられてるという感じで、すごく居心地が悪い。普通の人にはいい印象なのかもしれないけど、俺には怖いと感じてしまう。

 なんでか分からないけど、この人には逆らえない気がする。色々な意味で。


「そんな構えないでよ!」

 山下さんは俺の髪をくしゃくしゃっと混ぜて、入ってきたB-DASHのメンバーに、「久しぶり!」と挨拶に行ってしまった。

「ああもうー」

 萩原さんが口を尖らせて俺の髪を戻してくれた。

「あの人ちょっと勝手なんだよね」

 鈴木さんが困った顔で笑った。

「そうなんですか」

 よかった、思うところがあるのは俺だけじゃないらしい。

「さ、やろやろ!」と小塚先輩が明るく俺の背中を叩いた。

 大丈夫、みんな良い人だから。

 そう自分に言い聞かせて、瞬間的な嫌悪感を忘れ、いつも通りの練習に入った。




「怖いの?」

「うん」

 俺はまた先生に頼っていた。だって先生しかこんなことを話す相手がいない。

「先生、俺さ」

「ん?」

「多分、されたい方なんだ」

「されたい?」

 穏やかな声が聞き返してくる。俺は息を吸って思い切って言葉にする。

「その、男の人に」

 緊張で息が吐けない。

 先生は、「そうなんだ」と、調子を変えないで頷いてくれた。

 ホッとして続ける。

「うん。だからって言うのも変だけど、それであの人が怖いんだと思う。逆らえない感じがするっていうか、あの人は別にそうじゃないけど、なんていうか……」

「気になるの?」

 そう言われると違うと言いたい。でもある意味ではそうだ。

「分かんないけど、近付きたくない」

「怖いんだもんね」

「うん。ごめんなさい、意味分かんないよね」

 相変わらず先生にはヒントの少ない会話を強いていて申し訳ない。でも先生はちゃんと受け付けてくれるから、ついまとまっていない話も吐き出してしまう。

 先生は、ある意味では鮮度がいいとも言える俺の体験を一緒に分別する手伝いをしてくれる。

「心が乱される相手っていうのはいるものだよ」

 こうして俺にとって初めてのタイプの男の人を『心が乱される相手』と分類してくれる。

 この間あんな風にいじけたのに。大人の懐って海のように深い。

「確かにそんな感じかも。心が乱された」

「そういう相手に惹かれていく人もいるけど、直感は大事にした方が良いと思うよ」

「でも、こんな風に思うのって凄く勝手だし失礼だよね」

「気にしないでいい、みんな頭の中では好きにしてるよ」

 なんでもないように言われて、「先生も?」とつい試すように聞くと、「そうだよ」とあっさり返事が返ってきた。

 先生は多分、俺を安心させるマニュアルを持っているんだと思う。

 ゲイに悩む中高生攻略本が教師に配布されているのかも。

「あまり考え過ぎないで、怖いなら離れていい。無理なら行かなくてもいいんだ」

「やだよ! せっかく慣れてきたのに」

 苦手な人は一人、みんなは好きだ。フットサルだって。

「楽しいんだ」

「うん」

「試合中の高瀬かっこよかったもんな。またゴール貰いに行こうかな」

 嬉しくて、いつでも来てよって言いたくなる。でも曖昧に返事をした。

 だって先生のプライベートの時間だから。まあ今もだけど。




 やめたくない。大丈夫って、そう思いたかった。

 でも山下さんはそれから毎回顔を出すようになった。溌剌として、強引。


「高瀬君、もっと受けて勝負してもいいんじゃない?」

「え?」

 ひとゲーム終えて給水をしていると、山下さんがそばに寄ってきた。

「君上手いし身長もある。そんなに動いてマーク外さなくてもいいよ」

「それは……」

 分かってるよそんなこと。

「じゃ、ちょっとやってみよう!」

 完成された笑顔を向けてきた山下さんは、励ますように俺の肩を叩いて、「さ、もいっちょー!」と、みんなに休憩を切り上げさせた。

「高瀬の好きにやっていいよ」

 後ろに居た鈴木さんが、山下さんに叩かれた肩を摩った。

「ちゃんと囮にもなってるし、まあ疲れるとは思うけどさ」

 心中で迷った。でも、できないと思われるのは少し癪にさわった。できるよ。やってできると見せてから、それでも俺は逃げ回る選択をしてると示さなくちゃいけない。そう決めてコートに戻った。


 受けて捌いて、受けてかわして、ほらねできるよ。何度もやったことがある。みんなも上手く動いてくれる。

「やっぱりポストプレーも上手いんだ!」

 山下さんは俺を強引に抱き寄せた。

「いたっ!」

「あ、ごめんごめん」

 笑われて力を抜かれたけれど、肩に掛けられた腕は離してくれない。

 あーもう触るな! 離せよ!

「高瀬はまだオプション隠してるのー?」

 萩原さん助けて!

「いい選手が入ったなあ」

 山崎さんがしみじみ言う。

 みんな笑って気にも留めない。そうだ、こんなの別に普通の触れ合いだ、肩を組むくらい全然普通。動揺しているのは俺の問題だ。

 触れ合った身体に山下さんの大きな笑い声が響く。肩を掴む分厚い手、笑う度に腰骨がぶつかって、高い体温が身体に伝わってくる。香水の香りが纏わりついてきて、ひどく不快で、胸がむかむかする。

「高瀬くん」

 不意に小さい声で山下さんが俺を呼んだ。

 振り向くと直ぐそこに顔があって、真っ直ぐな目が俺を見て笑う。

「できたら俺にも、もう少しパスくれる?」

 わざと囁くように言われて、思わず身を捩って山下さんの腕から逃れた。

「ちょっとトイレ」

 走ってそこから逃げ出した。


 暗い廊下のすみっこで動けなくなって、ぶるぶると身体が震えた。

 心が乱される。

 直ぐそばにある目、耳に掛かる息、ミントの香りの囁き声。なにもかもぞわぞわして動悸がする。気持ちが悪い。怖い。

「先生、助けて」



「飲みに行かないの? 金曜だよ?」

 山下さんが驚いた声を上げた。

「お、じゃあ行く?」

 山崎さんと小野寺さんがそれに乗る。

 俺は酷く疲れた気がして、ジャージを羽織りながら聞くともなく聞いていたが、ふと腕を取られた。

「高瀬君の歓迎会も行けてないんだよな、俺」

「あ、いや俺は」

 なんでいちいち腕を掴む必要があるんだよ!

「高校生を遅くまで連れ回せないよ」

 鈴木さんが首を振る。

「十一時まではいいんじゃなかった?」

「親が心配するでしょー」

 萩原さんが言うと、「えー?」と、まるでそんなの問題にする方がおかしいと言うような調子で山下さんは声を上げた。

「飲みたいだけでしょ? 大人だけで行ってきてよ」

 小塚先輩が山下さんの腕を外してくれて、俺はようやくホッと息を吐いた。

 山下さんに背を向けて、リュックにドリンクボトルをしまう。掴まれた手に力が入らなくて、苛立って指先を齧った。


「高瀬、山下さん苦手でしょ」

 帰りの車で小塚先輩が言った。

「え、あ……」

 やっぱりバレてた。

「あの人、自分に自信がありすぎてねー、時々ちょっと押し付けがましいよね」

 鈴木さんがハンドルを切りながらバックミラーで俺を見る。

「うちはやりたいようにやっていいチームだから、高瀬の好きにしてていいよ」

 小塚先輩が振り向いて笑って見せてくれた。

 今日のポストプレーのことを言っているんだろうな。

 俯いて、さっき齧った指先の歯形を親指で撫でた。

「プレーについてはいいんですけど、俺、人に触られるのがあんまり得意じゃなくて」

 嫌悪感を出さないように、なるべくフラットなトーンで告げた。

「あーそっち? 確かにそれもなーぐいぐいくるからなあの人。俺から言おうか?」

「あ、いえ、大丈夫です!」

 波風は立てたくない。それにあの人は、「何がいけないの?」とか言いそうな気がする。

「あの人はガツン! と言わないと気が付かないかもねー」

 小塚先輩が大げさに打撃音を付けた。鈴木さんが笑って、俺も合わせて笑った。

 ガツンとか、俺には無理だな。思わず背中が丸まった。



 帰ってシャワーを浴びると、疲れていたのかそのまま明日の準備もせずに眠ってしまった。




 夢を見た。犯される夢だ。

 顔は見えないのに、山下さんだと分かった。

 熱い息が首にかかって、喉が短く悲鳴を上げた。

 両手首が強く掴まれて身動きが取れない。目の前の厚みのある裸体の向こうに、黒と灰色の濃い雲が渦を巻いて空を覆っている。

 のしかかる身体から発せられる体温が、辺りの温度と湿度をみるみる上げていく。

 空気こもって息が苦しい。嫌だ、したくない。

 脚が強引に開けられて、間に重たい身体が入ってくる。吐き気がするほど重苦しい。

 掴まれた自分の右手が震えるのを見ながら、身体の中に何かが入ってきて、思わず声をあげた。

 熱い鉄の杭が押し込まれているみたいだった。圧迫感を下唇を噛んで耐える。ゆっくり奥まで押し込まれて、強張る身体が揺らされ始める。苦しくて苦しくて堪らない。

 嫌だ、怖い、こんなことされたくない。

 溢れる恐怖と強い異物感が目の奥を熱くして、殴りつけられるような音で鳴る心臓が不安を煽る。

 耐えられずに目を瞑ると、涙が耳の縁に落ちた。

 ベッドが軋む音と荒い息が耳に響く。

 されるがままになりながら、最悪な気持ちが全身に回って、でもどこか冷静な部分ではこれが夢だと分かっている。

 腹部の底にある熱の塊、それは無視できないほど膨らんだ性欲の塊で、自分を揺さぶる大きくて厚い身体と、手首を引きちぎりそうなほどの力で掴んでくる強い独占欲は、間違いなく俺が望んでいるものだと分かった。

 強烈な性行為に身体を揺らされながら、みるみる心が冷えていく。

 涙が何度も目じりからこぼれて、こんなことを望んでしまう自分の有様を惨めに思った。


 ビクッとして目が覚めると、全身に汗を掻いていた。

 疲れ切った身体が、今の夢のせいなのか、フットサルのせいなのか分からなかった。

 涙が流れた跡があって目じりが痒い。身じろぎすると、重だるい腰回りと濡れた下着に気が付いて、溢れ出す嫌悪感に思わずえずいた。


 身も心もすっかりくたびれて、地を這う様な心地でベッドから出て下を脱ぐ。

 拭ったティッシュと汚れた下着をコンビニの袋に入れてキツく縛ってゴミ箱に捨てた。

 ベッドに腰をかけてスマホに触れると、零時四十五分だった。

 いくつか通知があって、日付が変わる直前に先生から、『今日はどうだった?』とメッセージが来ていた。

 普段よりずっと遅い時間のメッセージに、先生が酷い夢を察してくれたような気がしてしまった。

 急激にせり上がってきた感情に任せて泣き顔の顔文字を返した。すると少しして既読になって、着信が来た。胸がうわっと熱くなって、涙が溢れ出すのと同時に電話を受けた。

「なにかあった?」

 先生の声を聞いたらもっと涙が出てきた。

「泣いてるの?」

 聞かれたら声を殺せなくなった。

「ごめんなさい、こんな時間に」

「良いんだよ、大丈夫。起きてたから」

 いつもの声が「どうしたの?」と言って、俺はもう躊躇うこともできなかった。

「夢見た」

「夢?」

「あの人に無理矢理される夢。凄く怖くて、涙が出る程嫌なのに身体は反応してる。嫌なのに! あんな夢見る自分が怖い! こんなの嫌だ! あんな人好きじゃない! 嫌だ……こんな自分嫌いだ……」

 くっくっと喉が鳴る。嫌だ、泣きたくない、怒りたい。でも分かっていたはずだ、中学の時に孝一にああなった時から。それなのにまだ俺は自分に折り合うことができない。

 成長は止まってくれない。みんなが放つ期待感も、俺は夏の気配に湧き上がらせるだけなのに。

「どこまで変わっていく自分を受け入れたらいいの? 不安にしかならないのに」

 湧き出す涙と一緒にまた吐き気が来て、えずくと胃液が口の中にあふれて、抑えた手にこぼれた。

「どうしたの?」

 ベッドに置いたスマホから、先生の慌てる声が聞こえる。ティッシュをたくさん引き抜いて胃液を吐き出した。

「ちょっと、吐いただけ」

「あぁ」

 先生が嘆く様な声を上げた。

「口を濯いで水を飲もう、喉が荒れてしまうから。このまま、電話したまま」

「うん」

 階段を降りるとテレビが付いたままで、ソファで母さんが寝ていた。

 言われた通りにうがいをして水を飲む。テレビを消して、母さんにブランケットを掛けて、また部屋に戻った。

「飲めた?」

「うん」

 部屋に戻ってベッドに座ると、吐き出した胃液と一緒に戸惑いも出ていって、落ち込んだ心だけが残った。


「自分が見た夢で吐くなんて馬鹿だよね、望んであんな夢見たくせに、怖がってパニクってさ」

「そんなことない」

「あるよ、自分の夢だよ? あの人は悪くない。俺が……俺はいつになったら自分がこうなのに慣れるんだろ。いちいち怖くなって先生に夜中にこんな話、ごめんなさい、もう切る」

 ほんと手の掛かる元教え子だ。自分でなんとかしないとって、この間思ったばかりなのに。

「切らないで」

「もう落ち着いたから大丈夫だよ」

 恥ずかしい。自分を掻きむしってバラバラにしてしまいたい。

「ダメだよ、切ったらまた掛ける」

「いいんだよ俺なんか放って置いて。迷惑しか掛けてない、先生はもう十分助けてくれた」

「放ってなんか置かないよ」

「俺が死んだって先生のせいじゃない」

「死ぬなんて言うな!」

 ほら、やっぱりバカだ。

「……ごめんなさい」

「いい、俺こそごめん」

 初めて声を上げた先生にさえ驚けないほど、気持ちが下がっている。

「孝一ですらあんな夢見なかった。どうしてあの人なんだろ。見た目が好みなのかな、凄く苦手なのに」

 菊池たちには好きな人となんて言わせたくせに、自分はあんな夢でいってしまった。

「高瀬」

「ん」

「誰だって突拍子もない夢を見ることはあるよ」

「そうだよね、本当大騒ぎして下らない」

 捻くれた心を隠すこともできない。すぐに後悔するのに。

「怖かったんだからしょうがないよ」

「欲求不満で誰でもよくなってんのかな」

「若さだよ」

 諭されるとどうしてこんなに腹が立つんだろう。

「若いってよく大人は言うけど、俺にとっては今が一番大人なんだよ。前向きに生きようと思ったら先に進んでいく人ばっかり目に入る。女の子紹介しあって、みんなで遊んで。俺は上手く誘いを断れたことにホッとしてる。変に思われないようにガッカリして見せたりしてさ。俺はこのまま、何も知らないまま大人にならなくちゃいけない。こんな、嫌な夢見て……」

「高瀬」

「どうして俺はいつもこんな」

 どう続けたら良いんだろう、恨みたいのは運命なのか、弱い自分なのかも分からない。憤りだけが俺の人生を埋めていく。この先もずっとこうなのかも、そう思うと、元気にならなきゃいけない理由も無くなってしまう。

「高瀬、あんまり深く考えないで」

 先生の声が少し明るく言った。

「深くって?」

 鼻で息を吐いてケチを付けながら聞き返す。

「悪夢を見ただけだよ、良くない答えに結びつけないで」

 そんな風に宥められるもんかという気持ちで何を言おうか考えていると、

「オナニーしてる?」

 先生の言葉に、頭が空っぽになった。

「……なんて?」

「夢に見るほど溜めるのは体に良くないよ」

 心から心配するように先生は言った。

「え?」

「俺は真面目に言ってる。普通って言うと高瀬は引っかかるかもしれないけど、あえて普通を言うなら、高校生はほとんど毎日してる。高瀬もしてるんだよね?」

 俺は黙った。黙って深く息を吸って、それ以上吸えなくなって吐いた。

 相変わらず先生にはぎょっとさせられる。でも落ち込んだ心が強引な浮力で浮き上がってくるのも感じる。

「高瀬?」

「だって……うまくできない」

 そしてこんなことまで白状させられる。

「うまくできない?」

 何を言ってるんだというようなトーンで繰り返されて、唇がとんがった。

「何考えて良いか分かんなくて、途中で萎える」

 沈黙の後、クスクスと笑う声が聞こえてきた。

「笑わないでよ」

 言い返しながら、また先生が事態を軽くしてくれているのを理解する。

 ただの夢精、落ち込むほどのことじゃない。

「何も考えなくったっていい、擦れば気持ちいいよ」

 中学時代を思い出して笑ってしまった。

「それで良いんだよ」

「わかった」

 まさかちゃんとオナニーしろで着地させられるとは。なんなんだこの人、なんなんだ俺。

「それにしても、そんなに山下さんが怖いの?」

「凄く、触ってくるんだよ」

「えっ?!」

「話しかけてくる度に、肩組んできたり腕掴んできたり」

 自分を見ろと言ってくる。無理やり自分を俺の中に存在させようとしてくる。

「離れても直ぐ絡んでくるし、耳元で喋ってきたりして、なんかもうざわざわするんだよ!」

 思い出すのも忌々しい気がして、振り払うように首を振った。

「セクハラだ!」

 きっぱり言った先生に笑わされる。

「みんなにそうなの?」

「ううん俺だけ。みんなにもまた距離近いよとか言われてるから、多分最初にそういう距離の詰め方をする人なんだと思う」

 遠慮なく、遠慮しないでと言ってくる。こっちは距離が欲しいのに。

「なんとか止めて貰えるようにしたいな」

 先生がまるで当事者のように言ってくれて、また気持ちが軽くなった。


 みんなが気に留めない距離が俺には戸惑う距離で、苦手だって思うのに、あんな夢を見てしまう自分にやり切れない。

「極力捕まらないように、最近はあんまり休憩しないようにしてる」

「そうだったんだ。どう? 少し落ち着いた?」

「うん」

 凄く深い海溝みたいなところに落ちていった気がしていたのに、先生にただの夢精だと言われて、浅瀬に立つ自分に呆れてすらいる。

「いつもごめんなさい、迷惑ばっかりかけて。時間も遅いのに」

「いいんだよ、これでいいんだ。話してくれてありがとう」

 胸いっぱいに息を吸い込む。居心地が良くて堪らない。でもこんなままじゃいけない、ってこれも何度目だよ!

「ちゃんとできるようになるから、自分で」

「オナニーの話?」

「違うよ!!!」

「しなきゃダメだよ?」

「分かったよ……」

 ハハハと先生は笑って、おやすみと言って電話を切った。

 ふざけた先生に笑って、笑った顔のままベッドに潜った。

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