第35話 将来について


 夏休みに入ってすぐ三者面談があった。

 溝口先生は俺の成績と生活態度を丁寧に褒めてくれて、「あのことがあって、少し心配もしていましたが、今はクラスメイトとも上手くやっています」と、母さんに報告した。

 それから進学の話になって、先生も母さんも、大学に行くんだという前提で話が始まった。

 推薦の可能な大学は――なんていう言葉が出て、中学の特待を断ったときと同じような憂鬱さに胸を占拠された。

「俺は、就職か公務員試験も考えています」

 少し唐突に切り出した。

「え?」

 驚いた二人が俺を見る。

「どうして?」

 言ったのは母さんだった。

「なりたい職業がないんです。だから、学びたいことがあるわけじゃないし、それなら働くのがいいのかと思って」

 母さんと、そして先生に向かってそう告げた。


 ずっと考えていた。春に二者面談で将来について聞かれてから。

 大学まで出してもらっても、俺は一生一人身だ。物欲も趣味も何もない。大学を出れば生涯年収はいいんだろうけど、動機も何もないのに大学に行く気にはなれなかった。


「そうなのか」

 先生は明らかにがっかりしたような声を出した。それでもそれ以上進学を勧めることはせず、「ご家族で話し合ってみてください」と言って面談を終えた。

 先生は最後に、「何か心配事や悩み事、困っている事はある?」と俺の目を見て言った。

 俺はその目を真っすぐに見て、「いいえ」と返した。

 本当はすべてが「はい」だったが、俺は溝口先生を中屋先生ほどには信頼していなかった。信頼できる先生は一人で十分だった。


 帰りのバスの中で、母さんが吊革に掴まる俺を見上げてきた。

「大学いかないの?」

「学びたいことが無いから、お金がもったいないよ」

「行ってから見つけたっていいのよ?」

「どうしても行きたくなったら自分で行くよ」

 想定していた質問に決めていた通り答えると、母さんは黙ってしまった。



 何度も先生に連絡したくなった。些細な事も全部話したかった。ただ先生の声が聞けるだけでもよかった。

 でもこの間、先生の声でいってしまったことを思い出すと、居た堪れず顔が熱くなった。

 あんなことになった自分を腹立たしく思う。それでも話は聞いてもらいたい。先生との会話が俺には必要だった。

 でも日常は上向いている。三者面談で将来についてという新しい問題が持ち上がったけれど、一年の時とは違って、今年の夏休みは母さんに嘘を吐く必要がないほど予定が詰まっている。

 それなのに、先生だけが足りない。

 欲張りだなあ。

 なんだか変な風に先生に寄り掛かっている気がして、夏休みだと自分に言い聞かせて連絡を耐えた。

 けれど日が経つにつれ、ニコチン中毒者みたいにイライラが募って、俺はついSNSを開いてしまった。

 フォローする数少ない友人の投稿と、PRやおすすめのインフルエンサーの投稿が代わる代わる流れてきて、俺はついに手を止めた。


 真結ちゃんと、多分お友達がこっちを見て笑っている。その後ろに、椅子に座った横向きの女の子が写っていた。

 女の子は前のめりでテーブルの向こう側にいる誰かに笑顔を向けている。

 反射的に画面を切って枕の下に入れた。

 意識して無を維持した。考えるなと思った瞬間、それは終わった。


 彼女の視線の先に孝一がいる。孝一のお母さんの可能性もある。でもとにかくあれは孝一の家だし、あの日の投稿だ。

 心の鍋にポッと火が付いてしまった。俺はそれが煮えないように心を整えた。火力はトロ火に維持できたが、考えることは止められなかった。


 姿勢のいい細身の女の子だった。

 艶のある真っすぐな黒髪は肩にかかるくらいの長さで、綺麗な形の耳に掛けられていた。

 正直に言えば、がっかりしたかった。なんだこういう子が好みなのかよって思いたかった。

 孝一に良く似合う女の子だったな。かわいいワンピースとかじゃなくて、水色のシャツに黒い細身のパンツ。気が利いて、俺みたいに余計な事を言ったりしなさそうな、ちゃんとした子に見えた。

 ふいに撮られた横顔から、次々に妄想が膨らむ。

 きっと真結ちゃんとも仲がいいんだろうし、お母さんとも仲良くなったろう。

 孝一との距離は縮まったかな、あの部屋に入ったのかな。

 浮かれてしまう孝一に、その子は気が付くだろうし、孝一もそんな自分を止められない。

 孝一はぐずぐずするようなやつじゃない。意志の強い真っすぐなやつだ。片思いは長くは続かないだろう。

 俺には、誰が孝一からの好意を拒否できるのか、想像できなかった。


 今二人はどうなってるんだろう。

 一度思い切って「どうなった?」と聞いてみたけど、変わらず片思いだと返ってきて、それ以降付き合ったという報告は受けてない。でもここしばらく連絡も来ていなかった。


 ……付き合ったら俺のことなんて思い出さないか。


「あ、そう言えば付き合うことなったんだ! 言い忘れてた!」なんて言われて、俺はそれを「おいおい」とか言って笑って祝福したりして。それからも折をみては最近どう? なんて興味津々で話を振って。


 叶わないんだからと距離を取って、恋の話に嫉妬して、先生に泣きついて、それでも友達でいたくて。

 何が幸いしたのか分からないけど、今も孝一の恋の話ができる友人の立場にある俺は、付き合った二人の青春の進捗状況を聞いて、喜んだり、からかったり、羨んだりを適切にしていかなければならない。これからもずっと、友達でいたいから。


「苦しそうだなあ」


 思わず呟いてしまった。

『一緒に乗り越えよう、そういうものだから』

 先生の言葉を思い出して、ベッドにひっくり返った。

 なんで夏休みに見ちゃったんだ。

「先生、結構きついんだけど」

 目いっぱい情けない声で愚痴をこぼすと、目を瞑って先生の姿を思い出した。すると少しだけ気持ちが落ち着いた。

 先生が今までにくれた言葉を思い出す。

 大丈夫だよ、とか、一人じゃない、とか、俺がいる、とか。単語だけで聞くと結構ぐっとくるな、と思わず笑った。

 先生の夏休みがいつからかを俺は聞かなかった。大まかに、夏休み中は自分で対処してみようと決めていた。先生には家庭がある。いつまでも俺の嫉妬話なんかを聞かせるわけにはいかない。

 たった一枚の写真でこんなに動揺するなんて思わなかったけど。







 休みの最終日、絵美のお母さんから連絡が来た。折を見て来る、俺を気遣う連絡だ。

「俺は大丈夫です。お二人はお変わりないですか?」

 いつも通りこの言葉を枕に、お母さんの近況報告が始まる。

 辛い話ではない。親戚付き合いや、近所で起こったちょっとした出来事、お父さんとの意見の食い違いなんかのいわゆる世間話だ。

 妻が生きていた頃から、お母さんのこの手の話を聞くのは俺の役割だった。

 活動的な妻は、お父さんと一緒に外に出る方が好きで、お母さんとの女性特有の終わりのない会話は苦痛に感じると言っていた。

 俺とお母さんを置いて、二人はよく釣りに行ったり山登りに行ったりしていた。それを煩わしく思ったことはなかった。お母さんは話をするのが上手だったから、聞いていて詰まらないと思うこともなかった。

 お母さんはいつも変わったお茶菓子を用意してくれて、俺はお母さんのうまく構成された話を聞きながら、慣れた手つきで準備されていくコーヒーやお茶が注がれるのを相槌をうちながら眺めた。


 お母さんはひとしきり自分の話をし終えると、俺の口も上手に割らせる。

「新しい学校はどう? 慣れた?」

「はい、すっかり。共学になって生徒達が生き生きしていると先生方も言っていました」

「まあそれは素敵ね、問題も起こるんでしょうけど」

 ふふっと笑う声が微笑みを誘う。

「そうですね、中高での交流も多いので、目を光らせるようにとは言われています」

 お母さんはアハハと声を上げて笑った。

 お母さんの笑い声は絵美によく似ている。お母さんが笑うようになって嬉しいが、少し胸が詰まった。

「人を好きになってドキドキするのはいいことよねえ、特に学生のうちは」

 言われて高瀬と孝一君の事を思い出した。

 異性の叶わない恋と同性の叶わない恋は同じだけ辛いんだろうか。

 いや、高瀬はそうなりたいとは思わなかったと言った。気持ち悪いと思われたくなかったからと。

 多感な時期に、そんな風に恋を諦めてしまうなんて。

「叶わないとしても、いいと思いますか?」

「叶わなくても、好きな人が居るっていうあの状態がいいのよ。同じ学校、同じクラスなら毎日顔を合わせてドキドキするのよ? いいわねえ!」

 両手を擦り合わせる姿さえ想像できそうなほど、お母さんの声は弾んでいた。

 これも違う。高瀬はドキドキしてしまうことに罪悪感を感じていた。そう感じる自分が何者か分かって、暗い教室で俺に思春期とは何かを聞いた。

 あの時に高瀬は、「みんなと同じにはなれない気がする」とちゃんと言っていたのに。俺は、年頃の悩みがあるんだろうと短絡的に考えていた。

 担任になって、頭のいい生徒だとちゃんと分かってからも、その言葉を思い返して再考しなかった。俺が気が付くべきだったのに。

 いつか高瀬が大人になった時、自分の初恋をどんな風に懐かしむのかな、その時の高瀬が幸せだったら、いい思い出だと思えるだろうか。


「今のうちにたくさん恋愛しなさいって、ちゃんとみんなに言っておいてね」

「それはちょっと保護者から注意されそうですね」

 苦笑いで返すと、「世知辛いわねえ」とお母さんは拗ねた声をだした。


 俺は片思いをしたことがない。

 誰かに恋をして、姿を遠くに見かけただけで、胸がいっぱいになって苦しくてしょうがなくなる、というような経験はない。

 喋ったこともない相手に興味を持ったことがないし、少し話したくらいでそんなにも深く誰かにはまることもない。興味を持たれて付き合った事はあるが、やはり愛情が湧くには、それなりの会話や交流が必要だった。

 けれど絵美が死んでしまって、今まで触れられていた彼女が居なくなって生まれた喪失感というものが、少し、片思いの状態に似ているのかもしれないと思った。

 彼女の全てが日々過去になっていって、自分の想いばかりが募っていく。想えば想うほど遠のいていく存在に、もう二度と触れることも見ることも叶わないんだと絶望し、次第にそんな悲しみや寂しささえ少しずつ漠然としていって、こうして慣れていってしまうのかと思っていると、突然耐えられないほどの後悔が襲ってくる。

 もっと一緒に過ごせばよかった。行きたがっていた場所に早く連れて行ってあげたらよかった。毎日一緒に美味しいものを食べて、欲しがったものを全部買って、触れて、抱きしめて、キスをして、何度だって抱きたかった。遠くにでもいい、姿を見たかった。

 心を千切って引いていく波を見送って、また少しずつ執着が薄れていくのを感じながら喪失感に足先を浸していると、遠く遠くの衛星に影響した潮の満ち引きになって、後悔の波が孤独な心を荒々しくさらった。


「誰かと出かけてる?」

「え?」

 聞き返した俺をお母さんが笑った。

「デートとか」

「いいえ」

「私がこんな風に頻繁に連絡してたら次に進めないだろうってお父さんが言うの。でもほら、私は絵美よりもあなたの方が波長が合うじゃない?」

 ハッキリと言う所は絵美に似ている。

「そうだったかもしれません」

「だから凄く寂しい時は、どうしてもあなたを思い出すの。自分の息子じゃないけど、やっぱりあなたと話したくなる。絵美の事もだけど、そうじゃない事も色々ね」

「俺も、お母さんの話が聞きたくなりますよ」

 高瀬とそしてもう一人、こうして俺のそばまで来てくれる人。高瀬と違うのは、どうしても絵美を思い出してしまって気持ちが落ち込んでしまうところだ。

「一人でいてはだめよ」

「はい」

 挨拶をして電話を切った。


 高瀬とお母さんはきっと気が合うだろう。一生交わらない二人が俺を介して繋がっている。一方は俺を気遣って、一方は俺を必要としてくれる。

 俺が、二人を必要としてる。

「……」

 思ってから妙な気持ちになった。何故かは分からない。

 俺は直ぐにその違和感を忘れた。

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