第32話 優しい中屋先生
家に着くと六時を回っていて、丁度出来上がっていた夕食を食べてお風呂に入った。
「乾燥してるんじゃない?」
洗面所で髪を拭いてると、鏡の中に母さんが現れて俺の顔をつついてきた。
「これ使って」
言われるがまま赤いボトルの化粧水を顔に叩く。
「最近いるじゃない? 美容系男子」
「うん? うん」
気になったら動揺しそうだから見ないようにしてる類のやつ。
「男も綺麗な時代だと母さんも思うの、女だってきったねー男は嫌よ」
「きったねーってほどじゃないよね俺」
「うん、でも乾燥はダメ。良さそうなの買っといで」
「これ使っちゃダメなの?」
「それは若い子には強すぎる」
「え」
強い化粧水の染み込んだ自分の顔をまじまじと観察した。確かに過剰につやつやしている。
「調べてみる」
「いいよいいよー」
母さんは歌って洗面所を出ていった。
一人っ子の俺は甘やかされている。お菓子は好きに選べるし、誰かに食べられることもない。毛玉が出来たり、丈の合わなくなった服を着せられたこともなかった。だから俺もさほど駄々をこねた記憶がない。
乾燥した俺の肌を母さんは見逃さない。田中が言う育ちがいいというのは、注意して見て貰えているということだ。おかげでか副作用か、俺には物欲がない。
ただ、こんな俺にも欲しいものがある。恋人だ。
あまり詳しく想像を試みたことはないけど、大きくて逞しい身体にぎゅうっと包み込まれてみたい。
止せばよかった、考えただけで悲鳴を上げそうなほど恥ずかしい。
「はぁ」
気を配って育てた息子が男が好きだと分かったら、母さんはどう思うかな。
美容系男子になれば、それは『予感』になるのかな。
自然な化粧をしたり、ファッションにもっと気を遣って、キレイな男になったら、いつか彼氏を連れてきても驚きは和らぐだろうか。
……関係ないか。今どきは女子にモテるためや、ただ化粧が好きな男はたくさんいる。
カミングアウトには、どんな布石が有効なんだろうな。
テレビを見ながらアイスを齧っていると父さんが帰ってきた。
「おかえりー」
「疲れたー」
リビングに入ってきた父さんが、「なんか顔がピカピカしてるな」と俺を笑った。
「母さんの化粧水使ったから」
「母さんこんなにピカピカしてないだろ、若さかな」
「私もピカピカだったわよ! 昔は!」
キッチンから抗議がきて、父さんがまた笑った。
テレビが八時の番組を始めて、アイスの棒を捨てて、夕食中の父さんにリモコンを渡すと二階に上がった。
机に向かって課題に取り組む。
ベッドに横になりたかったけど、そのまま寝てしまうだろうと思った。
いつもより疲れを感じた。気疲れかな。でも田中と話せて楽しかった。これからはもう少し人付き合いに積極的になれるかもしれない。普通の人付き合いに。
課題を終わらせて自由課題に手を出す。田中に頼まれた化学のテスト範囲をまとめることにした。人のためになると思うとやる気が出る。
あー、早く先生と話したい。
時計を見ると九時になるところだった。
先生からの電話は俺がメールを入れた後に掛かってきたりこなかったりする。
先生から予告されたのは初めてだけど、俺からメールをした方がいいのか、それとも待った方がいいのかな。
カバンを膝に乗せて手を突っ込んだ。
「あれ、どこだっけ」
漁るも何処にもスマホがない。瞬間、田中の部屋のテーブルに置いたのを思い出した。
「バカかよ……」
絶望してカバンに頭を突っ込んだ。
田中に連絡をしようにも手段が思いつかない。親の番号さえ空では言えない。
「あー」
田中はともかく、せめて先生の番号くらい控えておけばよかった。
明日まで待つしかないか。でもせっかく先生から電話が来るのに。話したい事がたくさんあったのに。
「電話、出なかったら心配するだろうな」
カバンの中で呟いて、昼間の慌てた声を思い出す。
会議まで抜け出して電話をくれたなんて、俺なんで笑っちゃったんだろ。ちゃんと謝れば良かった。
どうしよう、やっぱり田中の家に取りに行こうかな。スマホくらいで大袈裟かな。父さんに車を出してもらう? でもたかがスマホだし……。
明日だよな、今頃はもうお風呂とかも入ってるだろうし。
逡巡しながら、課題のノートに向かい合う。集中力が続かなくて、何度も同じ文章をなぞった。
「あー」
九時半になって、さっき出ていれば田中の家に着いていたのにと思うと声が出た。
──と、家のチャイムが鳴った。近所の人だろうか。
「祐ー! お友達ー!」
「え」
「夜分にすみません」なんて声がする。階段を降りると、ジャージ姿の田中がいた。
「忘れたろ」
その手にあるのは愛しい俺のスマートフォン!!
「ありがとう! よく家が分かったね!」
感動が溢れ出しながらお礼を言う。田中から汗の匂いがした。
「市の体育館に柔道に行ってんだけど、そこに三旗中の田井中って奴がいてさ」
「……たいなか」
聞き覚えのある名前だ。
「小学生の頃たまに遊んでたね」
母さんに言われて、ようやく顔を思い出す。あれは低学年の頃だ。
「田井中が高瀬と遊んでたことあるって言ってたから、家知ってっかなって」
「ありがとう、遠回りなのに」
「車だから良いんだよ」
「車でもだよ」
「ありがとうね、田中君」
母さんもうやうやしくお礼を言う。
「高校生からスマホ取り上げたらなにも残らないんで!」
田中がキリッと言って、三人で笑った。
いいと言う田中を無視して外に出る。オフロード向けっぽい、いかつい車が停まっていて、「お父さん?」と聞くと「兄貴」と返ってきた。
運転席の窓が開いて、アッシュグレーの髪色をした眼差しが涼しい男の人が、太い腕で俺に手を挙げた。
田中には似ていない。お父さん似かな。
「こんばんは!」
「こう見えてアロマ女に尻に敷かれてるから」
田中が言いながら助手席に乗り込む。
「うるせえよ」
「すみません、わざわざありがとうございました」
「いーよー。今度ツレのサッカーチームの助っ人頼むわ」
ハスキーな声が降ってきて、大きな手が俺の頭を撫でた。
いけない、グッときてしまった。
「走り込んどきます!」
割と本気で返事をすると、「無視していいよ」と田中が笑った。
「じゃ、また明日」
「なんかお礼する!」
「化学頼むわ。あと、今度高瀬の家に遊びに来て良い?」
「うん!」
いかつい車を見送って、玄関ドアを開けながらスマホを開いた。
ベンチに座って、靴を履いたまま通知をチェックする。
菊池と熊田が「新作ドーナツが美味しいぞ」と顔に加工の入った写真を貼り付けていて、田中に女子かよと突っ込まれていた。『食べてみる』と打って、ドーナツだけの写真を鶴見たちのグループに転送した。林さんはドーナツが好きだ。
フットサルのグループには今度の大会の詳細と、間に萩原さんの新しいTシャツの写真が貼られていた。
「ねこねこはらぺーにょ」
このTシャツはどこで売ってるんだろう。
くすっと笑って先生とのメッセージ画面を開く。
『田中の家にスマホ忘れてきた』
『取りに行ったの?』
すぐに返事が来て、嬉しがる唇を噛む。
『田中が柔道の帰りにお兄さんの車で届けてくれた』
『よかったね、もう電話していいの?』
「え」
『うん』
打ってから、慌てて靴を脱いで階段を上がった。
時間はまだ十時前だった。いつもよりずっと早い。こんな時間に俺に電話なんかしていいのかな。いやむしろ早い方がいいのか? うだうだ思っていると着信が来た。
「先生?」
「はいはい?」
「あの! 今日はごめんなさい、紛らわしいメッセージ送って」
勢いよく階段を登ったせいか心臓がドキドキしている。謝罪の気持ちから背筋を伸ばしてベッドに腰を下ろす。
「いや、俺がちゃんと読んでなかった。会議中だったからね、ちょっと目が滑った」
「笑っちゃったけど後で反省した。本当に怒ってない?」
「怒ってないよ」
「良かった」
先生って怒ったりするのかな、中学の頃も見たことがない。慌てた先生も初めてだった。
笑ってしまった罪悪感がまた胸に湧いた。
「今日は田中君の家に行ったの?」
先生が室内を歩いて移動する音がする。
先生はどこで電話をしているんだろう。電話の向こうはいつもとても静かだ。まだ奥さんも起きてる時間だよな、それとも遅い時間に働いてる人なのかな。
プライベートはあんまり聞いちゃいけないような気がしてる。なんでかは分からないけど。
そんなことを考えていると、会話のテンポがズレてしまった。
「ん、うん、急に誘われて。行ったら家の人がいなかったから、緊張を紛らわせたくて先生にメールしたんだ」
「ふーん。勃起しなかった?」
言われて盛大に噴き出した。
「しなかった! それ酷いよ!」
「一応確認しただけ」
まるで悪びれがない。本当にこの人に辛い恋なんてあったのかな。
「田中の中学のアルバムを見たよ」
「あーそういうの俺もあったなあ」
「先生はアルバム見られるの恥ずかしい?」
「いいや、毎年みんなのアルバムに写るしね」
「昔のアルバムの話だよ」
「分かってるよ」
どうやら過去も現在も見られて恥ずかしい姿はないらしい。
田中の指さし写真の話を聞いてもらうと、「それは恥ずかしいって思うかもね、当人は」
「えー、俺は羨ましかったけどな。先生も同級生に彼女いた?」
「え?」
あ、しまった、プライベートな事を聞いてしまった。
「……まあ、高校生の時はね」
「ふーん、いいなあ」
田中の家で心の中に留めて置いた分、素直に羨ましがった。
「いいよねえ」
まるで他人事のような先生に笑って、質問があったことを思い出した。
「あともう一個」
「うん」
息を吸って、思い切りプライベートな質問を切り出す。
「先生は、奥さんとどうして結婚したの?」
「……どうしてって?」
声がぐっと小さくなった。やっぱり聞いちゃ駄目だったかな。
「えーっと、田中がね、そのアルバムの子と遠距離になって別れちゃったんだって」
「うん」
先生に田中とさくらさんの関係の終わりを話す。
「好きって気持ちが距離ができただけで消えちゃって、不思議だって言ってた。そういう経験をした田中の、どうやってこの人への感情は消えないって確信して、結婚を決めるのかなって、そういう、疑問」
言いながらもじもじとしてしまった。答えてくれるだろうか。
「んー、結婚をどう捉えるかによるかな」
「どうとらえるか」
「田中君みたいに恋人の遠距離なら、想い続けるのは簡単じゃないと思う。会えないと好きは不安に変わる。寂しさとか、相手への不信感、信じられない自分を責めたりもする。好きだからそうなるんだけど、そのうちそんな気持ちでいっぱいになって、その人との関係が幸せでなくなる。お互いにそう感じたら、やり直すのは難しいだろうね、何せ距離があるわけだから」
「そっか」
「人生には色々ある。特に若い時は、見る物のほとんどが新しいことばかりだろ? 新しい場所、出来事、出会い。それで、意図せず相手を忘れてしまうことがある。気が付いたらその人が居なくても楽しくやれてるなって思ったりして」
ああ、きっと田中が言ってたのはこれだ。
田中さくらさんが楽しい毎日で忙しくて、田中を思い出さなくなったんだ。実際は分からないけど、田中はそう感じた。
きっと辛かっただろうな、好きな相手が自分に興味を失うなんて。俺だって自分から別れを告げると思う。そしてそれに罪悪感を感じるんだ、先に振られていたのは自分なのにって。
「距離があると駄目になるもんなの?」
「必ずそうなるわけじゃない、こうして電話ができる。好きな時に好きなメッセージを送れる。助けて! とかね」
「ごめんって!」
蒸し返されて謝罪を念押しすると、電話の向こうで笑い声がした。
「忙しそうな彼女に遠慮して、連絡もしにくかったって言ってた」
「気を遣いすぎちゃったのかな。でも気にせず連絡し続けて、こっちは忙しいのに分かってくれないってなる場合もあるしね」
「恋愛のさじ加減難し過ぎない?」
「相性とかタイミングとか、運命的なものも関係するんだと思うよ」
「そっか」
ごろっとベッドに仰向けになった。
運命ならしょうがないって田中は納得できるかな。でもそれを俺が言うのは違う気がするな。
「あ、それで結婚は? 捉え方って?」
「そうだなあ、それも相性の話になると思うけど、そばに居ないと幸せを感じられない人もいるし、遠くに居ても元気でやれてるならよしって人もいる。何せ生きていくには働かなきゃいけないからね。目指す生活水準があるなら収入も関わるし、労働形態とか、勤務時間とか、仕事にどれくらいの比重を置くかとか、そばに居たいって人が、船乗りや宇宙飛行士と結婚するのは上手くいかないだろうし――」
「いやちょっと待ってよ、恋愛より難しいってこと?」
「簡単だと思ってたの?」
「俺はまだ恋愛にたどり着いてないんだってば!」
いや、結婚はしないけど。
「田中にはなんて言えばいいの?」
「そうだな、ありきたりだけど、次は田中君がしたいと思う通りにコミュニケーションを取ってみたらいいと思うよ」
「コミュニケーション」
「そう。今日あったことを話して、些細な事でも気にかけて、気にかけられて、それを嬉しいって感じながら、また明日もそうできることに感謝して、そうやって毎日を大切にしていれば……」
ふいに先生の言葉が途切れた。何かを見つけたみたいな唐突さだった。
「先生?」
どうしたんだろう、奥さんが帰ってきたのかな? 耳を澄ませてみたけどなにも音はしない。
「あ、うん……なんでもないよ、なんだっけ?」
「毎日を大切に?」
「そう、遠くにいるなら電話やメッセージを送り合って、声を聞いて、笑い合って。そうできる相手がいることに、感謝すればいい」
胸がほわっと暖かくなった。
「それって、俺が先生に思ってるやつだ」
言ってから結婚の話だったのを思い出して、しまったと舌を噛んだ。
「そうなの?」
聞き返されてなおのこと恥ずかしい。けど、ちゃんと感謝は伝えたいと思っていた。
「えっと俺、先生に凄く感謝してるんだよね、あの日からずっと……っていうか中学からかな。最近はなにかがあっても夜に先生に話そうって思うだけで楽になるし、孝一の事とかも、全部先生が聞いてくれるから、楽できてるなって思う」
「そうだったんだね、よかった」
うん、よかった。よかったのは俺なんだけど。
きちんと感謝を伝えるのって、ものすごく照れくさいな。
「今日、田中の家にスマホ忘れて動揺した。せっかく先生から電話が来るのにって。あと、出なかったら心配するかなって」
「そうだね、心配したと思う」
勢いで仕事中にメールをしてしまった、あれは絶対に良くなかった。
「俺はたくさん助けてもらってるけど、先生には迷惑ばっかかけてる」
「そんな風に考えなくていいよ」
「多分、余裕があるから考えられるんだ。先生の時間たくさん分けてもらって、話を聞いてもらってるから。最近は人に見られることもなくなってきたし、友達と寄り道したり、フットサルも始めた。先生に話したいことは増えてくけど、内容はただの近況で、そんなの全部話してたら先生の時間が無くなっちゃう。だからもう少し頼らないようにしなくちゃなって思ってる」
言いながら寂しい気持ちになった。そうしなきゃいけないのに、こんなこと言いたくない。でも今だって先生の時間を奪ってる。
「そうしたいの?」
先生が寂しそうに言う。いや俺の耳にそう聞こえてるだけだ。
「したいっていうか、俺は迷惑を掛けてる側だから」
「迷惑じゃないって言ってるのに?」
「だってそれは、俺の為に嘘ついてるかもしれない」
「嘘」
先生は呟いて黙ってしまった。
頼っておいて嘘つき呼ばわりは失礼すぎだろ!
「いや! だから! 先生は俺じゃなくて、奥さんとの時間を大切にしなきゃいけないから!」
そうだ、先生はいつも静かな場所に移動してくれている。奥さんから離れて。そばに居たいタイプの奥さんだったら、俺はすでに敵視されているかもしれない。
「高瀬は、俺から卒業していくの?」
「そ、卒業?!」
卒業って言葉は考えてなかった。先生のゴールはそこなのかな、俺はいつかきっぱり先生から離れなきゃいけないのかな。
思っていたよりもちゃんとした終わりを示されて、眉間に皺が寄ってしまった。
まあ、と先生が微かに笑ったような声を出した。
「俺が必要なくなったら、自然と連絡しようと思わなくなるよ」
「……それって、田中の彼女みたいに俺がなるってこと?」
「そう。今よりももっと毎日が楽しくて、誰かや何かに夢中になって、話したい人もたくさん現れて」
「夢みたいなこと言うね」
「きっとそうなるよ。まあならなくても、その時は俺がいるから俺は好きなことが言える」
それって、先生は田中みたいに寂しくは……ならないか。俺はただの教え子だ。友達でもない。
「何も気にしなくていいんだよ」
「……わかった。でも、今日みたいに仕事中には送らない」
「時間も内容も気にしなくていいよ、都合がいい時に見るからね。今回は俺が見間違えただけだよ」
返事に迷って口を閉じた。
俺もできたら今まで通りがいい。でも『今まで』は、俺が甘えた結果、節度を失いつつある。仕事中にまで侵食していいんだろうか。いや、そもそもいつだって勤務時間外だ。
「高瀬、いいんだよ。緊急の時は電話だってしていい。うちの学校の番号教えようか?」
がっくりと首が折れてしまった。
「先生はちょっと俺を甘やかしすぎてると思うよ」
「そうかな」
「なんかもうカウンセラーみたいになってるし」
空気を擦るような笑い声がして、耳がくすぐったい。
「カウンセラーねえ、無資格だからあんまり参考にしすぎないようにね」
先生がカウンセラーだとしたら対価はなんだろう。対価があればずっと聞いてもらっても遠慮しないでいられるかな。いや先生はカウンセラーじゃないけど。
「俺にもできることがあったらいいのに」
「そんなの要らないよ」
「うん、残念だけど何も思いつかない」
手の平を眺めてみても、悲しいくらい何もない。
俺はただの学生、無価値な存在。足踏みばかりして、ちょっと何かが起こるたびに先生に話を聞いてもらって、慰められたり励まされたりしてる子どもだ。
「楽しいよ」
「え?」
「高瀬と話すのは凄く楽しい」
「ほんと?」
「悩めるゲイの青年」
「あ、そういうこと?」
「いや、まあそういう側面もあるけど、中学の時から高瀬はちょっと特別な生徒だったから」
先生は俺の心が見えているのかな、無価値だと思いだした俺に、すかさず特別の称号をくれる。
「特別って?」
「来ていきなり人前で勃起したなんて言う生徒は、後にも先にも高瀬だけだよ」
「そういう意味かよ!」
ハハハと笑う先生に、あの時は眠たかったんだと言い訳したいけど、そんなのはもうどうでもいい。
「今思うと大事な告白だったよね」
「うん、まあ」
階下でドアの閉まる音が聞こえた。階段を上がってくる足音がする。母さんだな。
「ごめんなさい、もう一時間も経ってた」
「良いんだよ、話したいことがあるなら」
「ううん、これ以上話してたら奥さんに怒られちゃうし」
「怒らないよ」
「先生、女性って溜め込んで急に爆発するって言ってた」
「それは怖いな」
「先生と話せなくなったら嫌だから」
「そんなことにはならないよ」
「節度が大切なんで」
先生は笑って、「良い子だね」と言った。
先生は時々このフレーズを使う。小さな子どもになったみたいな気がして、ちょっとくすぐったい。
「おやすみなさい」と言うと、いつも通り「おやすみ」と返してくれる。
このやり取りも俺の睡眠を促す特別な響きになっている。
通話を切ってリモコンで電気を消すと、暗闇の中で目を瞑った。
頭の中で、先生の「良い子だね」と、田中のお兄さんのたくましい腕に頭を撫でられた感触が思い出されて、子どもに返ったような気持ちで眠りについた。
いくらでも話していていいのに。思って直ぐに胸が痛んだ。
もう居ない妻を気遣わせているのは俺の嘘だ、それなのにもっとわがままになってくれればいいと思う。
頼って、甘えて、もっと必要として欲しい。
「ああ」
うっとおしい願望を吐きだして顔を覆った。
昼間の高瀬からのメール。
文面を読み間違えて、男の家に連れ込まれたのかとパニックになった。
学生の出会い系アプリでのトラブルについて、丁度会議で扱っていた所だったから、瞬間的に思い込んでしまった。
学校に行けなくなった子や、人間関係が上手く行かない子がそういうものに手を出して、悪い大人に誘い出されて関係を持たされたりすると。
実際の事案の書類は顔を顰めずには見ていられなかった。
家庭環境に問題がある場合もあったが、思春期ゆえの自立心が、見ず知らずの人とのやり取りを特別な出来事のように感じさせていた。
勉強、容姿、友人関係。部活の先輩からのいじめや、将来、性の悩み、性自認や、同性愛ついて。
思春期の気掛かりは、身近な大人に話す方がためらいの大きいものばかりだ。一言でくくれないことも多い。大人だって常に正しく寄り添ってやれるとは言えない。自分では感じたことのない悩みも多くある。
不安でいっぱいなときに全てを分かっているかのように寄り添われたら、頼ってしまってもしょうがない。
孤独な心を惹きつける言葉で信頼させて、連絡を重ねて。
俺がやっていることと何が違う?
自分の真ん中にある必要とされたいという強い欲求が、遠慮して離れようとした高瀬を思わず引き留めていた。
自分にも何かできたらと言って、でも何もできることがないと落ち込んでしまった高瀬に、『特別』だと言った自分に、ゾッとするほどの嫌悪感を抱いた。
嘘を吐かなければやっていけないことを心苦しく思っている彼に、俺は嘘で寄り添っている。
上向き始めた高校生活に、自分が不必要になる日をにわかに恐れ始めている。高瀬が、孝一君の好きな女の子を恐れたように。
恥じ入るべきだ、こんなのは。
嘘の上に立つ自分は、いつ嘘が弾けて孤独の底に落ちるんだろう。高瀬とのやり取りに安らぎを感じながら、同時に恐怖も感じている。
高瀬を巻き込みたくないのに、もう既に嘘の上に引き込んでしまっている。
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