第34話 先生の夏休み

 

 学生たちが一斉に夏休みに入った。

 梅雨が明けてからずっと、毎日は酷く暑かった。

 休み中は高瀬からの連絡が来ない。プライベートだと思っているからだろう。

 一度遠慮した時にもっと強く気を遣わないように説き伏せれば良かった。そこまで考えて頭を振った。


 陽炎越しに見る景色は全て幻のように感じられた。たった数日高瀬の気配が消えただけで、みるみる虚しさが胸に溜まり始めていた。


 そうだった、俺は独りだった。


 誰と分かち合うこともない人生に、どんな意味があるって言うんだろう。

 効率よく命を繋ぐために分業されたこの世界で、ただ生きることはこんなにも辛いものだっただろうか。

 俺が今、あの息苦しい気持ちで毎日を生きていた中学生だったら、知らない世界に救いを求めて見知らぬ誰かと繋がろうとしただろうか。


 ぎらぎらと照りつける太陽は俺にばかり濃い影を作る。

 毎日生きる意志を問われているかのようだった。

 携帯した水分を摂ることを止めたら、きっと簡単に死んでしまうだろう。そう思いついた瞬間、白昼夢が現れた。


 子どものはしゃぐ声、水しぶき、濡れて張り付いたシャツ。

 近くで笑う水玉のブラウスの母と、ずぶ濡れの姉と、小学三年生の自分。


 息の詰まるような真夏の熱気を纏った情景が、走る電車の中に見るように、一瞬、脳裏に見止めて、過ぎ去った。


 死にまつわる記憶が、ほのかに漂った死の妄想を連れていった。

 それが絵美の記憶でないことが、心に別の痛みを生んだ。

 腕が痒い、いつの間にか虫に刺されていたらしい。

 俺も自分で生きなければ。高瀬がそうしているんだから。

 絵美が死んで一番辛かったはずの一年を一人で生きたのだから、きっとこれだって凌げるはずだ。



 幸い夏休みとはいっても、教師は生徒と同じだけ休めるわけではない。お盆休みはあるし、大体の教師が幾日かの有給をここで消化するが、それでも一般的な社会人と同じくらいの休日があるだけだ。

 平日は通常通りの勤務で、色々とまとめなければならない報告書もあるし、後期の授業の準備や会議、講習もある。夏は見回りの担当も回ってくる。

 部活をもたないだけ楽ではあるが、暇なわけではない。


 精力的に多くの仕事に手を付けた。人の作業の補助もして、余計な事を考えないよう気を抜かずに集中して努めた。

 夏休み中の校内はクラブ活動が活発で、人も多く、授業が無いので空気が柔らかい。

 戯れに吹かれたトランペットの流行曲が、窓の向こうから蒼い風と一緒に入り込んでくる。誰かがそれに鼻歌を合わせて、職員室に小さな笑いが生まれた。

 生徒たちの気まぐれが、こうして大人たちを和ませていることに彼らは気付いていないだろう。


 酷暑は毎日俺から体力を奪ってくれ、お陰で夜を持て余すことなく眠りが訪れた。  

 買っておいた三冊の新書はまだ暇を埋めることなく綺麗なままだ。

 そして高瀬から連絡がないまま、休暇に入った。


 できるだけ外出した。隣の市まで出て、初見の店で買い物をしたりして時間を潰した。美術館や映画館、初めて観劇にも行った。どこも人出で賑わっていて、俺はそれに紛れ、一人でいることに気付いたり忘れたりした。

 生徒のクラブ活動の大会や展示会も全て見に行った。昔とは違う動機が混ざっていることに申し訳なさを感じながら。

 そうして帰ってきて疲れて眠れる時はいい。眠り損ねて今日が終わるという事に気がつくともうダメだった。

 言い知れない不安感に駆られて息苦しくなった。

 ジッとしていると動悸がして、脳内で溢れ出る悪い予感に飲み込まれそうになる。心に潜む自暴自棄な自分が、飲み込まれて死んだっていいような気にさせるものの、正しく機能する恐怖心が俺をジタバタとさせた。


 その日はそれが来てしまった。

 もう乗り越えたとは思ってはいなかった。高瀬で気を紛らわせていたのは理解していた。でも久しぶりのそれがきて、やっぱり自分の状態は良くなったわけではないんだと心に影が落ちた。

 仕方なくスマートフォンと財布をポケットに入れて、久しぶりに夜を歩いた。


 夜空を見上げて深く呼吸すると少しだけホッとする。

 夏の夜更けの月が日中の太陽のように俺の足元に影を作った。

 夜の闇が影を柔らかくぼやかしていたが、街灯に照らされて分身した自らの影に、かつてそこに並んだふた回りほど小さかった影を想起させて、結局孤独感を胸に染み渡らせた。

 夜の空気はまだ日中の湿度を保っていて決して爽やかではないのに、不思議と気管を簡単に通り抜け、詰まったようだった呼吸が楽になる気がする。

 太腿の筋肉を動かしていると直ぐに汗ばんで、憂鬱な気持ちに集中してしまっていた脳が注意を分散させ、落ち込みが軽減される実感があった。

 気持ちが落ち着いてくると、高瀬を思った。

 絵美を思うべきなんだろうけれど、俺は相変わらず彼女の姿をハッキリとは思い出せない。

 高瀬のおやすみが聞きたかった。先生と呼ぶ声も、ありがとうや、またねが聞きたい。

 夜というのは心を無防備にしてしまうものなのかな。

 曖昧にしていた思いが簡単に言葉になってしまった。

 俺は人恋しいんだ。


 そうして夜の散歩は四日目に突入した。


 まだ一度も受けたことはないが、職質をされてもいいように、大抵は一番近いコンビニまで行く。今夜は寝具を剥いでコインランドリーまで歩いた。

 水にまみれて叩きつけられるシーツを見つめながら、自分が普段いかに高瀬に寄り掛かって生きているかを自覚した。まだ十六やそこらの男の子に。

 高瀬と会った公園にはあれから行っていない。今考えるととても不審者然としている気がするし、それに行けば高瀬の涙を思い出す。

 才能を守ってやれなかった強い後悔は、まだ鮮明に心に残っている。

 この間、高瀬に後悔しないでと言われた時、心を見抜かれていた驚きと、俺への気遣いがあまりに健気すぎて思わず涙が出そうになった。


 楽しく過ごしているかな。


 休みの予定を聞くと、短期講習に行くと言っていた。

 毎週末にフットサルの試合があって、歓迎会にご飯を食べに連れて行ってくれるようだと言っていた。

 クラスメイトとも遊ぶだろうし、家族とも出かけたりするんだろう。海に行ったり、花火を見たりするのかな。そうだといい、楽しいことがたくさんあるといい。


 もう一昨年になってしまった。絵美と花火を見に行ったのは。

 でもやっぱり詳しくは思い出せなかった。

 絵美はあの日何を着ていただろう。どんな花火が上がって、絵美はなんと言ったろう。人出はどのくらいで、暑かったのか、肌寒かったのか。

 思い出そうとすればするほど記憶は遠ざかっていき、心細くなっていく。


 俺はいったいなにを考えていただろう。多分、仕事のことを考えていた。


 高瀬たちが三年に上がる直前、副担任を受け持つはずだったクラスの担任の先生が妊娠したことが分かって、俺が担任を受け持つことになった。

 二年目で受験生を見ることになってかなり不安はあったけど、色んな先生のサポートもあって、なんとかふた月がすぎていた。

 受験生の親のナーバスな心情は、持ち上がりだったはずの妊娠した元担任へ集中し、経歴の浅い俺はことさらに激励され、やはりそれなりにプレッシャーにはなった。

 時には公立中学への期待感の喪失から、ほとんどの生徒が塾に通う昨今の現状について、指導力が落ちているのではないかというところにまで話が及んだりして、言葉選びにはかなり気を遣った。

 仕事は増える一方で、一日がとても長く、過ぎていく日々は早く感じた。

 ただそんな状況でも救ってくれたのは生徒達だった。

 俺なんて軽んじられるかもと構えていたけれど、それぞれに色の違う悩みがあっても、聞くと素直に語ってくれた。

 気を揉むような問題も起こさずに、きちんと自分たちの将来を見据えて過ごす子ども達に深く関心した。そしてそれが、それぞれの親たちが彼らをよく見ている結果なんだろうと思うと、俺も出来うる限り生徒達に寄り添っていこうと強く思った。

 だから、という言い訳が一番の憤りの原因かもしれない。

 遅くまで仕事に集中した結果、絵美との時間があまり取れていなかった。彼女は自分も公私共に忙しいタイプだったから、急な抜擢にとても頑張っているといつも励ましてくれた。それで俺は、数少ない絵美との時間に花火を見に行った日も、やっぱり仕事のことを考えていた。

 思い出せないのは、見ていなかったからなんだろう。

 でも、それでも全てを見ていなかったはずはない。確かに存在したはずの四年が全てぼやけているのはおかしい。彼女に関連する全てが、まるで何も無かったみたいにこのまま色褪せて行ってしまうなんて納得できない。

 嘔吐感すら伴うこの悲しみを俺は誰とも共有できないでいる。

 育ててきたご両親とは悲しみの質も重みも違うだろう。長い時間を過ごしたことを羨ましく思うし、同時にその喪失感は計り知れない。俺はたったの四年だ。

 思い出はそうたくさんあるわけじゃないのに、どうして未だに取り戻すことができないんだろう。俺の心の傷はそんなに深いものなんだろうか。


 駆け寄ってきた高瀬の姿を思い出す。

 久しぶりだと言って点々と身体に触れてくる手の感触。ゴールを決めて、ちょっと得意そうに俺を指さした姿、ほんのりと赤らんで汗に濡れた肌、全てが鮮明だ。

 桜が散る真夜中の公園で、俺に会えたと言った時の笑顔も簡単に思い出せた。その時の、肌を滑り落ちていくような寒気に似た後悔も。

 俺は絵美だけでなく、あの頃の高瀬もよく見てやれていなかった。

 本当は誰のことも良く見えていなかった。ただ必死ぶって、寄り添ったつもりでいただけ。

 ため息すら出ない。

 高瀬の声が聞きたい、せめて彼のことだけは見逃したくなかった。

 けれども高瀬から連絡は無いまま、蒸し暑い夏が、毎夜俺を息苦しくしていった。

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