第37話 祭りのあと
夜の十一時過ぎに先生からの電話が来て、何を取り繕っているのか三回コールを待って通話を押した。
「こんばんは」
夜道で会ったみたいな挨拶に笑って、「お疲れ様」と返す。
「ありがとう。元気そうだったね、大きい声で呼ばれてびっくりした」
「気付いて欲しくてつい」
聞こえてたんだ。今更ちょっと恥ずかしい。
「一緒にいたのは田中君?」
「ううん、あれは熊田」
「ああ、北海道からの転校生ね」
「そう」
先生に熊田が認知された。
「ラムネ美味しかった?」
「うん」
「花火綺麗だったね」
「うん」
うんしか言っていないのは、頬がぎゅっとなるほど笑顔になっているからだ。
もう先生の声を聞くだけで嬉しくなってしまう癖がついている。
「先生って毎年見回りなの?」
「そうだね、三日のうち一日は。だからゆっくり見られるわけじゃないけど」
「出店のものは食べられないの?」
「食事は取ってから行ったよ」
「つまんないね」
俺の子どもみたいな感想に、「仕事だからね」と先生は笑った。
遊びに行った俺とは違う。先生は生徒を守るために、お祭りにも花火じゃなくて人混みに目を凝らす。
「まあずっとうろうろするのは疲れるよ、いい匂いはするし、周りは楽しそうだしね」
「女の子に囲まれてたね」
「いちご飴を買ってくれと集られていました」
なんだぁと笑ったけど、疲れからか腹筋に力が入らなかった。
「先生のクラスの生徒?」
「いいや、クラスの女子バレー部の先輩たち」
「ふーん、何時まで見回りだったの?」
適当に乾かした髪が濡れているのに気が付いて、手櫛を通しながらベッドに胡坐を掻いた。
「十時までだよ、シャワーも浴びないと」
うーんと伸びをする声が聞こえて、楽しい気持ちに蓋をした。
「じゃあもう切るよ」
俺も疲れてはいたけど、意味が違う。
向こうで曖昧な声がして、「少しだけ、高瀬の声が聞きたかった」と、疲れた声が言った。
「……」
俺は思考の行先に迷った。
先生はどういうつもりでそんなことを言うんだろう。俺はどういう気持ちになったらいいんだ?
俺のことをどんな風に奥さんに説明しているのかな。こまめに様子を見ないと心配な生徒だとでも伝えてあるのかな。
「休み中、先生に色々話したいことがあったんだけど」
「うん」
まあ確かに、俺は不安定な元教え子だ。
「忘れちゃった」
微かに笑う声を聞きながら、カーテンを開けて夜の界隈を眺めた。
「すぐにメールすればいいのに」
言われて、つい「したいよ」と返してしまった。
「してもいいって何度も言ってる気がするけどね」
「でも、友達じゃないんだし」
「あの生徒達に高瀬のこと誰ですかって聞かれたから、友達だよって言ったよ」
「え、俺のこと友達って言ったの?」
「そう」
「大声でせんせーって言ったのに?」
「元教え子が良かった?」
「対外的にはそうなんじゃない?」
対外的なんて言ってみたけど、実際そうだ。
「でも高瀬は他の子たちとは違うからな」
「どう違うの?」
「そもそも卒業したら、みんな教師のことなんて忘れてしまうよ」
窓に頭をもたれて、ひんやりとしたガラスに頬を付けた。ひっそりとした夜空に、寂しい間隔で星が瞬いている。
「まあ、そう言われると先生以外の先生を思い出すことはなかったかも」
目を瞑って反対側の頬を冷やす。
「俺を思い出してくれたの?」
「うん。去年も時々先生に会いたくなったよ。少なくとも二回くらい」
真結ちゃんに会った時と、鶴見の口調が先生を思い出させた時。あともう一回くらいあった気がする。
「そうなんだ、嬉しいな」
「先生はちゃんとみんなの記憶に残ってると思うよ、少なくとも俺のには残ってた」
先生に一度でも話を聞いてもらった生徒は覚えていると思う。大人の先生が自分のためだけに使ってくれた時間を。
「だと嬉しいな」
疲れているのか、先生の声はいつもよりも感傷的だった。その声に釣られて、俺も今日の感傷を思い出す。
先生には先生の人生がある、常識的な距離感を言うなら、きっとこんな電話はいけないはずだ。
「いいの? 俺が友達で」
「いいよ、遠慮して連絡が途絶えたりしなくなるなら」
先生にとって俺が友人として機能しているとは思えない。でも先生がそうだって言うなら、なにかメリットがあるのかも。
これからの教師人生に、悩めるゲイの青年が再登場する可能性は大いにある。
「……じゃあ、少し考えてみる」
「友達になれるかどうかを?」
驚いた声が聞き返してきた。
「そう」
「怖いな」
くっくっと笑う声に、俺もつられて笑った。
「それで、フットサルはどう?」
「相変わらず走り回ってるけど、お陰で体力は付いてきた」
「素敵な人はいなかったんだっけ?」
「それは考えない」
「どうして?」
「叶わないから」
先生が黙ってしまった。
「叶わない恋は辛いって分かってるから」
初めから分かってる。みんなは分かってなくていいな。
「孝一君とは連絡した?」
「ううん、でも例の子は見た」
「そうなの?」
「うん、真結ちゃんのSNSで。孝一らしいきちんとした感じの子だった」
はっきりと記憶に残ってしまった彼女の姿が浮かんでしまう。どういう気持ちになるのが適切なのか、まだよく分からない。
「どうして俺に連絡しなかった?」
「え?」
「辛かったんじゃない?」
うん、辛かったよ。でも一人でなんとかできた。先生を思い出したらホッとして気がまぎれた。記憶の姿だけで先生は俺を落ち着かせたよ。
「夏休みだからさ」
「そのルールを作ったのは俺じゃない。大丈夫だった?」
「うん」
窓を開けるとぬるい風が顔を撫でて、冷えた部屋の空気と混ざり合う。手を伸ばして夜風で腕を洗った。
大丈夫だったよ、泣かなかった。だってチラッと小さな写真を見ただけだ。いちゃつく二人を見たわけじゃない。まだ。
「きっと時間が解決してくれるよ」
「時間かあ、それって結構かかる? お付き合いが始まる前がいいんだけど」
「それはなんとも言えないね」
「いつかちゃんと友達になれるかな」
「なれると思うよ。来年かもしれないし、社会人になってからかもしれないけど」
「うーん」
「高瀬が社会人か、その頃には俺は三十だな」
やれやれと先生がため息を吐いた。
「先生って今いくつ?」
「二十六」
「二十六」
川崎さんと森さんと一緒か、川崎さんは見た目がもう少し年上に見えるし、森さんは年相応って感じだけど、先生はどうだろう。
「もっとおじさんだと思ってた?」
「言われるとそれくらいかって思ったとこ」
正直、二十六歳の年相応がどんなものかは分からない。
「高瀬が大学を卒業して、働く頃には三十一だな」
大学か、その話もあったな。
「俺、大学は行かないかも」
できるだけ軽い感じで言ってみたけど、先生はちゃんと間を取ってから、「どうして?」と慎重なテンションになった。
「早く働いたほうがいいかなって思って」
もう一度軽い感じで続けたが、先生は黙ってしまった。三者面談の空気を思い出して心地が悪い。
反対の腕も窓から出して、ぬるい風に触った。
「ご両親とは話した?」
「それはまだ。三者面談でそう考えてるって言っただけ」
親はいつも俺の好きにさせてくれるけど、さすがに何か言われるとは思っている。でもまだ呼び出しはない。
「俺は、高瀬の友達にはなれないのかもな」
「えっ?」
なんで急にそんな悲しくなることを言ってくるんだこの人は。
「もっと高瀬を分かってやりたいのに、難しい」
ああそういう意味か。気持ちが立ったり座ったりして忙しい。
「いいよ別に、話を聞いてくれるだけで」
ゲイであることに由来する生きにくい高校生活を先生の存在が助けてくれている、そのうえ進路相談まで頼るわけにはいかない。
「ハァー」
先生が息を吐いた。ドキッとするほど深く。
肺の中を空っぽにするほどの空気を長々と吐いて、そして物足りないほどスッと短く吸い込むのが耳に届いた。
「前に高瀬が言ったことは合ってるんだ」
「なんのこと?」
「俺は後悔してる、高瀬が中学の時にもっと寄り添えていたら、違った未来があったかもしれないって」
「それはいいんだって言ったよ」
「でも今も思うんだ、知らないうちに大切な事を一人で決めてしまうんじゃないかって」
反射的に口がむっとなってしまった。
確かに自分で決めたことが最善だったかと聞かれたら、今はまだ答えは出ない。
もっと早く先生に言えていたらって思ったこともある。でもあの頃も今も、俺なりに精一杯考えてるつもりだ。
「自分の人生は自分で決めるよ」
「それは立派だけど、でもきっと周りの大人はみんな思ってる。まだ未成年なんだから、大事なことを一人で決めるのは早すぎるって」
未成年ね、画一的な言葉で大人は俺たちをくくる。俺が画一から漏れていることにも気が付かないくせに。
ああ、なんでかな。こんな風に突然苛立つのも、未成年だからなのかな。
「でも俺は周りとは違うから――」
「うん、でも俺はそれを知ってる。だからせめて、俺には話して欲しいんだよ」
子どもであることを指摘されて苛立ったのに、その言葉はきちんと俺の子どもを安心させてくる。
自分が青年期なことをまざまざと感じて、憤りは自分へと向かった。
今でさえよく分からないまま日々を凌いでいるのに、これから先の未来をイメージするのは苦痛でしかない。それにさっき気付いてしまった、いつかは先生も居なくなるんだって。ますます早く自立したほうがいいって思ってしまった。それが短絡的だと言われたら、返す言葉はない。
「教えて? どういう考えで早く働こうと思った?」
夜の風が鼻腔を抜けて、膨らむ肺に溜まった。
「言って、高瀬」
落ち着け、この苛立ちは思春期の残りかすだ。もっと早く先生に言えていたらって思っただろ? これだって同じように思う可能性は高い。
「俺はずっと一人だし、運よく一緒に生きてくれる人ができたって、自分の面倒は自分で見なきゃいけない。でも、言い換えれば自分の分さえ賄えればいいんだから、そこまでの収入は必要ないって思う」
なりたい職業もないし、興味があることもない。将来の夢なんてない。何も思い浮かばないんだ。そんなことは先生にもあんまり言いたくない。つまらない人生に寄り添ってるって知られたくないから。
「大学なんて贅沢だよ」
「一人なら時間がある、なんだってできるとも言えるよ? 世の中には色んな場所があるし、色んな人がいる。お金があれば身軽だし、興味深い仕事に付けば、それだって楽しい」
「静かに生きていられたらいいかな」
「高瀬」
物言いたげな声が俺を呼ぶ。
先生はあの時のように後悔しないよう、俺のために思考してくれている。なのに俺は、今日見た家族連れから連想した、みんなとは違う人生を思い出す。
「今日も嘘ついた」
「え?」
「友達に」
先生はまた黙ってしまった。
「先生、嘘つくってさ苦しいんだよ。時々花火みたいに爆発して消えちゃいたくなる。友達でいるには嘘をついてなくちゃいけなくて、いつか辻褄が合わなくなって友達じゃ居られなくなる日のことを気にするようになる。中学の友達は孝一だけ。連絡は来てるのかもしれないけど見てない。高校も、卒業したら自分からは連絡しないと思う」
黙ったままの先生に、つい子どもみたいな質問をしたくなった。
「大人になったら嘘は簡単になる?」
「え?」
「苦しくない? 怖くならない? 嘘の毎日が積み重なって、それがバレたらそれまでの全部が無くなって、大切な人を傷付けるだろうし、うまくいってる間も罪悪感は身体の嫌なところに溜まってく。脇腹とか、こめかみの辺りとか。それでそこが痛むと思うんだ、嘘のせいだって」
蚊の羽音が聞こえた気がして窓を閉めた。静かだと思っていた部屋がもっと静かになった。
「大切な人も場所も、作るのと同時に嘘が始まるんだ。大学生よりは社会人の方が友達を作らなくて済む気がする」
結局、俺のこれからの人生が寂しいものだと知られてしまった。
「俺には、嘘は無いだろ?」
苦しそうな声に、また少し落ち込む。
「今日思ったんだ、先生には先生の人生があるって。仕事があって、家庭もある。いつまでも俺に付き合わせちゃいけないって。前から分かってたけど、今日は凄くハッキリ理解した」
やりがいのある仕事に付けば人生は楽しいんだろう。みんなみたいに恋人も欲しいし、そういう事だってしてみたい。でも考えれば考えるほど俺の脱童貞の道は険しすぎるし、それに加えて将来は、ずっと孤独で長く感じる。
考えるとただ怖くなる。横並びの同級生がいる世界ではこれ以上耐えられる気がしない。
考えながら、サッカーから逃げて、次は学校からも逃げたがっている自分に気が付いた。
俺って成長してるのかな。
「そばにいるって言ってるのに」
先生の声ははっきりと泣き声だった。
「……先生?」
鼻をすする音がして、呆然と上体を起こした。 近くまできていた眠気がすっ飛んでいった。
視線を彷徨わせながら耳を澄ませる。なんで先生が泣いてるんだろう。
「高瀬が連絡を止めたって、俺は毎日高瀬を思ってる。だから同じなんだ、連絡をしようと我慢しようとね」
「俺のこと……思い出すの?」
「毎日思うよ、何してるかなって」
何で? 嬉しいけど……。
「友達でもなんでもいい、俺はずっといる。大学生になろうと、社会人になろうと」
「そうなの?」
「一人になんてしない。だからもう一度一緒に、これからのことを考えてみよう? ね?」
言葉に詰まっていると、あのねと優しい声が続けた。
「学費や生活費を稼ぐのに忙しくて友達を作れない人はいっぱいいる。人付き合いが苦手で、四年間ずっと一人だったなんて人はたくさんいるよ。高瀬は、嘘があるとしても、友達は作れるって思ってる?」
「えっ?!」
あまりにも唐突に思い上がりをえぐられて素っ頓狂な声が出た。
「人付き合いをしなくても大学には通える。中二からまだ三年、自分のことと将来のことをもう少しゆっくり考える時間があってもいいと思わない?」
「え、と」
「嘘が苦しいのは分かるよ、俺のことを気遣ってくれるのもね。でも一人はもっと苦しかったろ?」
正直に言うとあまり思考にまとまりがなかった。
先生の潤んだ声や、思いもよらない言葉が投げかけられて、なんだかよくわからないまま、ただ最新の言葉だけが耳に残った。
一人は苦しかった。
「俺がいて何も変わらなかった?」
まさか、毎日先生を頼ってる。
「一人になろうとするな、お願いだから」
俺も二十六になったらこんな大人になれるのかな。いや無理だ、全然なれる気がしない。
「……わかった」
耳元で、はーっと息を吐く音がする。
「こういうのが心配なんだ。いやわからない、高瀬の人生だからね、でも」
先生が珍しくまとまっていない。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ! 高瀬が見ている景色は俺とは違うんだろうけど、やっと」
先生はそこで一度間を取った。
「やっと、高校生らしい姿が見られるようになってきたって思ってたんだ。でもやっぱり俺には分からないことで急にびっくりさせてくるね」
びっくり? 今は俺の方がびっくりしてた気がするけど。
先生の声はもういつもの通りで、さっきの泣き声は聞き間違いだったんじゃないかと記憶を疑った。
ふと目に入った時計に、時の経つ速さを知らされる。
「高瀬はみんなよりも悩みが多いと思う?」
そろそろ切らなきゃと切り出す前に質問されて、思考を速めた。
「まあ多少は」
「じゃあ迷う時間はたくさん持った方がいい。親は働きたいって言った時、なにか言ってた?」
「大学でやりたいことを探せばって」
「そうさせてくれるなら、その選択肢についてももっと考えよう」
「うん」
その気になった先生には簡単に説き伏せられてしまう。
自分では悪い方へばかり考えが膨らんで踏み出せないのに、先生に言われるとそうしてもいいのかもと思える。
ちょっとした自己啓発セミナーみたいだ。
「先生はちょっとずるいよ」
「なにが?」
「先生が言うと、なんでもそうかもってなる」
「そんなことない、高瀬だって分かってたはずだよ。親に言えてないから遠慮してるんだ。もちろん言わなきゃいけないわけじゃないけど、ご両親もきっとなんでだろうって思ってる。いつかゲイだって告白されたとき、きっとこのことも思い出す。遠慮させたかもって思う可能性は考えた?」
思わず唇が尖った。
あれから母さんは何も言わないけど、どうしてだろうって思ってる。
大学に行けば安心するのかなって思ったり、でもいつかがっかりさせるかもって思うと、早く自立しておきたい気もする。
俺は一人っ子だし、母さんは腰を痛めるまでは幼稚園の先生だったから、きっと子どもが好きだし……ああだめだ、また思考が悪い方に向かっていく。
「一人で考えないで」
「うん。でももう遅いから先生は寝て、俺も少し疲れた」
「……分かった、じゃあまた明日」
言われて少し考える。日付が変わって日曜日になった。
「月曜日に」
先生が微かに笑ったのが聞こえた。
「分かったよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
電話を切ってベッドにうつ伏せた。
迷えるというのは幸せなことなんだろう。でも、周りの人のように自分も迷っていいのかを迷う。俺が選ばなきゃいけない道があるんじゃないかと思ってしまう。
先生はそうじゃないって言ってくれてるんだろう。前向きな未来を信じていいんだって、先生がいるからって、そう言ってくれてるんだろう。
中学の時に後悔したからかな、でもあの時の先生の在り方は間違っていなかったと思う。俺の決断を信じて、そのままでいいって言ってくれた。
俺の人生を親ですらない先生が後悔したり責任を感じたりする必要はない。
俺が親に話せていないから、代わりにああして言ってくれてるんだろうな。
どうしよう、どうしたらいいんだ。
眠らなくちゃ、高瀬のおやすみの効き目があるうちに。
ビールの缶を置いて顔を覆った。缶についていた水滴が顔を濡らしていく。
何が正しいんだろう。
大学に行くことが全てではないとは思う。ただ、将来は一人だと言い切られたことが悲しかった。
高瀬が思う未来には、俺はもちろん、友人や両親の気配も無かった。全くの一人、それを高瀬は覚悟している。
そばにいると何度も言っているのに、どうして俺との関係まで終わりが来ると感じてしまうんだろう。
高瀬の遠慮は俺にいつも示唆する、俺の人生と高瀬の人生は永遠には寄り添えないんだと。今日はハッキリそう言われてしまった。
でも友人としてこれからも高瀬の人生に籍を置くことはできる。どうしたらそれを理解してもらえるんだろう。
ああ、嘘が邪魔をしている。全てを言い当てられた。
高瀬は時々絵美に気を遣う程度で、俺のプライベートを詮索しない。遠慮が嘘を延命している。そしてその遠慮が、やっぱり嘘が必要だという言い訳に変わる。
大人になっても嘘は苦しいよ高瀬。高瀬を傷付けてしまうことを想像して恐ろしい。何を言っても全てが後で嘘と一緒に消えてしまう。
もし絵美が生きていたら、高瀬に会いたがっただろうな。
ぼんやりした絵美の輪郭だけを思い出しながら、高瀬との再会が、絵美の死の延長線上にあることを思い出す。二人は、会うことは無かった。
残ったビールを煽って喉に流し込んだ。
ゲイであるということはそこまで孤独にならねばならないことなんだろうか? そんなはずはない。大学に入って、もう少し視野と活動範囲が広まればゲイの友人だってできるだろうし、そうすれば恋人だって——。
お祭りの会場で先生と叫ぶ声が耳に届いた。直ぐに高瀬だと分かった。
見ると石積みに立って手を上げていて、俺が笑うと恥ずかしそうに手を引っ込めてしまった。
たくさんの人の流れが俺と高瀬を隔てていた、それでも高瀬のところへ行こうと思った。でもすぐに、高瀬の隣に友人が立った。
高瀬は一人じゃない。俺みたいに一人じゃない。
分かっているのに、どこかで助けられるのは自分だけだと躍起になっている。
ゲイだと知っているのは俺だけだから、心細い胸の内を話してくれるのは俺だけだから。
今度こそちゃんと選んでいい道を全部提示してあげたい。遠慮する必要なんてない。一人にしない、そばにいる。俺は嘘つきだけど。
「ああ……」
消し忘れた玄関の電気だけが灯る薄暗い部屋に、エアコンの音が響いている。少し風を弱めたいが、カウンターにあるリモコンを取りに立つ気にもなれない。
ソファーで身を丸めて、レースカーテンの向こうに透ける夜を見つめた。
高瀬を一人にしたくないと思いながら、背後にある孤独から目を逸らし続けている。
俺は浜辺にいて、高瀬は酷く荒れた海にいる。懸命に航海を続けようとしている高瀬に、俺は何度も引き返すように叫ぶけど、きっといずれ海は凪いで、高瀬は俺には見えない潮の流れに乗って遠くの地へと行ってしまうんだろう。
俺はいつまでも安全な浜辺で海を眺めているだけだ。
――浜辺? 海?
どうしてそんなイメージが湧くんだろう、酔っているのかな。
息を吐いて起き上がり、缶を持って立ち上がった。
たったひと缶で酔うはずもない。濯いで逆さにして、同じように並んだ缶の横に置いた。
シャワーは明日にしよう。
カウンターのリモコンで風量を弱めて、シャツを脱いでベルトを外す。下着だけになってベッドに入った。
ひどく疲れて、いつもよりも一層孤独を感じた。腹が鳴っていたが食欲は無かった。薄いケットに包まって、誰かと寝たいと思った。
結局月曜になっても高瀬からの連絡は来ず、そのまま週が過ぎて、夏休みは終わった。
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