第33話 罪深い自慰行為


「先生!」

 長身の後姿を見つけて声を張ると、先生が振り返った。

「本当に来てくれた!」

「フットサルをする高瀬が見たかったからね」


 先生は、やっぱり昔よりずっと格好良くなったと思う。ファッション? 髪型のせいかな? でも薄着になった先生は、またちょっと痩せたように見えた。

 公園で会って以来の先生をじろじろと見定めていると、「どうしたの?」と、くすくす笑われる。電話越しじゃない先生の声に、気持ちがうわっと膨らんだ。

 ぺたぺたと先生の肩や背中に触る。やっぱり痩せてるな、夏バテ?

「なにかの儀式?」

「久しぶりの本物の先生だから、ちょっと」

 適当な事を言って誤魔化して、痩せたのも気になりつつ、動揺なく人に触れることも嬉しい。

「高瀬ー!」

 下から小塚先輩が俺を呼んだ。

「呼ばれてるよ」

「あ、あれが小塚先輩。あの一番ごついのがキーパーの川崎さんで――」

 説明を始めた俺を先生は笑って、「また後で教えて」と背中を押した。

「今日のゴール、全部先生にあげるね!」

「絶対決めるんだ」

「まあね!」

 俺は得意になって先生に手を振った。



 今日は体育館のコートを二面に分けて、合計八チームのトーナメント式だ。

 強いのは隣の市から来ている、『HEROSE』と『A-Pass』という二チームらしい。

 俺はいつもやっている『B-DUSH』以外のチームを知らないから、どこも初見だ。

「ところでなんで野鳥なんですか?」

 今日初めてチーム名を知った。wild bird、明らかに他のチームとは雰囲気が違う。

「初めて登録するとき、横のスペースで野鳥の写真展をやってたからなんだって」

 小塚先輩が苦笑いで教えてくれた。

「そんな理由……」

「そんな理由だよ」

 鈴木さんが笑った。

「みんなてきとーだから気にするな」



 フットサルのポジションはそれぞれサッカーとは違う名前が付いていたが、みんな適当に呼んでいた。

 ピヴォはトップだったし、ゴレイロはキーパーですらなく川崎ポジションと呼ばれていた。

 トップはいつも森さんがやっている。川崎さんと同じ二十六歳で最年長だけど、どこから来るパスも上手く取ってくれる人で、得点源と言うよりは、森さんに当てて、上がったサイドが決めるというのがうちのよくあるパターンだった。

 利き足が左の小塚先輩が左、右を鈴木さんか萩原さんが入る。二人はタイプが違って、鈴木さんは堅守だったし、萩原さんはかき回すタイプで、上がりたがる傾向があった。

 キーパーの前で自陣の底のポジションが、フィクソと呼ばれるポジションで、みんなはクソと呼んでたみたいだったけど、俺がそのポジションに入るようになってから呼ばないようにしてくれている。

「初めは俺と鈴木で様子見て、雰囲気つかんだら入れかえるから」

 小野寺さんがそう言って、コートに入っていった。小野寺さんはたまに来る二十四歳の社会人で、川崎さんほどがっしりしてないのに、もの凄く当たりに強い。レスリングの経験があるそうだ。それが何がどうなって今フットサルをしているのか、俺はまだ知らない。


「B-DUSHさんは向こうの山なんですね」

 話しかけると、萩原さんは気の抜けた声を上げた。

「まあ当たらないだろうなー。向こうはしょっぱなHEROES、うちは一回戦A-Passを免れたから、ここで一勝できたら嬉ちい」

「そんなに強いんですか?」

「ベテランが多いから、試合のペース作られちゃうんだよ。俺は見ててつまんない」

 相変わらず素直な人だ。


 初戦の相手はB-DUSHよりも年齢層が上で、簡単に言うとエンジョイ勢に近かった。

 ベテラン的な動きはあったけど、チェイスが遅れがちで、ただキーパーがしっかりしているのと、きちんと守備には戻るので、こっちも身体が温まりきってないうちは、少しだけもたついた状態になった。

「萩原さんじゃないですか?」

「だよねえ」

 前半八分に鈴木さんと萩原さんが交代した。

 いつも通りよく走る萩原さんに、相手の守備が間に合わず、前がかりで二点入れて前半が終わった。

「サイドで一点ずつ入れたー」

 小塚先輩が汗を拭きながらのんびりと喜んだ。

「高瀬も決めてくるか?」

 小野寺さんに言われて、「はい!」と頷いた。


 後半、サイドでもいいぞと言われたがフィクソに入った。サッカーではトップ下かツートップのどちらかに入ることが多かったけど、狭いコートではここが一番落ち着いた。

 何度かなぞるように味方とパスを回す。行きたそうな萩原先輩を無視して、相手のトップの選手が詰めてきたタイミングで小塚先輩に視線を送った。

 トップを交わして、返ってきたボールを持って中に走りこむ。森さんが相手のフィクソを背負って左へ開き、右から萩原さんがディフェンスを振り切って走ってくる。キーパーが微かに右に体の中心を向けたのを見て、左の奥に蹴りこんだ。

「しょっぱなから俺を囮に使ってくれちゃう高瀬君、好き」

 萩原さんが俺の頭を撫でて、森さんが出してくれた手にタッチする。

「綺麗な隅に刺さるシュートだったよー」と小塚先輩が手を取って褒めてくれた。

 客席を見上げて先生に小さく指を差す。先生は笑って拍手してくれた。

「知り合い?」

「はい!」

 短く答えて小塚先輩にその先を訊かせなかった。

 瞬間的に先生を先生と紹介するのが嫌だと思った。でも友達と言うには先生は大人だった。

 試合はその後もほとんど自由に攻撃ができた。萩原さんが上がりっぱなしで、俺は何度も萩原さんにパスを出した。でも結局得点は森さんと小塚先輩が決めた。

「ムキー!」

 怒る萩原さんがすごく面白くて、右のディフェンスを俺がカバーして萩原さんを下がらせず、中に移動した萩原さんの足元に速いボールを出すと、ボールは萩原さんの足に当たって軌道を変えてゴールに入った。

「高瀬許さない!!」

「ナイスゴール!!」

 試合が終わっても萩原さんが怒って俺を追いかけてくるから、「トイレ行ってきます!」と飛び出した。階段を駆け上がって先生を探す。

「先生!」

 駆け寄ると、手すりに寄り掛かっていた先生が笑ってくれた。

「かっこよかったよ」

「一点しか入れなかったけど!」

「高瀬が支配してたのは俺でもわかる。あと右の人面白い」

「萩原さん、俺も好きなんだ」

 起こって追いかけてくる萩原さんを思い出して、くつくつと喉が鳴る俺の頬っぺたを先生の指先が摘まんだ。

「汗が付くよ?」

 驚いて見上げると、「楽しそうだった」

 優しい笑顔で言われて、何とも言えなくなってしまった。


 先生はその後、文化センターで催されている美術と書道の展示を見に行くと言って帰っていった。

 最後まで見られなくてごめんねと謝ってくれたけど、そんなの全然構わなかった。

 俺も先生のそういう所が好きだった。今の生徒たちにも先生を好きになって欲しい。独り占めにはできない。



 ベテラン勢のチームA-Passは確かに上手かった。

 かわせないわけではなかったし、シュートが鋭いわけでもなかった。ただ、萩原さんの言ったように、試合巧者だった。

 先に得点を稼ごうとトップに入れられた俺は、初めから全力で追いかけまわされた。

 明らかに不要なチェイスで、前半途中でポジションを入れ替えても、変わらず追いかけまわしてきた。それでもなんとか二点入れたけど、相手は高圧的な守備を変えなかった。

 三点稼いだところで俺の脚が攣ってしまい、ようやく攻撃にシフトした相手に得点を重ねられて試合には負けた。


「ほらね、つまんない」

 置き型の送風機の前にみんなでたまって決勝戦を見ていると、萩原さんが頭の上で手を組んで感想を漏らす。

「脚大丈夫?」

 小塚先輩が投げ出された俺の脚を心配そうに見る。

「ありがとうございます。ほんと……すみません」

「謝ったりしないでいーよ」

 小塚先輩が優しく笑って、スポーツドリンクを無理やり持たせてくれた。

「あんなに徹底して追いかけまわしてくるとはなあ」

 鈴木さんが壁に寄り掛かって舌打ちをする。

「ちゃんと前半守って、後半で高瀬を出していたら……」

 川崎さんが頭を抱えている。俺の体力がちゃんとあれば良かっただけですと言いたかったけど、「そしたら前半でちゃんと攻められて点取られてたよ」と萩原さんがのんきに答えた。

「俺たちはあそこまでは徹底出来ないもんな」

「勝つのは勿論楽しいけど、遊ぶ方が楽しいからねー」

 萩原さんの言葉に、確かにそうだなと思った。

 俺の体力が付けば遊びながら勝てる。あれくらいの相手なら多分できる。

 ただ正直に言うと、俺は逃げ過ぎていた。

 もっと背負って対処することもできた。でもやっぱり、触れ合うのが怖かった。


 夜にその話をすると、先生は、「無理はしないんだよ」と勧めた。

「うん、でもやっぱサッカー辞めてよかった」

「そうなの?」

「今でようやくなのに、あんなごりごりの男子校に行ってたらパニックだよ」

「どんな風に怖いの?」

 聞かれて、言葉は出てこなくなった。

「言わなくてもいいよ」

「……うん」

 触れられて興奮しそうで怖い、なんて言えない。

 性的な欲求が高まってるのかな。

 中学の時は言い知れぬ恐怖だって言えた。でも今は違う。俺はしたいんだ、男の人とそういうことが。

 落ち込んだ気配だけを先生に伝えたまま、おやすみなさいと電話を切った。

 明りを消してタオルケットに包まると、やっぱり今日のことが思い出された。


 常に後ろに付かれて、俺がボールを持つと直ぐに詰めてきた。

 すぐそこで繰り返される上がった呼吸、身体全体で押される感覚、逸らされない視線が俺の身体の動きを監視していて、逃れたくて、速く捌かないとと慌てた。

 背負いたくなくて、受けてからの時間が欲しくてとにかく走り回った。それでもいつまでも追いかけまわしてきてぴったりと背後に付かれた。当たり前の守備が、怖くて仕方なかった。

「なんで」

 なんで勃っちゃうんだろう。

 股間にある膨らみに、恨めしい気持ちで触れた。

 今年のお正月に出会った八重歯の店員さんは、もうおかずとしては機能しなくなっていた。俺はまた夢精にお任せ期に入っていた。

 何かを想像することが嫌だったし、試してみてもうまくいけなかった。

 思い切ってタオルケットを捲ると、スウェットと下着を下し、目を瞑って握った。

 これは男の義務だ、身体の健康のための義務。

 ティッシュを取って、余計な事を考えないように手で刺激を与える。

 いつも始まりは気持ちがいい、今日はできそうだって思う。

 枕に後頭部を押し付けて、彷徨う快感を捕まえる。

 暗闇の中で背後に人の気配を感じる。荒い息、強引に引き寄せられる鮮明な記憶。

 額が熱くなってくる。声を噛み殺して手を速めていく。

 大きな手のひらがユニフォームの中に入って、汗で濡れた身体を滑っていく。

 嫌だ、違う、されたくない。そんなのしたくない。

 心は迷うのに手は止められない。

 気持ちはいい、でもこの先が分からない。

 俺はレコメンドが怖くて今だにそういった検索をしたことがない。男女のそれも、同性のも。

 それを見て興奮する自分を目の当たりにする勇気が出なかった。だからいざこんな行為に耽っても、強引にさらっていかれるような曖昧な想像しかできない。

 乱暴にされるのは嫌なのに、でもきっとされれば気持ちよくなってしまうんだろうな。

「んー」

 気持ちの拠り所に迷いながら手を動かす。終わりの気配に肌がざわついて、身体がじんわりと汗ばんで力が入る。息が詰まって、自然と眉が寄った。

「んん……」

 想像力が追いつかず、当ての無い手に身体を好きに撫で回される。

 違う、ちゃんと好きな人にされたい。全部を委ねられる大好きな人に。

 目を見て、キスをして、それから抱きしめられて、安心して揺らされて、気持ちよくなりたい。


――高瀬。


「うわっ!」


 頭の中で先生の声が聞こえて、その瞬間いってしまった。


 しばらく何が起こったか理解できなかった。したくなかったと言うべきかもしれない。でも、しない訳にはいかなかった。

 身体が勝手にエビみたいに丸まった。

「最低だ……」

 ティッシュに吐き出した、後悔という名を付けられた精液をぎゅうっと閉じ込めて、急激に気持ちが冷え込んでいった。

 快感に喜んだ心臓が、ドクドクと音を立てて強い失望を身体の隅々に送り届けている。


 ティッシュを戒めとして部屋の壁にでも貼り付けておくべきだと思った。一瞬本気でやりかけたけど、親が心配するといけないから、後悔だけを心に引き取ってゴミ箱に投げ入れた。

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