第42話 学校祭4

 

 三日目は一般開放で、母さんが来た。

 母さんは来るなり俺の格好を笑った。


「母さんの時代にも居なかったタイプの不良!」

「あ、高瀬のお母さん!」

「あら田中君、オールバック似合うね!」

「そうですか?」

 照れた田中が頭を掻いて、髪が乱れてしまった。

「瑞樹!」

 込み合う店内の視線が、入り口を塞ぐ田中の兄貴に集まる。

「兄貴」

「あらあ田中くんの?」

「はい!」

「いかちい兄さんね」

 ハッキリと言った母さんに、俺はひゃっとなったが、みんなは笑った。

「いいじゃねえか、似合ってるぞ」

 太い腕に肩を掴まれて、全身の筋肉がぐっと引き締まる感じがする。

「写真撮ろうぜ」

 田中が言って、ツッパリ集団が集合した。


 真ん中に大股開きで椅子に座る田中の兄貴、その横に母さんがしゃなりと立ち、その周りを腕を組んで仁王立ちした俺たちが囲んでカメラを睨みつけた。

「結構迫力ありまーす」

 桜田さんが言って、何度かシャッターが切られた。

「おお! 田中怖い!」

「岡本のサングラスめちゃくちゃ反射してる」

「母さんにも送って」

 俺がデータを送ると、「あんたは睨むっていうより困ってるって感じね」と言われて、みんなに笑われてしまった。


「それじゃあねえ」

 頬っぺたにキラキラのハートシールを付けた母さんと田中の兄貴は一緒にクラスを出て行った。

「田中のお兄さん、いい人だよね」

 母さんの誘いを快く受けて、一緒に校内を回ってくれるらしい。

「見た目はあんなんだけど俺にも優しいよ」

「へえ」

 兄弟ってどんな感じだろう。友達とは違うんだろうし、親とも違うんだろうな。先生みたいに、なんでも話せるのかな。

 憧れが想像を膨らませようとした時、

 

 仲が良かったのに口もきいてくれなくなって、まるで存在しちゃいけないものを見るみたいに――。


 




 

 窓にセロハンテープがくっ付いているのを見つけて、爪でカリカリと剥がした。

 学校祭は無事に終わった。

 総合優勝は女子高生ボーリング喫茶が攫って、エンタメ部門にはD組のお化け屋敷が選ばれた。

 うちのクラスは校長先生が選ぶコンセプト部門の賞をもらい、桜田さんがとても喜んでいた。


 最終日の夜は菊池と田中と三人で花火を見上げた。熊田はなんと例の一年生に誘われて一緒に見に行った。

 菊池が、「いいなー」と夜空を見上げて、田中が、「合コンでもすっか」と言った。

「つてがあるの?」と俺が聞くと、田中は黙ってしまい、菊池が花火に向かって吠えた。



「高瀬君」

 前の席に新田さんが座って、すっと茶封筒を置いた。

「これ、言ってたやつ」

「えっ、もう?!」

 驚いて前のめりになった俺に、新田さんは微かに笑みを残して立ち去ってしまった。

 なんかもうかっこいい。

「何それ、ラブレター?」

 熊田が後ろから顔を出した。

「ラブレターは茶封筒に入れないと思うよ」


 俺は先生に言われた通り、甲田が全部を話してると考えるのはやめて、新田さんに甲田の話の部分的な裏を取ってもらった。

 いったい自分がなにを期待してるのかはわからないが、茶封筒から白い紙を取り出す手は緊張している。

 情報は手書きではなく、ちゃんと印字してあった。俺はそれを目で追いながら、みるみる心が冷えていくのを感じた。

「なんだったの?」

「真実だよ」

 熊田は分からない声を上げたが、俺は紙を封筒に戻すと、半分に折って胸ポケットにしまった。



「甲田、話があるんだけど」

「あ? 別にいいけど」


 昼休み、教室前で捕まえた甲田を連れて、いつもの準備室に向かった。

 後ろからパタパタとだらしない靴音が付いてくるのを聞きながら、何とか平静を保とうと努力する。


 準備室にひと気が無いのを確認して、中途半端に引かれたカーテンをきっちりと閉め、振り返った。

 すでに床に座り込んでいた甲田は、少しわくわくしているようにさえ見えて、俺の心に小さく火をつけた。


「とある情報筋から、君にはお姉さんはいるけど、男兄弟はいないって聞いたんだよ」

「へえ、お前は探偵に向いてるのかな」

 否定はしないらしい。

 俺は唇を舐めて先を続ける。

「ご両親は離婚どころか、去年生まれた赤ちゃんと三人で仲睦まじく公園で散歩しているのを見かけられてる」

「こっわ、誰がどこで見てんだよ。ああそれ弟な、だから男兄弟はいる」

 ヘラヘラ笑う甲田を睨みつけると、甲田は一瞬怯んだが、「なんだよ全部バレてんのかよ、お前の情報筋すげえな」と変わらないテンションを継続しようとした。

 俺は無理だった。


「なんであんな嘘ついたんだよっ!!!」


 急激に沸点に達し、大声で怒鳴りつけた。

 甲田は驚いた素振りこそ見せたが、ポケットの手はそのままで、肩を竦める。

「いやーあんまりお前が素直に信じるもんだからさあ」

 面白くなった、と悪びれもせずにハハハと笑う。

 自分の目がギリギリと吊り上がるのが分かった。甲田はその顔を見てようやく俺の怒りを正しく理解したらしく、目を丸くして後ずさった。相当形相が変わっているらしい。

「悪かったよ! さすがにちょっとやりすぎたと思ってる」

「ちょっと?!」

 奇声に近い声が部屋に響いた。

「いや結構! 結構やりすぎたよ!」

 ようやくポケットから出した両手をなだめるように動かされて、余計に煮えるように腹が立った。

「俺はあんなに……あんなに」

 わなわなと身体が震える。

 先生にも相談に乗ってもらって迷惑を掛けたのに、自分の人生に投影してまで悩んだのに、あんなひどい嘘があってたまるか!!!

「いや、ほんとはほんとなんだよ……」

 甲田が急に視線を落として、言いにくそうに口籠った。

「は?!」

 前がかりに詰めると、甲田は言い訳をする準備のように眉を上げた。

「俺は母さんの連れ子だったんだよ。それを中学の時に知った」

「連れ子」

「俺は父さん子だったからショックで、なんか分かんねえけど焦ったんだよ。嫌われないようにって勉強して、父さんの母校のここに入った。そしたら弟が生まれた」

「弟?」

 ああ、公園で散歩していた赤ちゃんか。

「高校生で弟が生まれるんだぞ?! ドン引きだろうが! 受験生のいる家でセックスしてんなよ!!」

 甲田の勢いに言葉が詰まった。

 確かにそれはショックだ。色んなことを想像してしまってやってられないだろう。でもまだ怒りは収まらなかった。

「今の話のどこが本当なんだよ!! 中二で出自を知ったってところだけだろ!!」

 甲田はうるさそうに目を細くした。

「浮気して子ども作ったのは姉貴」

「え?」

「親父の連れ子で実の姉じゃないし、小さい頃から俺をいじめて楽しむ嫌な女だった。もう成人してて家にも寄り付かないからどうでもよかったんだけど、浮気して子ども作って追い出されてきやがって、俺の弟と同じ年の男の子が生まれた」

「はあ?」

 なんだか頭が混乱してきた。

「浮気相手とは連絡が付かなくなったみたいで、この子さえ出来なきゃってアイツは言った。赤ちゃんが可哀そうだった、無邪気に笑ってんのにさ」

 甲田は親指で鼻を撫でつけると、口を尖らせてその姉を思い出したような顔をした。

「また俺のことこき使い始めて、何様のつもりだって親父も怒ってたけど、子どもには罪はないし。アイツは追い出して欲しいけど、赤ちゃんは可愛いし」

 赤ちゃんを可愛いと思う心が甲田にもあったのか。正直それに一番驚いている。

「でも少し前に旦那のとこに帰ってった。その人との子どももいるし」

 甲田の眉が痛々しげに歪んでいるのを見ていたら、言葉が出なくなった。

「母さんが言ってた、姉貴の旦那は仕事が忙しくて、子どもの面倒は姉貴が一人で見てるって。旦那の母親の介護もあって、それで色々と疲れて間違っちゃったんじゃないかって」

 甲田につられて俺も俯いた。それもまた、俺には想像のできないことだ。

「でも渡されてたヘルパー代使い込んで子ども預けて男と浮気してたんだぞ?! 同情できるかよ!!」

 吐き捨てるように言った姿に、すっかり俺の怒りは霧散してしまった。

「いつかあの子が自分が浮気で出来た子だって知ったらどうなるんだって、それが気になってしょうがなかった。ちゃんとあの女が育ててるのかも。ちゃんと、家族として」

 父親や兄はどんな風にその子を見るだろう。今は良くても、思春期に自分が連れ子だと知った甲田のように、難しい時期に自分の生まれた理由を知ったら、いったい何が起こるだろう。

 甲田はそれを想像してあんな嘘を吐いたんだろうか。

 あれは甲田ではなかったけど、実在する子どもの話だった。血の繋がりのない、甥っ子。

 甲田の葛藤は凄くリアルに感じた。だって俺はすっかり騙された。煮えるほど腹が立っていたはずなのに、その子の将来を考えてあんなシミュレーションをしたのかと思うと気持ちのやり場がなくなってしまった。

 精一杯振り回された俺を甲田はどう思ったんだろう。何かその子の未来の慰めになったろうか。

「父さんに言ったんだ、引き取れないのかって」

「え?」

「俺も面倒みるからって」

 悲しみの形に影の落ちた甲田の横顔は、正直美しかった。

 なんだよ……なんなんだよ!! なんでこんな嫌な奴が赤ちゃんには優しいんだよ!!!

「それで、親は何て」

「考えてみるとは言ってた」

 甲田の視線が上へ向き、「どうなるかわかんないけど」と、少し嬉しそうに言った。まるで何とかなりそうだと目算が付いたみたいに。

「これは嘘じゃないんだよな?」

 そこで初めて申し訳なさそうな顔をした甲田は、「これは実話」と上靴で床を叩いた。

 ため息が出た。良かったんだか良くなかったんだか分からない気持ちを首を傾げながらなんとか受け入れようとしてみる。そこでふと思い出した。

「じゃあ、じゃあなんで女の子と遊びまくってたの? ピアスそんな開けてんのはなに」

 そうだ、これはまだ疑問のままだ。やっぱり今の話も嘘の可能性が――。

 暗い室内にふはっと笑う声が響いた。瞬間、嫌な予感がした。

「だって俺モテるんだよ」

 くっくと肩を揺らす不敵な笑顔は、大抵の人がかっこいいと言うだろう造形をしている。そして俺は今また酷い顔をしているはずだ。

 甲田はいつもの人を小馬鹿にするような表情で両脚を投げ出した。

「中学の時は勉強ばっかで全然興味なかったんだけど、うち校則緩いだろ? 高校生になるからって美容師にお任せでやってもらったら、何か知らねーけどモテるモテる。あとセックスはマジで気持ちいい」

 そう言ってしっかりと頷いた甲田に、俺は生まれて初めて開いた口が塞がらなかった。

 言葉が出なかった。何かを喚きたかったし怒鳴りたかったけど、思考が失われて何にも浮かばない。

「あとピアスは好きなバンドの影響」

「なっなんだよそれ!!」

 急にバカみたいな理由だった。

「ランドサウンドっていうバンドのベースの人が」

「聞いてないよそんなことは!!!」

 バンドの説明を始めようとした甲田を怒鳴りつけて制止した。

「なんっなんであんな! 意味の分からない時間を費やしたんだ俺は!」

 声が震える。嘘じゃなかったけど嘘じゃないか!! なんだよあれは!! 一人舞台かよ!! 意味が分からない! 意味が!! 分からない!!!

「いやー、俺お前が嫌いなんだよ。嫌いなんだけど、面白いっていうか?」

 頼むからもう喋んないでくれ。

「申し訳ないとかそういう気持ちはないのかよ」

 頼むから少しくらいはまともな神経を向けてくれ! 俺はお前が思っている以上に痛めつけられたんだよ! ゲイとか言ったし! ゲイとか言ったし!!!

「やりすぎたって言ったろ? てかお前ほんと変に面倒見がいいっていうかさ、そのままだといつか酷いやつに金とか騙し取られると思うぞ? 美人局とかさ」

 いつか起こる未来だとでも言うように心底気の毒そうな顔を向けてきて、俺はまた急激に沸点に達した。


「お前が言うことじゃないから!!!」


 怒鳴りつけたのに、甲田は腹を抱えて笑った。

「いやあ、真面目に心配してくれたのはちょっと感動した。まさか涙まで流すとはね、ぷっ」

 感動したと言っておいて再び噴き出した甲田に、頭の中が真っ白になるほど情緒をかき乱される。でもこれ以上感情を漏らすとこいつに楽しみを与えるだけだというのもよく分かった。

 飲み込むんだ。穏やかになれ。これは挑発だ。

「最近はサボらず勉強も真面目にしてるって情報も入ってるんだけど、ついでにこれも説明してくれる?」

 腹立つついでに全部の辻褄を合わせてもらおうと質問すると、

「ああ、それは――」と、甲田は額を掻いた。


 

 放課後、新田さんと教室の窓から校門前に立つ甲田を観察した。

「あ、来たみたい」

 黒髪の女子生徒が甲田の元に小走りで近寄って、どちらともなく手を差し出しあって、二人はどこかへと歩き始めた。方向的にファミレスにでも行くんだろう。

「あれ誰なの?」

 半部くらいにしか開かなくなった目で二人を追いながら、新田さんに訊ねた。

「彼女みたいだよ、あの子と付き合ったからもうお遊びを止めたみたい」

 全然今までのタイプとは違う。

「三年の生徒会の子だよ」

「え?!」

 驚いた俺に、新田さんは肩を竦めた。

「勉強もできるし、お父さんは医者」

「だから窓から逃げたのか」

 生徒会員が甲田とエロいことをしているところを見られてはまずかっただろう。

「そうなの? それは新情報」

 新田さんは興味深いという目で二人を見下ろす。

「大丈夫なの? あの二人で」

 あまり釣り合っているようには見えない。雰囲気もちぐはぐだ。

「さあねえ、でも付き合った時期から甲田君は授業もちゃんと出てるし、成績も戻してるみたいだよ。彼女と同じ大学にでも行くんじゃない」

 手を繋いで歩く二人が街路樹の陰に消えたのを見届けて、俺はいよいよ気持ちのやり場が分からなくなった。


 話を聞いてやろうとしたのに、何か助けになってやろうって。ゲイって言われて動揺して、それでも思ってやったのに。全部が嘘じゃなかったけど、ただ俺をからかっただけだなんて。

 なんだったんだ俺のあの動揺は、涙は、時間は。


「放課後、校門のとこ見てたら分かる」


 甲田はそう言って準備室を出て行った。

 きっと甲田は、一年の時に俺があいつを黙らせたことを根に持っていたに違いない。見せつけたかったんだ。

 むかつく。ああ、お前が幸せそうでむかつくよ!

「腹が立つ?」

 新田さんに顔色を読まれて、俺は憎々しい顔を隠しもしなかった。

「あのまま上手くいって大人しくしてて欲しい」

「複雑な胸の内をありがと」

 新田さんの笑い声が教室に響いた。

「高瀬君もそろそろ誰かに決めたら?」

「何が?」

「もてるじゃない、君も」

 新田さんの眼差しに、学校祭の間中感じていた、自分だけが取り残されていくような気持ちを思い出した。

 結局甲田も豪華客船の乗客だった。

「今は興味ないんで」

 俺はまた難破船の上で嘘を吐く。

 俺だって誰かと付き合ってみたい。あんな風に手を繋いで、校舎で隠れてキスとかしてさ。でもそんなのは夢に見れたらラッキーな妄想だ。




 事の顛末を話すと、先生は珍しく声を上げて笑った。

「よかった、本当に」

「よくない! 時間を返して欲しい!」

 ベッドに寝転がって文句を吐き出す。

「二人は幸せそうだった?」

「そうだねおめでとうほんと」

 俺の棒読みに先生はまた笑った。

「でも思ったよりもいい子そうだね」

「そう?! どうして?!」

 強めに問うと、クスクスと笑い声だけが返って来る。

「まあ、赤ちゃんは甲田の親が引き取った方が幸せになれそうかなとは思ったけど」

 赤ちゃんに優しい甲田には本当に驚いた。多分今年で一番驚いた事一位を譲らないだろう。

「あんな未来が来ないといいね」

 先生がそっと言って、俺はうんと言うしかなかった。

 いつかあの子が自分の出生の理由を知ったとしても、その時はきっと甲田がそばに居るだろう。

 そばに居て、君は悪くないって言ってくれる人がいることが孤独にはずっと効果がある。なんとかそれは甲田に伝授したから、役目は全うした。


「高瀬は、恋人ができたら何がしたいの?」

 急な質問に耳を疑った。

「本当にそれ知りたい?」

「言いたくないならいいよ」

 少し迷って、なんとか眉を寄せて考え始めた。

 キスとかセックスとか? と、ふざけようかと思ったけど、甲田みたいだなと思って止めた。

 じゃあ実際に何がしたいのか考えたら、今日見た二人の姿を思い出した。

「手とか、繋ぎたいかな」

 言ってから自分で笑ってしまう。

「バカみたい?」

 照れ隠しに言うと、「全然」と優しい返事がくる。

 天井を見ながら、学校祭で見かけたカップルたちを思い出す。

 一緒にいられて幸せって感じで、人目も気にもせず繋がれた手が羨ましかった。

「はぐれるわけでもないのに、みんな手を繋いでるんだよね」

「うん」

「あんな風じゃなくていい、人前でなんて言わない。ただ、手に触れたいってそう思って貰えたら、きっと凄く嬉しいと思う」

 手を繋いで微笑みあって、そのまま抱きしめられたらどんなに嬉しいんだろう。

 自分の存在が相手の幸せだと感じられることは、どれくらい心を満たすんだろうな。

「やっぱりバカみたいだ」

 口角を上げようとしたけど、唇はただ真っすぐ結ばれただけだった。

「そんなことない。手に触れて、それからもっと続きがあるんだろ?」

 含みのある言い方をした先生に、咎める音色で「先生?」と返す。

「おっと」

 先生が言って、二人で笑った。


「その先かー、俺でも良いって言ってくれる人がいつか現れたらいいな」

 寂しくなりそうな気配から心を守ろうと、身体が自然と丸まった。

「そんなこと言うな」

「……え?」

「俺でもいいなんて絶対ダメだ。高瀬が良いって言ってくれる人と、高瀬自身も心からそう思える人とするんだよ」

 真面目な声で正されて、戸惑いに心臓が鳴った。

「そんな人待ってたら寿命が来ちゃうよ」

 笑って誤魔化すと、「そんなことない」と、もっと真剣に返される。

「断言するじゃん」

「高瀬、お願いだから」

 どうしていつもみたいにふざけてくれないんだろう。少し怖い。怖くてそれで、やっぱりあの気持ちが湧いてくる。


 自分だけ取り残されていく。


 分かってるよ、自分を大切にってやつね。

 でもそんなのたくさんチャンスがある人の話だよ。いくつかのうちの、安全な道を選べる人の話しだ。俺にはそれが安全かなんて行ってみるしか分かんないんだよ。好きになっていい人も見当たらない俺には、たった一人現れただけで奇跡みたいなんだよ。そんなことも分かんないのかよ。


 心が下降しながら乾いていく。硬く黒く変色して、悲しくて、無性に腹が立った。

「みんな好きでもないのに付き合ってみるじゃん。可愛いからとか言ってさ。気持ちいいからとか、童貞を捨てたいからとか言って簡単にするじゃん」

 なにいってんだよ、みんななんかじゃない、甲田や枝野達がそうだっただけだ。

「そうだね、これは大人のわがままだね」

 静かに言われてもっとつらい。なだめられてるみたいで堪らなくなる。

「傷付いて後悔して成長して行くんでしょ? 俺は、傷付く機会はたくさんあるけど、後悔する機会は無いんだよ」

 幼稚な自分を止められない。だってみんなみたいな青春は俺にはない、思春期は俺に不安しか与えてくれない。

「触れたいって、思われたいだけだよ」

 これだって、叶わないって分かってるんだ。

「ごめんね高瀬、俺が――」

「いい、分かってるから。自分を大切にしなきゃね」

「高瀬」

「もう遅いから寝るね、おやすみ先生」

 急いで電話を切って、枕の下に隠した。

 直ぐに後悔が溢れてきた。震える息を吐いて、まつ毛に溜まった涙を指先で拭った。

 分かってもらうことに慣れすぎて当たってしまった。俺には先生しかいないのに。


「高瀬を怒らせた」

「大丈夫、きっと分かってくれるわよ」


 頭の中で、先生と奥さんの会話が聞こえる。俺の妄想だ。


「一人にしないでやりたい」

「優しい人、きっと伝わってる」


 妄想が嫌な方向に行くのを止められない。


「高瀬には俺しかいないんだ」

「可哀想ね」

「ああ、可哀想な子なんだよ」


 電話が鳴って、枕の下から引き出すと先生だった。

 また滲んできた涙を拭いて、スマホの横に倒れ込むと、鼻をすすってから通話のボタンを押した。

「何?」

「俺が悪かった、本当にごめん」

 先生ダメだよ、まだ良い子に戻れてない。

「可哀想な子だって思った?」

「そんなこと思ってない」

「でも一人で泣いてばっかりでしょ」

「俺がいる」

「じゃあ会いに来てくれる?」

 言ってしまって胸が強く痛む。

「分かった」

 直ぐにそう言ってくれて、涙が溢れた。

「うそだよ、そんなことさせられない。冗談、大丈夫」

「直ぐに行くよ」

「いい、先生にそんなことさせたらもっと辛くなるから」

 どうして後悔ばかりすることになるんだろう。

「ほんとごめんなさい」

「いいんだ、何を言ってもいい。全部聞くよ」

 全部? 駄目だよそんなの。先生が居なきゃ生きていけなくなる。

「いい、大丈夫」

「無理しないで」

 心配してくれる声が喉を乾かす。もっと優しくされたくなる。

「どこかでゲイの友達でも見つけようかな」

「どこかって?」

「さあ、アプリとか?」

 笑いながら言ってみたけど、先生がなんて言うかは分かってる。

「嘘だよ、出会い系アプリは危険なんでしょ」

「……そうだよ」

 声が慎重に俺を窺ってるのが分かる。不安定な子どもを刺激しないように。

「でも、じゃあどこに居るの?」

「考えてみるよ」

「いい、自分で考える」

 自分に呆れて乾いた笑いが漏れた。こんなやり取りがしたいんじゃないのに。

「一緒に考えよう」

「ううん、いい、自分で考えるから。おやすみなさい先生」

「でも」

「心配するようなことしないから」

「……分かったよ、おやすみ」


 電話をまた枕の下にしまって、心の中で先生に謝った。


 もう中学生じゃないのに、もう高二になるのに。

 自分には何があるんだっけ、先生以外に。

 何度も唾を飲みこんで気持ちを落ち着かせる。


 友人が六人いる。小塚先輩も。クラスの人とも普通に話すようになったし、フットサルも楽しい。孝一とも友人でいられてる。親とも仲がいいし、勉強も順調だ。

 うん、悪くない。焦ったりすることなんてない。だって先生が居てくれる。あんな風に八つ当たりしても電話を掛け直してくれる優しい大人が。

 でもずっとは頼れない。先生にも子どもが生まれたりするんだ。









 ――触れたいって、思われたいだけだよ。


 なんて些細な願いなんだろう。

 高瀬が甲田という生徒に苛立つのは、簡単に人を求められるからだ。

 欲や見栄や好奇心で、気安く経験を手に入れる。自分の興味の赴くままに行動する彼に贅沢だと言われて、きっとショックだったろう。自分はそんな風に見えるのかと、彼だけじゃなくて、周りからもそう見えているのかと思っただろう。

 理解されないだけでなく誤解されて、それを訂正することもできない。

 どうしたらいいか分からない、そんな迷子の気持ちが痛いくらい伝わってくる。


 もうずっとたくさんの視線が高瀬を監視している。男として、友人として、様々な視線が飛び交う中で、本当の自分を見つけられないように怯えている。

 初めからそうだった。だから特待の誘いを断り、サッカーを辞めて目立たないようにしている。身を守る嘘で自分を傷付けながら。

 本来の自分を隠したまま、自分が望む相手に触れたいと思われることがどれほど難しいか。それもちゃんと分かっている。

 それなのにあんなことを言って、俺は一体何をしてるんだ。

 ただそばにいるだけでいいんだよ、一人にしないで話を聞いてやるだけでいい。

 肯定感を維持して、相手が現れるまでいつまでだって一緒に待ってやればいいんだ。いたずらに寂しい心を暴いてどうしてやるつもりだったんだよ。


 ああ頭が痛い。眠らなくちゃ。

 痛んだこめかみを抑えた右手を眺める。網目状に広がる血管が透けている。


 俺が手に触れたら、高瀬はどう思うだろう。

 同情されたと思うかな。

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