第38話 海にいる先生


『今年も球技大会で優勝した』


 夏休みが明けても連絡がなかった高瀬から、やっとそんな報告のメッセージが来た。

 その時、俺は勃起していた。何を感じたわけでもない。夏の暑さで疲れていたからか、もう放置されることに飽きたのかもしれない。


 ため息を吐いて何と返そうかと股関をなだめるように撫でていると、写真が貼られた。

 クラスのみんなで写した写真の、ほとんど真ん中に高瀬がいた。笑っている。

 暑かったのか、みんな赤い顔をして、でもとても嬉しそうだ。

 ホッとして、でも少し、遠くに行ってしまったようにも思う。

 迷わずに電話を掛けた。


「びっくりした!」

 電話に出るなりそんな言葉が飛んでくる。高瀬はなぜかいつも驚く。

「久しぶり」

「こんな時間に、奥さんに怒られるよ」

 いきなり言われて苦笑いが出た。

「もう、寝てるから」

 ソファに横になって天井を眺めた。

 いったいこれは幾つ目の嘘だろう。

 久しぶりの高瀬の声に口元はほころんで、嘘の重みで心は沈んでいった。

 目を瞑って下着に手を入れて、指先で膨らみを押し潰す。

「今年もって、去年も優勝したの?」

「そう。去年は知らなかったんだけど、今年も小塚先輩のところと決勝戦した」

「そうなんだね」

「めちゃくちゃ対策されたけど、クラスにサッカー経験者が三人もいたから勝てた」

「楽しかった?」

「うん!」

 声が弾んでいる、毎日が充実しているんだな。

「便りが無いのはいい知らせってことかな」

 言ってから、少し嫌味っぽかったなと後悔した。

 少しの間が空いて、股関が膨らんで指を押し返すのを感じながら、「高瀬?」と沈黙に呼び掛けた。

「今日、蕁麻疹が出た」

 思わぬ報告に閉じていた目が開いた。

「合わない物でも食べた?」

「分かんない。原因は色々考えられるって。ストレスの場合もあるとか」

 ストレスという言葉が少し潜められた。

「病院に行ったの?」

「うん、抗ヒスタミン剤を飲んだら引いたよ」

「そうか、驚いたよね、痒かった?」

「うん、ぶつぶつでキモかった」

 クスクスとおかしそうに笑う声にくすぐられて、また股関が膨らむのを感じた。

 高瀬は何を考えて自慰をするんだろう。男を想像するんだろうか、そんな話は俺にもできないんだろうな。

 連絡をくれなくなるのも無理はない。俺が何の役に立てているっていうんだ。

「先生? 眠いの?」

 気遣うような細い声に呼ばれ、戯れから手を引いて、大きく息を吸った。

「いいや、高瀬の笑う声を聞いてた」

「何それ」

 起き上がってソファに座り直し、缶ビールに手を伸ばす。

「後は? 何があった?」

 汗だくのビールを口に含むと、すでにぬるくなってしまっていた。

「大学には行くかも」

「そうなの?」

 思わず声が大きくなってしまった。

「うん。父さんに通帳と学資保険を見せられて説得された」

「そっか」

 そうなんだよ、親だって色々考えてるんだよ。

 耐えられなくて、くつくつと喉が鳴る。

 すっかり気分がよくなって飲みかけのビールを全て胃に流し込むと、キッチンに立って、いつものように缶を濯いで置こうとしたが、場所が無かった。

「別にお金の心配をしてたわけじゃないんだけどさ」

「でも、行くつもりになったんだ」

 乾いた缶をカウンターに置いて濡れた物と入れ替えた。そろそろ資源ごみをまとめないと。

「家から通えるとこに丁度よく大学があるしね。夏休みに菊池たちとオープンキャンパスってのに行ってきたんだ」

 連絡がない間にちゃんと行動を起こしている。

 寂しく感じる気持ちを誤魔化して、またソファに腰を下ろした。

「いい大学だね」

「そう思う?」

「もちろん」

 この辺では一番偏差値の高い総合大学だ。目的が決まっていないなら納得できる選択だ。

 高瀬の今の学力は分からないが、中学の時は常に上位にいたし、厳しい場所を選ぶとは思えなかった。

「学部はこれから?」

「うん。進路の先生に相談してみる。全然考えてなかったから」

「教育学部もあるね」

 言うと、驚いた声が返ってきた。

「俺が? 先生になるの?」

「俺は中学の先生に影響されて教師になったから」

「え、そうなんだ!」

「うん。でも社会科教師はおすすめはしないかな、資格保持者が多いから就職が厳しい」

「そういうのもあるんだ」

「まあ教師は人との関りが多いし、なんとなく目指す職業ではないかもね」

「んー……そうだよね、こんなぼんやりしてる先生は俺もいやだ」

「そんなことはないと思うけど」

 むやみに勧めたりはしないが、高瀬ならきっといい教師になれるだろう。でも優しいから、少し寄り添いすぎるかもしれないな。今の俺には寄り添うメリットがある。俺は悪い見本だ。


「夏休みさ、楽しかったんだ」

「え?」


「練習して試合して、ご飯食べに連れてって貰った。菊池たちと遊んで、鶴見たちとも遊んで、ボーリングも上手くなったし、映画も観に行った」

「凄く楽しそうだ。良かったね」

 高瀬が楽しくて嬉しい。嬉しいだけだ。

「毎日色んなことがあって、楽しくて、やっぱり全部先生に聞いてもらいたくなる」

 でもこう言われると、堪らなく沁みてくる。

「そうなの?」

「うん」

「また遠慮した?」

 高瀬は黙って、俺も黙って返事を待った。

「やっぱりさ、先生の友達にしてくれる?」

 連絡のない間に色んな楽しいことがあったのに、俺と友達になってくれることにしたらしい。

 俺が望む状態だ。いつでも気にせず頼って欲しいし、悩みだけじゃなくて、嬉しいことだって教えて欲しい。それでいい、それがいい。

「もちろんいいよ」

「分かった!」

 良かった、また日常を共有してもらえる。一人で生きなくて済む。ああ違う、それは変わらない。

「それじゃあ、いい報告もあったし寝ようかな。高瀬も眠れる?」

「うん」

「じゃあ一緒に寝よう」

 言うと、電話の向こうが静かになった。

「まだ起きてるの?」

 時計を確かめると、十一時を二分ほど過ぎた辺りだ。

「……ううん、寝る。おやすみなさい!」

「うん。おやすみ高瀬、また明日」


 電話を切って吐き出した息はなんだか少し震えていた。

 高瀬の秘密を知っている、たった一人の友達。嘘つきの。

 末永く友達でいたいと思うなら、このままではいけない。いや、今までだっていけなかったんだ。

 いつか嘘が知られたら、きっと高瀬は俺を責めない。それどころか、俺に妻が居るように振る舞わせたことを悔いるだろう。

 始めから間違えてしまった。思い返してもどうしたらよかったかは分からない。あのとき出会わなければよかったとも思わない。

 高瀬の毎日が充実して嬉しい。それを俺に話したいと言ってくれることが嬉しい。でも俺の人生は相変わらず息苦しいままだ。

 高瀬という目移り先がなくなると、すぐにその現実が襲ってくる。孤独で味気ない毎日。なのに俺はそれを誰にも知られたくない。理解なんかされたくないと思っている。そのくせ何も知らない高瀬の存在に頼って、震える程ホッとしている。

 嘘を告白しなきゃいけない。辛いと誰かに言わなければいけない。このままじゃいけないと分かっているのに。

 俺はもう、海にいるのかもしれないな。

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